第三章 第二十三話 神獣の名
鈴葉と別れてから、アレンは王都へ続く街道を一人で歩き続けた。森は少しずつ遠ざかり、左手に残っていた濃い緑も、やがて低い丘の向こうへ沈んでいく。道を行き交う人の数は増え、王都から運ばれてきた荷物を積んだ馬車や、反対に地方へ向かう商人とも何度かすれ違った。それでも、アレンの頭から離れなかったのは、銀色の九尾と月鐘鈴葉だった。
似ていると思う理由はいくつもあった。森を見るときの静かな目、傷ついた生き物への接し方、周囲の気配を人より早く捉える感覚、そして何より、九尾の話を聞いてもほとんど驚かなかったこと。しかし、鈴葉自身が言った通り、見たい答えに合わせて目の前のものを決めるわけにはいかない。だからアレンは、疑問を疑問のまま胸に残した。
午後を過ぎる頃、街道の先に古い石造りの休憩所が見えてきた。屋根の一部は崩れ、脇には長い年月を経た小さな祠がある。旅人が置いていったらしい花や木の実が石の前に並び、背後には細い林が広がっていた。王都まではもう半日もかからないと聞いていたため、アレンはそこで水を飲むことにした。
腰を下ろして間もなく、林の方から葉を踏む音が聞こえた。警戒して顔を上げると、現れたのは見覚えのある銀色と赤の髪だった。
「また会ったね」
「今度は驚かないの?」
「三回目だから」
「慣れるのが早いわね」
鈴葉はそう言いながら、祠の前に置かれた木の実へ目を向けた。触れることはせず、少し離れたところに立っている。
「ここ、知ってるの?」
「昔からある場所よ」
「何を祀ってるの?」
「森にいるものへ、旅の無事を願う場所だったらしいわ。今は意味を知らずに供える人の方が多いけど」
「森にいるもの?」
「気になる?」
「鈴葉がそういう言い方すると、余計に」
鈴葉は小さく笑い、祠の向こうに続く林へ視線を移した。
「昨日、次に会っても同じものを知りたがっていたら考えるって言ったわね」
「覚えてる」
「まだ知りたい?」
その問い方は、これまでのからかうような調子と少し違っていた。アレンは水筒の栓を閉め、鈴葉をまっすぐ見る。
「知りたい。銀色の狐のことも、鈴葉のことも。似てると思うところはあるけど、勝手に決めたくない」
「それなら、少しは話してもいいかもしれない」
「本当に?」
「ただし、見たあとで怖くなっても知らないわよ」
「そんなに怖いものなの?」
「人によるでしょうね」
鈴葉は祠の脇を通り、林の中へ伸びる細い道へ入った。アレンは一瞬迷ったが、今回は彼女自身が来るよう促すように振り返ったため、少し距離を取って後を追った。
道は長くなかった。木々の間を数分進むと、円形に開けた場所へ出る。中央には倒れた巨木があり、その周囲だけ若い草と小さな花が密集していた。風が通るたび、葉が擦れ合って柔らかな音を立てる。
「ここなら誰も来ない」
「何を見せるの?」
鈴葉はすぐには答えなかった。アレンの前へ数歩進み、ゆっくり振り返る。
「最後に確認するわ。アレンは、お母さんから聞いた七つの物語を本当だと思ってる?」
「前までは、物語だと思ってた。でも今は分からない。銀色の九尾を見たから」
「もし、その物語の一つが本当に目の前にいたら?」
胸の奥が大きく鳴った。鈴葉の黒い瞳、その中心にある赤が静かにアレンを見ている。冗談を言っている顔ではない。
「……会ってみたい」
「怖くても?」
「たぶん驚く。でも、ずっと会いたかった」
鈴葉は少しだけ目を細めた。その表情には昨日までの軽い笑みとは違う、どこか懐かしむような柔らかさがあった。
「本当に変な人」
「それ、昨日から何回目?」
「褒めてるのよ」
言葉が終わると同時に、林を抜ける風が強くなった。鈴葉の銀色の髪が持ち上がり、鮮やかな赤の筋が光の中で揺れる。足元の草が一斉に伏せ、倒木の周囲に咲いていた小さな花が風とは逆の方向へ顔を向けた。
