第三章 第二十話 森を守る獣
九本の尾を持つ銀色の狐が森の奥へ消えてからも、アレンはすぐには歩き出さなかった。最後に聞こえた石を踏む音が、昨日から続いている灰色の外套の人物と関係しているのか、それとも別の旅人なのかは分からない。それでも、銀の狐が街道の後方へ警戒を向けたことだけは確かだった。
アレンは荷物を背負い直し、王都へ続く道を進んだ。森はさらに深くなり、道の左右では太い根が土を押し上げ、枝葉が頭上を覆っている。昼を過ぎているのに薄暗く、ところどころに差し込む陽光だけが地面を明るく照らしていた。道標はまだ一定の間隔で立っているため、進む方向を見失う心配はない。
しばらく歩くと、道端の低木に不自然な切れ目が見えた。枝が一本だけ折れた程度ではなく、細い道具で何度も削られたような跡がある。足を止めて周囲を見ると、その先の木の根元に細い鉄線が張られていた。輪の形に曲げられ、一端が杭へ固定されている。
「罠……?」
狩猟用の罠自体は珍しくない。しかし街道のすぐ近くに仕掛けるなら、旅人や家畜が誤って引っかからないよう目印を置くのが普通だ。目の前の鉄線には何もなく、落ち葉でわざと隠したように見えた。
アレンは触れずに少し離れ、周囲を確認した。さらに奥には同じような線が二つあり、その一つには小さな鹿が脚を取られていた。まだ生きているが、暴れるたび鉄線が食い込み、脚の毛に血が滲んでいる。
「動かないで」
通じるはずのない言葉を掛けながら、アレンはゆっくり近づいた。鹿は怯えて身体を引こうとしたが、逃げることもできない。罠の構造を確かめていると、背後で草が揺れた。
振り返ると、銀色の狐が木々の間に立っていた。九本の尾は低く下がり、前回までの静かな様子とは違って、耳が鋭く前を向いている。狐の視線はアレンではなく、罠にかかった鹿へ向けられていた。
「これ、君が見つけたの?」
当然答えはない。だが狐はゆっくり近づき、鹿から数歩離れた場所で止まった。鹿は巨大な狐を見ても暴れなかった。怯えて動けないというより、不思議なほど落ち着き始めている。
アレンは鉄線の留め具を確認した。細い金具を持ち上げれば輪が緩む構造で、刃物を使う必要はない。鹿を刺激しないよう時間をかけて外し、脚から鉄線を離す。傷は浅くはないが、骨まで届いてはいないようだった。
自由になった鹿はすぐに立ち上がらず、しばらく地面へ伏せたまま息を整えていた。銀の狐が一歩近づくと、その周囲の草が風もないのに僅かに揺れた。柔らかな緑の匂いが強まり、鹿の脚元では踏み潰されていた小さな葉がゆっくり起き上がる。
アレンは思わず目を細めた。
「今の……」
狐は何もしていないように見える。ただ立っているだけなのに、その周囲だけ森の空気が濃くなったような感覚があった。鹿はやがて身体を起こし、痛めた脚を庇いながらも自力で森の奥へ歩いていく。傷が消えたわけではない。それでも、さっきまでの怯え方とは明らかに違っていた。
銀の狐は鹿を追わず、今度は罠の鉄線へ視線を落とした。九本の尾のうち一本がゆっくり持ち上がり、その先が森の奥を示すように動く。
「他にもあるの?」
アレンが問いかけると、狐は数歩進んで振り返った。
追うなと決めていたはずだった。それでも今回は、ただ狐を見たいから森へ入るのとは違う。街道の近くに危険な罠が複数仕掛けられ、実際に動物が傷ついている。アレンは道標の位置を覚え、街道から離れすぎないことを決めてから、狐との距離を保って森へ入った。
奥へ進むにつれ、罠は増えた。木の根元に隠された鉄線、枝から吊るされた小さな輪、獣道を塞ぐように張られた網。狩りをするだけなら必要以上に多く、しかも小動物まで区別なく捕らえる配置だった。
「これ、普通の狩りじゃないよね」
狐は立ち止まり、地面へ鼻先を近づけた。そこには火を焚いた跡が残っている。灰はまだ新しく、その横には鳥の羽、切られた角の欠片、乾いた血が落ちていた。
アレンの表情が硬くなった。遠くから人の声が聞こえた。
「今日はまだ二匹だぞ。夕方までにもっと上げろ」
「奥へ火を入れれば出てくる」
「街道側へ逃がすなよ。見つかったら面倒だ」
アレンはすぐ木の陰へ身を寄せた。銀の狐も音を立てず、低い茂みの向こうへ身体を沈める。
声の主は三人だった。革の上着を着た人間の男が二人と、犬人の男が一人。腰には狩猟用の刃物があり、一人は束ねた鉄線を肩へ掛けている。街道沿いで狩りをする者なら、少なくとも周囲に分かる印を残すはずだったが、見える範囲には何もなかった。
「火を入れるって……」
