第三章 第二十一話 銀髪の女
森を抜けた頃には、空の色が少しずつ夕方へ傾き始めていた。アレンは街道へ戻ってから一度も森の奥を振り返らず、次の休憩所を目指して歩き続けた。銀色の九尾が見せた力も、罠にかかっていた鹿も、火を使おうとしていた三人の狩人も、頭の中には残っている。それでも今やるべきことは決まっていた。見たことを、一人の判断だけで抱え込まないことだった。
街道沿いの小さな警備所へ着くと、アレンは罠の位置、三人の人数と種族、服装、油を染み込ませた布を使おうとしていたことを順番に説明した。対応した警備員は地図へ印をつけ、森へ入る巡回班へすぐ連絡を回すと言った。
「狐のことは?」
説明を終えたあと、警備員に尋ねられ、アレンは少しだけ迷った。
「大きな銀色の狐がいました。九本の尾があって……森の根みたいなものを動かして、火を止めたんです」
口にしてみると、改めて現実離れした話に聞こえる。しかし警備員は笑わなかった。
「九本の尾か」
「知ってるんですか?」
「いや。古い話なら聞いたことがある程度だ。あの森には、昔から変な噂が多い。迷った子供を街道まで戻した獣がいたとか、乱暴な狩りをした連中が翌朝には森の外へ放り出されていたとか」
「それって銀色の狐?」
「そこまでは知らん。噂なんて、話すたび形が変わるからな」
それ以上の答えは得られなかった。アレンも無理に確かめようとはせず、宿の場所だけ教えてもらって警備所を出た。
その夜は街道宿の小さな部屋で眠った。灰色の外套の人物についても警備員へ伝えたが、この宿まで追ってきたという報告はなかった。窓の外に誰かの影が立つこともなく、夜は静かなまま過ぎた。
翌朝、アレンは日の出から少し遅れて宿を出た。王都まではもう遠くない。街道を進めば、今日中には外壁が見えるかもしれないと宿の主人から聞いていた。
森はまだ道の左側に続いているが、昨日までのように両側から街道を包み込んではいない。右側には草地が広がり、その向こうには低い丘が連なっている。朝の空気は冷たく、歩くにはちょうどよかった。
しばらく進むと、前方に一人の女性が立っているのが見えた。
旅人にしては荷物が少ない。細身の身体に、紅葉を思わせる落ち着いた色合いの着物をまとい、腰まで届く銀色の髪には鮮やかな赤が混じっている。光の加減で染まって見えるのではなく、ところどころに本当に赤い色が走っていた。
女性は街道の端で森を見ていた。誰かを待っているようにも、ただ木々を眺めているだけのようにも見える。
アレンが近づいても、女性はすぐには振り向かなかった。
「おはようございます」
横を通り過ぎる前に声を掛けると、ようやく顔がこちらへ向いた。
黒に近い深い瞳。その中心だけに、はっきりと赤い色が浮かんでいる。
一瞬、アレンの足が止まった。
「何?」
「いや……ごめん。珍しい目だなって」
「初対面の女をじろじろ見るのが、あなたの村では挨拶なの?」
「そういうつもりじゃない」
「ならいいけど」
声は冷たいわけではない。むしろ、わざと少し意地悪に言って反応を見ているようだった。
アレンは軽く頭を下げ、そのまま進もうとする。すると背後から声が飛んできた。
「昨日、森に入ったでしょう」
足が止まった。
「……どうして分かるの?」
「靴」
女性はアレンの足元を指した。森の中でついた湿った土が、まだ靴の縁に残っている。
「街道だけ歩いていたなら、その土はつかない。この辺りの道はもっと乾いてるもの」
「よく見てるね」
「あなたが分かりやすいだけ」
そう言って、女性はようやく森から離れ、街道へ歩み出した。
「森で何をしていたの?」
「罠にかかった鹿を見つけて、それから……ちょっと色々あった」
「色々?」
「狩りをしてた人たちが森に火を入れようとしてた」
女性の表情が僅かに変わった。ほんの一瞬だったが、目の赤が鋭くなったように見えた。
「それで?」
「止まった。僕が止めたっていうより、別の……」
そこで言葉を切る。銀の狐のことを、会ったばかりの相手へ話す必要があるのか迷った。
女性はアレンの顔を見たまま、小さく首を傾げる。
「別の?」
「大きな狐がいたんだ。銀色で、九本の尾がある狐」
今度こそ驚くかと思ったが、女性はほとんど表情を変えなかった。
「へえ」
「それだけ?」
「何を期待してるの?」
「普通はもっと驚くかなって」
「世界は広いでしょう。大きな狐くらいいるんじゃない?」
「九本の尾があって、森の根を動かす狐が普通にいるなら、先に教えてほしかったよ」
女性の口元がほんの少しだけ緩んだ。
「それは確かに普通ではないわね」
笑ったのかと思ったが、すぐに元の落ち着いた表情へ戻る。
アレンは改めて女性を見た。銀色の髪に赤い色が混じっていること以外にも、どこか引っかかるものがある。視線の置き方、こちらを観察するような間の取り方。それが昨日の狐と似ている気がした。
