第三章 第十九話 九尾の森
銀色の狐が姿を消したあとも、アレンはしばらく街道の中央に立っていた。風が枝葉を揺らし、さっきまで巨体があった場所へ木漏れ日を落としている。追えばまだ姿を見つけられるかもしれない。しかし、森の奥へ入らないと決めたばかりで、その判断を一頭の珍しい獣を見たからといって変える理由はなかった。
それでも、足を動かす前に母の声を思い出した。幼い頃、七つの物語の一つとして聞かされた、森と命の巡りに寄り添う銀色の狐。物語の中では普通の狐より遥かに大きく、長い尾を幾つも持つ存在として語られていた。子供の頃は、それも他の物語と同じように昔の人が作った話だと思っていた。
「……まさかね」
あの銀色の巨体が物語の存在そのものだと決めるには早い。ラークホロウを出てから、昔は知らなかった獣や種族を何度も見てきた。巨大な狐が世界に一種類しかいないとも限らない。アレンはそう考え、森の奥から視線を外して王都へ続く道を歩き始めた。
街道はしばらく緩やかな上りを続け、その後は深い森の中を大きく曲がっていた。道標は一定の間隔で立っているものの、枝葉が濃くなるにつれて昼間でも薄暗い。前方には荷車も旅人も見えず、聞こえるのは鳥の声と風、それに靴底が土を踏む音だけだった。
十分ほど進んだ頃、道端の柔らかい土に大きな足跡を見つけた。犬や狼より明らかに大きく、爪の形も違う。さっき見た銀色の狐が残したものだと断定する必要もなかったが、足跡は街道へ出たところで途切れ、反対側の森へ続いている。アレンはしゃがみ込まず、歩きながら横目で確認した。新しい跡ではあるものの、それ以上のことは分からなかった。
「近くにいるのかな」
返事の代わりに、右手の森で葉が擦れた。今度は驚いて剣へ手を伸ばすこともせず、アレンは足を止めない。さっきの狐なら敵意を見せなかったし、別の大型獣なら街道の中央にいる方が安全だった。
だが、次の曲がり角を越えたところで、銀色の狐は再び現れた。今度は木々の奥ではなく、街道から十数歩ほど離れた低い岩の上に立っている。全身の半分以上が見え、銀色の毛並みが森の影の中でも淡く光っていた。狐は逃げる様子もなく、アレンが近づくのを待っていたようにこちらを見ている。
「また会ったね」
声を掛けても、当然言葉は返らない。だが耳だけが僅かに動き、確かに声へ反応したように見えた。アレンは街道を外れず、その場で立ち止まり、距離を詰めるつもりはないと示すように剣の柄からも手を離した。
「僕についてきてるわけじゃないよね」
狐の視線は変わらない。むしろ問いかけた方が馬鹿らしくなり、アレンは小さく息を吐いた。
そのとき、森の後方で乾いた枝が折れた。昨日から続いている気配を思い出し、アレンは肩越しに街道を振り返った。木々の間へ続く道には誰もいない。それでも、遠い曲がり角の手前で灰色の布のようなものが一瞬だけ動いた気がした。
もう一度岩の方を見ると、銀色の狐は同じ場所に立っていた。ただし視線はアレンではなく、今しがた彼が振り返った方向へ向いている。耳も前ではなく、街道の後方へ鋭く傾いていた。
「……気づいてる?」
問いかけても答えはない。数秒後、狐は岩から静かに飛び降り、街道とは平行に森の中を歩き始めた。走るでも隠れるでもなく、アレンから姿が見えるぎりぎりの距離を保っている。
それを追うつもりはなかった。アレンもただ街道を進み、時折木々の隙間に銀色が見えることだけを確認した。狐が先導しているのか、偶然同じ方向へ進んでいるのかは分からない。それでも、しばらくすると妙なことに気づく。狐はアレンより少し先へ進んでは止まり、彼が近づくとまた歩き出していた。
「やっぱり、僕を見てるよね」
独り言に近い声を残し、アレンは狐との距離を縮めないまま歩き続けた。
森の中を一時間ほど進むと、街道の脇に小さな休憩広場が現れた。井戸はないが、平らな石と朽ちかけた屋根が残っている。夕方まで歩き続ける前に休むにはちょうどよく、アレンは街道から数歩だけ入った石へ腰を下ろした。