森を焼いて獣を追い出すつもりなのだと分かり、アレンは息を潜めた。乾いた季節ではないにしても、火が広がればどこまで燃えるか分からない。街道にも近く、旅人まで巻き込まれる可能性がある。
男の一人が油を染み込ませた布を枝へ巻き始めた。その瞬間、銀の狐が立ち上がった。
「待って」
アレンが小さく呼び止めるより早く、狐は茂みから姿を現した。三人の男が同時に振り向き、巨大な銀色の身体と九本の尾を見た瞬間、驚きで動きを止める。
「何だ、あれ……」
「狐?」
「でかすぎるだろ」
犬人の男だけが一歩後ずさった。鼻先をひくつかせ、顔色を変える。
「やめろ。近づくな。あれ、普通じゃない」
だが鉄線を持っていた男は恐怖より欲が勝ったらしく、腰の弓へ手を伸ばした。
「毛皮だけでもいくらになると思ってる」
矢が番えられた瞬間、アレンは木陰から出た。
「撃つな!」
三人の視線が今度はアレンへ向く。
「誰だ、お前」
「街道の近くに罠を仕掛けて、森に火まで入れるつもりだったのか?」
「関係ねえだろ」
「旅人が通る道の近くだ。関係ある」
弓の男は舌打ちし、矢先を狐からアレンへ動かした。だが放つより先に地面が揺れた。
大きな地震ではない。狐の前脚が土を踏んだ瞬間、地表の根が一斉に持ち上がった。絡み合った太い根が男たちの足元を走り、弓を持つ男の足首へ巻きつく。別の根が油布を巻いた枝を押し倒し、まだ火のついていない布ごと地面へ落とした。
「何だこれ!」
男が根を切ろうと刃物を抜く。だが切っ先が届く前に、九本の尾が大きく広がり、森を抜ける風が一気に強くなった。木々が軋み、落ち葉が舞い上がる。アレンは腕で顔を庇いながらも、その中心に立つ銀の狐から目を離せなかった。
狐は男たちへ飛びかからなかった。牙も立てない。ただ逃げ道を塞ぐように根を動かし、火を使う道具から彼らを引き離している。
「殺す気じゃない……?」
その事実に気づいたのと同時に、犬人の男が根の届いていない方向へ走り出した。残る二人も慌てて罠の道具を捨て、絡んだ根から足を抜いて逃げようとする。
アレンは追わなかった。顔も服装も見たが、森の奥で三人を一人で捕まえる方が危険だ。街道へ戻ったら次の警備所へ伝えればいい。
三人が十分離れると、根は追わなかった。まるで境界を越えたことを確認したように動きを止め、ゆっくり土へ戻っていく。
森には再び静けさが戻った。アレンは銀の狐へ視線を向ける。
「君がやったの?」
問いかけるまでもない。目の前で起きたことを偶然だと考える方が無理だった。
狐はアレンへ顔を向けたあと、捨てられた罠へ歩み寄った。前脚が土へ触れるたび、細い根が伸び、鉄線や網を持ち上げて一か所へ集めていく。火を使うための油布も土に包まれ、火をつけられないよう押さえ込まれた。
アレンは何も言えず、その光景を見ていた。母の物語に出てきた銀の狐は、森と命に近いところにいて、傷つけるためではなく守るために力を使う獣だった。目の前の存在は、その話とあまりにも重なっている。
「本当に……あの狐なのか」
銀の狐は答えず、九本の尾を静かに揺らした。やがて森の奥から鳥の声が戻り、小動物が茂みの中を動き始める。さっきまで男たちの匂いと火の気配に沈んでいた森そのものが、ゆっくり息を取り戻しているようだった。
狐は集めた罠から離れ、今度は街道の方向へ数歩進んだ。そこでアレンを振り返る。
「戻れってこと?」
耳が一度だけ動いた。
返事だと決めつけるつもりはなかったが、街道へ戻るべきなのは確かだった。罠と三人の狩人について警備へ伝える必要もある。アレンは狐の後ろを追うのではなく、覚えていた方角へ向かって歩き始めた。
木々を抜け、街道の道標が見えたところで振り返る。銀の狐は森の境目に立ち、そこから先へは出てこなかった。九本の尾が木陰の中でゆっくり揺れ、その姿はまるで街道ではなく、森そのものに属しているように見えた。
「ありがとう」
何に対する礼なのか、アレンにも完全には分からなかった。鹿を守ったことか、火を止めたことか、それとも森の中で危険な者たちから何も知らない旅人まで守ったことなのか。
銀の狐はしばらくアレンを見つめたあと、静かに背を向けた。九本の尾が木々の向こうへ消えていく。
アレンはその姿を見送り、今度こそ王都へ続く街道へ戻った。巨大で、銀色で、九本の尾を持ち、森の根さえ動かす狐。母が語った物語との共通点は、もう偶然というには多すぎた。それでも、物語の存在が本当に今も生きているのかという最後の答えだけは、まだ口に出さなかった。
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