第三章 第二十二話 鈴葉
銀髪の女性が森へ続く細道へ姿を消したあと、アレンはしばらく分かれ道に立っていた。追いかける理由はない。名前を聞けなかったことは気になったが、彼女自身が「次にちゃんと会ったとき」と言った以上、無理に呼び止めるのも違う気がした。
やがて王都へ続く本道へ向き直り、歩き始める。森は左手に残っていたが、道の周囲は次第に明るくなり、遠くの丘の向こうには薄い雲が広がっていた。昨日までのような強い視線も、灰色の外套を思わせる足音も感じない。それでも尾行らしい気配については警備所へ伝えてある。今は振り返る回数を増やすより、目の前の旅を続ける方がよかった。
昼前になると、街道は浅い川へ差しかかった。古い石橋の脇には水を汲める場所と小さな休憩台があり、数人の旅人が荷物を下ろしている。アレンもそこで休もうと近づき、橋の欄干にもたれて川を見ている銀色の髪に気づいた。
「……また会った」
声に出すと、女性が振り返った。銀色の髪に混じる赤が陽光を受け、その目の中心にある鮮やかな赤も昨日よりはっきり見える。
「本当に会ったわね」
「そっちが驚くんだ」
「少しくらいは驚くでしょう。同じ道を歩いていたわけじゃないんだから」
「森に入っていったのに、僕より先にいるけど」
「近道を知ってるの」
「それ、昨日教えてくれてもよかったんじゃない?」
「あなたが王都へ急いでいるようには見えなかったもの」
返し方まで昨日と同じで、アレンは思わず笑った。女性はその顔を見て僅かに眉を上げる。
「何?」
「いや。ちゃんとまた会ったから」
「そうね」
「約束、覚えてる?」
女性は一瞬だけ黙ったあと、橋の欄干から身体を離した。
「月鐘鈴葉」
「え?」
「名前。月鐘鈴葉。鈴葉でいいわ」
今度は聞き逃さないよう、アレンは頭の中でもう一度繰り返した。
「鈴葉」
「何度も呼ばなくても聞こえてる」
「確認しただけ」
「あなたはアレン・ヴェイレン。覚えてるわ」
「僕よりちゃんとしてるね」
「自分から名乗った人の名前くらい覚えるわよ」
そう言いながらも、鈴葉の口元には小さな笑みがあった。
二人は休憩台の端へ座った。アレンが水を飲み、持っていたパンを取り出すと、鈴葉は荷物らしいものをほとんど持っていないことに改めて気づく。腰に小さな袋が一つあるだけで、旅を続けるための寝具も大きな水筒も見当たらない。
「鈴葉って、この辺に住んでるの?」
「近いと言えば近いわね」
「また曖昧」
「全部答えないと駄目?」
「駄目じゃないけど、気にはなる」
「なら、気にしていればいいじゃない」
「それが一番困る答えなんだけど」
鈴葉は楽しそうに目を細めた。
アレンはパンを半分食べてから、昨日のことを思い出した。
「そういえば、昨日言ってたよね。見たものを誰かの言葉ですぐ決めるなって」
「言ったわね」
「どういう意味だったの?」
「そのままよ。噂や昔話に合わせて目の前のものを見ると、見たい形にしか見えなくなることがあるから」
「銀色の狐のこと?」
「それだけとは言ってない」
「やっぱり知ってる?」
「何を?」
問い返され、アレンは言葉に詰まった。鈴葉は九本の狐の話を聞いても驚かなかった。森のことにも詳しく、怪我をした鳥へ触れたときには、銀の狐のそばで感じたものと似た気配さえあった。
けれど、それだけで何かを断定するなと本人に言われたばかりだった。
「……まだ分からない」
「それでいいんじゃない?」
鈴葉は川面へ目を向ける。水の流れる音の中で、銀色の髪が風に揺れた。
「アレンは、どうしてあの狐をそんなに気にしてるの?」
「母さんが昔、似た狐の話をしてくれたから」
「お母さんが?」
「子供の頃に七つの物語を聞いたんだ。火の鳥とか、空を渡る獣とか、水にいる大きな蛇とか。銀色の九尾も、その一つだった」
鈴葉の視線が、ほんの僅かに止まった。
「七つ……」
「うん」
「全部覚えてるの?」
「細かいところは抜けてる。でも、小さい頃は何度も聞いてたから。いつか全部に会ってみたいって、本気で思ってた」
「今は?」
「今も、できるなら会いたい」
迷わず答えると、鈴葉はしばらく何も言わなかった。からかうでもなく、呆れるでもなく、アレンの顔をじっと見ている。
「変?」
「少し」
「やっぱり?」