アレンは反射的に一歩下がった。
鈴葉の輪郭が淡い光に包まれる。人の身体が突然消えるような変化ではなく、光の向こうで形そのものがゆっくり大きくなっていく。銀色の髪は長い毛並みへ変わり、細い腕と脚は巨大な四肢へ、頭上の輪郭は尖った耳を持つ獣の形へ移っていった。
光が薄れたとき、そこに立っていたのは、アレンが森で何度も見た銀色の狐だった。
巨大な身体。森の影の中でも白く浮かぶ銀の毛並み。そして背後にゆっくり広がる九本の尾。
アレンは声を失った。
疑っていなかったわけではない。それでも、考えていたことと、目の前で人が九尾の狐へ姿を変える光景を見ることはまったく違う。森で鹿を見守っていた目も、根を操って火を止めた姿も、今ようやく鈴葉という一人の女性と重なった。
「……鈴葉」
呼ぶと、銀の狐の耳が動いた。その反応だけで十分だった。
「本当に、同じだったんだ」
狐は静かにアレンへ近づいた。以前と同じ巨大さなのに、正体を知ったことで恐怖より驚きの方が強い。アレンは逃げず、剣にも触れなかった。
銀の狐の周囲で草が揺れ、足元から小さな芽がいくつも顔を出した。折れていた細い枝にも柔らかな葉が開き、円形の空間に緑の匂いが満ちていく。
次の瞬間、再び淡い光が巨体を包んだ。九本の尾が光の中へ溶け、輪郭が縮まり、銀色と赤の髪を持つ女性の姿へ戻っていく。
鈴葉は元の姿になると、アレンの顔を見て少しだけ首を傾げた。
「思っていたより静かね」
「驚きすぎて何を言えばいいか分からない」
「逃げないの?」
「逃げる理由がないよ。森で何度も助けてくれたのも鈴葉だったんだろ?」
「助けたつもりはないわ。森を守っただけ」
「それでも僕も巻き込まれずに済んだ」
鈴葉は否定せず、代わりに倒木へ腰を下ろした。アレンも少し離れた場所に座る。
「じゃあ、あの銀色の狐が鈴葉なら……鈴葉は何なんだ?」
「ずいぶん直接聞くのね」
「ここまで見せてもらって遠回しに聞く方が変だろ」
「それもそうね」
鈴葉は空を見上げた。木々の隙間から差し込む光が、銀色の髪に落ちる。
「人間が今の国や町を作るより、ずっと前からこの世界にはいくつかの存在がいた。森、水、空、炎、石――世界の形がまだ今ほど定まっていなかった頃から、生きていたものたち」
アレンは何も挟まずに聞いた。
「あとから人は、そういう存在をまとめて神獣と呼ぶようになった」
「神獣……」
聞いたことのある言葉だった。母の物語の中でも何度か出てきた。ただし幼い頃のアレンにとって、それは英雄や魔法と同じ、昔話のための言葉だった。
「じゃあ、鈴葉は……」
「ええ」
鈴葉はアレンへ視線を戻した。
「私は七柱の神獣の一柱――キツネ」
言葉が、森の静けさの中へ落ちた。
「キツネ……」
「鈴葉って呼んでくれた方が好きだけどね」
「母さんの話に出てきた……」
そこまで口にしたところで、鈴葉が僅かに目を細めた。
「その話は、次にしましょう」
「どうして?」
「今、一度に全部聞いても整理できないでしょう?」
反論しようとして、アレンは口を閉じた。確かに今だけでも、人だと思っていた鈴葉が九尾の狐であり、さらに母の物語に登場した神獣そのものだと知らされたばかりだった。
「……それはそうかも」
「素直でよろしい」
「急に偉そう」
「神獣だから」
「そういう使い方するんだ」
鈴葉は楽しそうに笑った。
その笑顔だけを見れば、昨日まで街道で話していた銀髪の女性と何も変わらない。けれどアレンには、もう同じようには見えなかった。目の前にいるのは、母が幼い頃から語ってくれた七つの物語の一つに確かに繋がる存在だった。
少なくとも、母が語ってくれた銀色の狐には、名前があり、姿があり、今こうしてアレンの目の前で笑っていた。
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