しかし、それだけで人と獣を結びつけるのは馬鹿げている。
「あなた、王都へ行くの?」
「うん」
「一人で?」
「今は」
「今は?」
「昨日までは途中まで一緒に歩いてた人がいた」
「恋人?」
「違う。男だし、友達……かな。たぶん」
「たぶんって何?」
「知り合ってまだそんなに経ってないから」
「それでも一緒に歩けるなら、嫌いではないんでしょう」
「それはそうだけど」
女性は少しだけ前を歩き始めた。アレンと同じ王都方面だった。
「君も王都に?」
「さあ」
「さあ?」
「今はこの道を歩いてる。それじゃ足りない?」
「変な答えだね」
「あなたも似たようなものじゃない。王都へ行って何をするの?」
「見てみたい。世界を知りたいから旅してる」
「それだけ?」
「それだけじゃ駄目?」
女性はしばらく黙り、それから首を横に振った。
「別に。むしろ、その方が分かりやすい」
二人の間に短い沈黙が落ちた。旅人同士なら、この程度の会話で別れても不思議ではない。それなのに女性は速度を変えず、アレンと同じ歩調で進んでいる。
森から鳥の声が聞こえるたび、女性の視線がそちらへ向く。その動きが妙に自然で、音の位置を考えるより先に反応しているように見えた。
「森が好きなの?」
「嫌いではないわ」
「さっきずっと見てたから」
「あなたも昨日ずっと狐を見てたんでしょう?」
アレンは思わず女性を見る。
「どうしてそう思うの?」
「九本まで数えたんだから、ちゃんと見たんでしょう」
「……そういう意味か」
「他に何があるの?」
淡々と返されると、アレンの方が考えすぎている気がしてくる。
しばらく歩いたところで、街道の脇から小さな鳴き声が聞こえた。草の間に茶色い鳥が落ちており、片方の翼を不自然に広げている。
アレンが足を止めるより先に、銀髪の女性がしゃがみ込んだ。
「怪我してる」
「触って大丈夫?」
「暴れさせなければ」
女性は鳥へいきなり手を伸ばさず、少し離れた位置から様子を見る。やがて鳥の呼吸が落ち着くと、羽の下を確かめた。
「折れてはいない。ぶつけただけね」
「分かるの?」
「これくらいなら」
女性の指先が鳥の翼の近くをなぞる。何か光ったわけではない。それでも周囲の草がほんの僅かに揺れ、アレンは昨日の鹿のそばで感じた緑の匂いを思い出した。
「……今」
「何?」
女性は顔を上げる。
「いや」
鳥は数秒後に身体を起こし、まだ少し不安定ながらも草の奥へ跳ねていった。飛び立つほどではないが、少なくとも動けるようにはなっている。
女性はそれを見届けて立ち上がった。
「行きましょう」
「君、今何かした?」
「翼を見ただけ」
「草が動いた」
「風じゃない?」
「風、なかったけど」
「細かいことを気にするのね」
そう言って歩き出す横顔に、今度こそ小さな笑みがあった。
アレンは数歩遅れてその隣へ戻る。銀色の髪。赤の混じる毛先。森へ向ける視線。怪我をした鳥への扱い。そして、九尾の狐の話を聞いてもほとんど驚かなかったこと。
偶然だと片づけるには、少しずつ重なるものが増えている。
それでも、決めつけるには何も足りない。
「そういえば、名前聞いてなかった」
アレンが言うと、女性は横目だけを向けた。
「あなたから名乗るのが先じゃない?」
「あ、確かに。アレン。アレン・ヴェイレン」
「アレン」
女性はその名を確かめるように一度だけ繰り返した。
「君は?」
問いかけると、女性はすぐには答えなかった。森から吹いた風が銀色の髪を揺らし、その中の赤が朝の光を受けて鮮やかに見える。
「次に会ったら教える」
「今、一緒に歩いてるのに?」
「じゃあ、次にちゃんと会ったとき」
「何それ」
「嫌なら忘れて」
女性はそう言うと、少し先の分かれ道で立ち止まった。王都へ続く本道とは別に、細い道が森の方角へ伸びている。
「そっちに行くの?」
「少し用があるの」
「王都じゃなかったんだ」
「王都へ行くなんて言ってないでしょう」
「確かに」
女性は森へ続く道へ一歩入り、それから振り返った。
「アレン」
「うん?」
「森で見たものを、すぐ誰かの言葉で決めない方がいいわ。自分の目で見たことだけ覚えておけばいい」
意味を尋ねる前に、女性は背を向けた。
「それじゃあ」
銀色の髪が木々の方へ遠ざかる。アレンはその姿を見送りながら、最後に言われた言葉を何度か頭の中で繰り返した。
九本の尾を持つ銀の狐。森を守る力。そして、名前を告げなかった銀髪の女性。
同じ森の近くで続けて出会った二つの存在を結びつける証拠は、まだ何もなかった。
それでもアレンは、彼女が森の影へ消えていくまで、しばらくその場所から目を離せなかった。銀色の狐と銀髪の女性。二つの出会いの間に何があるのかは、まだ分からないままだった。
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