「でも、嫌いじゃないわ。そういう夢」
その言い方が思ったより柔らかく、アレンは返事をするまで少し間が空いた。
「ありがとう」
「まだ叶うとは言ってない」
「そこは分かってるよ」
休憩を終えると、鈴葉も同じ方向へ歩き出した。王都まで行くのか尋ねても、「途中までは」としか答えない。昨日より名前一つ分だけ距離は縮まったはずなのに、分からないことの方が多いままだった。
それでも、一人で歩いていた朝より道は短く感じた。鈴葉は旅の話を聞きたがり、アレンがラークホロウを出てから見た町や人々について話すと、ときどき細かな質問を挟んだ。セントールたちのことには興味を示し、歓楽の村で起きた事件については表情を曇らせたが、麗華の話になったときだけ反応が僅かに変わった。
「黒髪の女の人に地図をもらったの?」
「うん。麗華っていうんだ」
「麗華……」
「知ってる?」
鈴葉はすぐに首を横へ振った。
「同じ名前くらい、どこにでもいるでしょう」
「まあ、そうだけど」
答えは自然だった。それ以上聞く理由もなく、アレンは話を続けた。麗華から最初の地図をもらい、その先であの村へ着いたこと、再会したあと突然いなくなり、短い手紙だけを残したこと。鈴葉は黙って聞き、最後に一言だけ口にした。
「変わった人ね」
「鈴葉に言われると不思議な感じする」
「どういう意味?」
「鈴葉もかなり変わってるから」
「失礼ね」
言葉とは裏腹に、鈴葉は怒っていなかった。
午後に入る頃、街道は小さな丘の間を抜ける道へ変わった。人通りも少し増え、王都方面から来る商人の荷車と何度かすれ違う。鈴葉はそのたび自然に道端へ寄り、荷車が通り過ぎるまで周囲へ目を向けていた。
ふいに、その表情から笑みが消えた。
「アレン」
「どうしたの?」
「最近、誰かに追われた?」
足が止まりかけた。
「……どうして?」
「何となく」
「何となくで聞くこと?」
「答えたくないならいいわ」
アレンは昨日までのことを簡単に話した。村を出てから灰色の外套の人物が一定の距離を保っていたこと、分岐で姿を消したあとも草地や森から気配を感じたこと、道端には同じ色の外套が残されていたこと。
鈴葉は背後を振り返った。
「今はいないと思う」
「分かるの?」
「少なくとも、この近くには人の気配はないわ」
「耳がいいの?」
「あなたよりは」
「それ絶対、答えになってないよね」
「答えたくないこともあるの」
昨日と同じ言葉に、アレンはため息をついた。それでも鈴葉が警戒している様子ではないことに、少しだけ肩の力が抜ける。
しばらくして、森へ続く別の細道が現れた。鈴葉はそこで足を止めた。
「私はこっち」
「また森?」
「好きなの。森」
「それは何となく分かってきた」
鈴葉は細道へ入る前に振り返った。
「王都までは、もう迷わないでしょう」
「昨日もそう言われた気がする」
「迷いそうなの?」
「迷わないよ」
「なら安心」
アレンは少し迷ってから、もう一つだけ尋ねた。
「次に会ったら、今度は何を教えてくれる?」
「随分欲張りになったわね」
「名前を教えてくれたから」
「そうね……」
鈴葉は考えるように視線を森へ向け、それから黒い瞳の奥に赤を宿した視線を、アレンへ戻した。
「次に会ったとき、あなたがまだ同じものを知りたがっていたら、そのとき考える」
「また曖昧だ」
「嫌い?」
「慣れてきた」
鈴葉は今度こそ声を立てずに笑った。
「じゃあ、またね。アレン」
「うん。また」
銀色と赤の髪が細道の奥へ遠ざかっていく。昨日とは違い、今度は呼び止めるための名前があった。それでもアレンは声を掛けず、その背中が木々に隠れるまで見送った。
月鐘鈴葉。
名前を一つ知っただけなのに、彼女に対する疑問は減るどころか増えていた。銀の狐のこと、森のこと、七つの物語を聞いたときの僅かな沈黙、そして追う者の気配を確かめるような感覚。
ただ、今はまだ答えを急がなくていい。アレン自身の目で見たことだけを覚えておけばいいと、鈴葉が言ったばかりだった。
アレンは王都へ続く街道へ向き直る。歩き出す直前、森の奥から一度だけ葉が大きく揺れる音が聞こえた。
振り返っても、そこに見えたのは木々の影だけだった。
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