第三章 第十八話 銀の狐
宿場の外壁が見えたとき、空にはまだ夕暮れの色が残っていた。街道沿いに建つ低い石壁と木造の見張り台、その内側には宿と食堂、馬小屋、旅人向けの雑貨屋が集まっている。大きな町ではないが、王都へ向かう者と村へ戻る者が一晩足を休めるには十分な場所だった。
アレンとカイは入口の詰所へ向かい、街道で感じた尾行らしい気配と、道端に落ちていた灰色の外套について説明した。対応した警備員は二人の話を最後まで聞いたものの、外套だけでは事件と断定できないこと、同じ色の旅装を使う者は珍しくないことも伝えた。それでも旧九番倉庫の件と、アレンが以前襲われていることを話すと、今夜は街道側の見回りを増やすと約束してくれた。
「追って確かめなくて正解だ」
警備員の言葉に、カイが横から短く頷く。
「こいつ、最近やっとそれ覚えた」
「最初から無茶ばっかりしてたみたいに言うなよ」
「違うの?」
「……少しは考えてる」
「少しか」
警備員に笑われながら詰所を出ると、カイはそのまま配達先の道具屋へ向かった。アレンも宿を探す前に付き合い、店の主人が荷袋の封を確認して受領印を押すところまで見届ける。これでカイの仕事は終わりだった。
「じゃあ、明日は村へ戻る?」
店を出てから尋ねると、カイは受領札をしまいながら少し考えた。
「朝になってから決める。急ぎの戻り荷があるなら受ける」
「王都まで行く気は?」
「今のところない」
「そっか」
それだけの話なのに、思ったより残念に感じた。数日前まで一人で歩くことが当たり前だったはずなのに、一日並んで歩いただけで、明日からまた一人になることを意識している。
カイはその反応を見たのか見ていないのか、いつもの無表情のまま近くの宿を指した。
「安いし飯も悪くない。泊まるならあそこ」
「詳しいね」
「三回使った」
「王都より宿場の方が詳しそう」
「必要だからな」
結局、二人は同じ宿に部屋を取った。夕食を済ませたあとも外へ探りに行くようなことはせず、警備員から言われた通り宿場の中で過ごした。灰色の外套の人物が入ってきたという報告もなく、夜のあいだに騒ぎが起きることもなかった。
翌朝、食堂へ下りると、カイはすでに店主と話していた。村方面へ戻る荷物が一件あり、昼前にはここを出るという。アレンが王都へ向かうなら、ここで道が分かれることになる。
「本当に戻るんだ」
「仕事だから」
「分かってる」
「王都までは一本道に近い。途中で森を抜けるけど、道標を見落とさなければ迷わない」
「子供扱いしてない?」
「迷いそうな旅人扱い」
「同じだろ」
カイはほんの少しだけ尾の先を揺らした。笑っているのかもしれないと分かるようになったことが、昨日までとの小さな違いだった。
「また村に戻る?」
「いつかは。麗華に会えるかもしれないし、ノエルやフィアのことも気になる」
「黒髪の女、そんなに気になるんだ」
「そこ拾わなくていい」
「顔」
「もうそれ便利に使ってるだろ」
別れ際までからかわれ、アレンは苦笑した。カイも村へ戻れば、また運び屋として日常へ戻るのだろう。それでも、外の街道や二本線と輪の札について意識するようになった以上、以前とまったく同じではないのかもしれない。
「じゃあ、また」
「ああ。死ぬなよ」
「もっと普通の別れ方ない?」
「気をつけろ」
「最初からそれでいいだろ」
宿場の出口で手を上げ、二人は別々の方向へ歩き始めた。カイは来た道を西へ戻り、アレンは一人で東へ向かう。何度か振り返れば、灰褐色の耳は旅人の間に紛れ、やがて見えなくなった。
王都へ続く街道は、宿場を離れてしばらくすると緩やかな上り坂へ変わった。人通りは昨日より少ないものの、完全に途切れてはいない。午前中だけで二台の商人の荷車とすれ違い、王都から来たらしい三人組の旅人にも道を譲った。
灰色の外套の人物は見えなかった。背後へ意識を向けても、一定の距離を保つ足音もない。宿場の警備へ話したことで諦めたのか、それとも最初から尾行ではなかったのか、結局まだ分からなかった。
昼を過ぎる頃、街道は深い森の縁へ入った。道そのものは広く整備されているが、左右には太い幹の木々が並び、枝葉が空を覆うにつれて風の音も変わっていく。木漏れ日が石混じりの土へ揺れ、奥からは鳥の声と小さな獣の気配が聞こえた。