銀色の狐は姿を消していた。アレンは水を飲み、固いパンを少しだけ食べながら周囲へ耳を澄ませる。灰色の外套の気配もない。追われているという感覚自体が、旧九番倉庫の事件のあとで神経質になっているだけなのかもしれなかった。
そう考え始めた頃、広場の反対側で葉が大きく揺れ、銀色の狐が姿を現した。今度は木々にも岩にも隠れておらず、広場の端まで歩み出して全身をこちらへ向ける。巨大な四肢、長い耳、細い顔立ち。そして、その背後からゆっくりと銀色の尾が広がっていった。
最初に一本、その横から二本目が現れ、重なる毛並みの間からさらに太い尾が次々と持ち上がる。アレンは声を出さずに数えた。見間違いではないかと何度も視線を動かしたが、尾は途中で重なりながらも、それぞれ別々に揺れている。最後の一本が木陰から持ち上がったとき、数は九つになった。
「……九本」
口にした声は、驚くほど小さかった。狐の九本の尾が風を受けてゆっくり扇のように広がり、その姿を見た瞬間、母から聞いた物語が曖昧な昔話ではなく、目の前の現実へ重なった。銀色の巨大な狐。九つの尾。森の中で人を見定めるように静かに立つ姿だった。
同時に、深い森で出会った黒い狐の記憶も蘇った。あの黒い狐も九本の尾を持っており、色は正反対でありながら、大きさも全体の輪郭もよく似ている。
「同じ種類……なのかな」
それ以上は分からなかった。似ているからといって、何か特別な関係があると決める理由はない。黒い狐と銀の狐がどんな存在なのかも、そもそも互いに関係があるのかさえ不明だった。
アレンが考えている間、銀の狐は一歩だけ前へ出た。思わず身体が強張る。しかし狐は牙を見せず、唸りもしない。大きな前脚を石の手前で止め、アレンの顔を静かに見つめた。
「君は……母さんの話に出てきた狐なの?」
狐の耳が動いた。偶然かもしれない。それでも、今までよりはっきりした反応に見えたため、アレンは立ち上がらず、そのまま言葉を続ける。
「七つの話の中に、銀色の狐がいた。森と命に近いところにいて、九つの尾を持ってるって」
幼い頃に聞いた物語を、すべて正確に覚えているわけではない。それでも銀の狐について語る母の声だけは、不思議と残っていた。森が傷つけば姿を現し、命が巡る場所を見守る獣。人の願いを何でも叶える存在ではなく、人よりずっと古い約束を守っているものとして語られていた。目の前の狐が、その物語と同じ存在なのかはまだ分からないが、九本の尾を見た今、ただの大型の野生動物だと考える方が難しかった。
銀の狐はしばらくアレンを見つめたあと、突然顔を街道の後方へ向けた。九本の尾が一斉に低くなり、さっきまでの穏やかな空気が僅かに変わったため、アレンもすぐに立ち上がって同じ方向へ意識を向ける。
「何かいる?」
数秒遅れて、遠くから石を踏む音が一度だけ聞こえ、そのまま途切れた。アレンは剣へ手を伸ばしたが抜かず、銀の狐も森へ飛び込むことなく、街道の後方を見つめ続けている。まるでアレンより先に、その気配をずっと把握していたかのようだった。
やがて狐は視線を戻し、アレンを一度見てから森の奥へ身体を向けた。
「また行くの?」
九本の尾がゆっくり揺れる。返事のように見えたのは、きっとこちらが意味を求めすぎているからだ。それでも狐はすぐには姿を消さず、森へ数歩進んだところで一度立ち止まり、振り返った。アレンは街道から動かないまま、その姿へ声を掛ける。
「今日は追わないよ」
そう言うと、狐はさらに奥へ歩き出した。木々の間へ銀色の巨体が沈み、最後まで見えていた九本の尾も一本ずつ影の中へ消えていく。
アレンはしばらく森を見つめたあと、荷物を背負い直した。母の物語が本当に目の前へ現れたのか、それとも世界には物語の元になった巨大な狐が今も生きているだけなのか、その答えはまだ出せない。ただ、もう見間違いではなかった。森の中にいた銀色の狐には確かに九本の尾があり、その狐は偶然同じ道を歩いているだけとは思えないほど、何度もアレンの前へ姿を見せていた。
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