アレンは歩調を緩めず、道標を一つずつ確認した。カイに言われた通り、王都方面を示す印は一定の間隔で立っている。森を抜ければ、夕方には次の街道宿へ着けるはずだった。
しばらく進んだところで、周囲の音が変わった。鳥の声が途切れたわけではなく、風も吹いている。ただ、何か大きなものが森の奥を移動したような重い葉擦れが一度だけ聞こえた。
アレンは足を止めず、視線だけを左へ向ける。木々の間には何も見えない。少し前までなら、旧九番倉庫の関係者かと考えたかもしれないが、音は人間の足取りよりずっと重かった。
さらに数十歩進むと、今度は右側の茂みで低い枝が揺れた。道から離れた場所を、何かがこちらと並行して移動している。
「……熊か?」
ラークホロウ周辺にも大型の獣はいた。だが聞こえる間隔からすると、四足で歩いているにしてもかなり大きい。剣へ手を伸ばしながらも、アレンは街道の中央を保った。森の中へ確かめに入る理由はない。
ところが、次の道標が見えたところで、木々の向こうに一瞬だけ白銀のものが動いた。陽光を受けて白く光ったのではない。木陰の中でもはっきり分かる、冷たい銀色の毛並みが太い幹の間を横切った。
アレンは思わず足を止めた。普通の狐なら木の根元に隠れて見失う程度だが、今見えた背中は人間の胸より高い位置を通っている。さらに奥で枝が押し分けられ、長い耳のような影が一度だけ現れた。
「狐……?」
口にした瞬間、深い森で出会った巨大な黒い狐の記憶が胸へ浮かんだ。あのときと同じとは言えない。毛の色は正反対で、今見えている輪郭も枝に遮られている。それでも、大きさと歩き方には言葉にしづらい似たものがあった。
森の奥で葉が揺れ、白銀の巨体が今度はもう少しはっきり姿を見せた。銀色の毛は背から脚へ滑らかに流れ、耳の内側だけがわずかに濃い。細長い顔立ちは野生の狐そのものなのに、普通の獣とは比較にならないほど大きく、立ったままでもアレンを見下ろせそうな高さがある。ただし身体の後ろ側は太い木々に隠れ、尾が何本あるのかまでは分からなかった。
狐は街道へ出てこなかった。木々の間に立ったまま、まっすぐアレンを見ている。敵意は感じず、唸り声もなく、牙も見せていない。それでも野生の大型獣を前にした緊張は消えず、アレンは剣を抜かないまま手だけを柄へ置いた。
「……僕を見てる?」
当然、返事はない。それでも銀の狐は視線を逸らさず、ただ静かに立っている。黒い狐と出会ったときにも感じた、獣を前にしているのに一方的に観察されているような感覚が戻ってきた。違うのは、あの黒い獣には近づきがたい鋭さがあったのに対し、目の前の銀色の狐からは、それとは別の静けさを感じることだった。
アレンが一歩も動かずにいると、狐の耳が僅かにこちらへ向いた。その瞬間、街道の後方で乾いた枝が折れ、アレンは反射的に振り返る。人影は見えないものの、昨日から感じていたものと似た気配が、森の入口側に一瞬だけあった。
再び銀の狐へ目を戻すと、巨体はすでに歩き始めていた。アレンへ近づくのではなく、森のさらに奥へ向かっている。銀色の毛並みが木々の間をゆっくり横切り、その後ろで何本もの太い影が揺れたように見えた。
「待って」
思わず声を掛けたが、狐は止まらなかった。追うべきではないと分かっている。それでも、黒い狐とは正反対の色をした巨大な狐が偶然同じ旅の途中へ現れたことを、ただの珍しい獣として片づけることもできなかった。
銀色の背中が木々の奥へ消える直前、狐は一度だけ振り返った。その目が、はっきりとアレンを捉える。次の瞬間には枝葉の向こうへ姿を消し、森には風と鳥の声だけが戻ってきた。
アレンはしばらくその場から動けなかった。追う影を警戒しながら王都へ向かっていたはずなのに、今度はまったく別の存在が旅路の前へ現れた。黒ではなく銀。同じほど巨大な狐。そして最後に木々の奥で揺れた、一本では説明できない影。アレンは森の奥を見つめたまま、母が昔語ってくれた七つの物語の一つを、ゆっくりと思い出し始めていた。
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