第三章 第十六話 村を出る者
翌朝、旧九番倉庫の周囲には、前日の騒ぎが嘘のような静けさが戻っていた。ただし入口には警備員が立ち、封鎖を示す縄の向こうでは、地下から運び出された帳簿や木箱を一つずつ確認する作業が続いている。アレンは水鐘亭で朝食を済ませたあと、デイルに呼ばれて再び詰所を訪れた。
救出された六人は全員生存しており、命に関わる状態の者はいなかった。ノエルも薬の影響と脱水が残っているものの、診療所で数日休めば回復する見込みだという。犬人の女性とエルフの女性は長く拘束されていたため歩くのに時間がかかるが、治療師の話では大きな後遺症は見つかっていない。
「昨日捕まえた連中は?」
「六人は話さない。二人は『運ぶだけだった』の一点張り。一人だけ、金を受け取る窓口が村の外にあると認めた」
「どこですか?」
「そこまでは吐いてない」
デイルは机の上に一枚の紙を置いた。旧九番倉庫から見つかった運搬記録の写しで、行き先の欄には地名ではなく数字と記号だけが並んでいる。王都方面、南の鉱山、北の街道。そのどれに対応するのかもまだ分からず、昨日逃げた荷車の行方も追跡中だった。
「だから、お前がこのまま追う必要はない」
「追うつもりはないです」
「顔が納得してない」
「この村を出たあと、同じことが別の場所で続いてたら気になるだけです」
「それを追うって言うんだよ」
言われてみれば否定しづらかった。だが、王都へ向かうこと自体は事件を追うためではない。旅立つ前から予定していた道であり、ここに残り続ける理由もなくなっている。
「王都には行きます。でも、勝手に組織を探したりはしません」
「ならいい。もし似た印や札を見つけても、一人で突っ込むな。昨日までで十分分かっただろ」
「はい」
デイルはようやく頷き、そこで話を終えた。詰所を出ると、朝の市場はすでに動き始めており、事件の話は広まっているらしく、旧九番倉庫の方角を見ながら小声で話す者もいる。それでも店は開き、荷車は走り、村の日常そのものが止まっているわけではなかった。数日前までこの場所を色と音の多い遊興の村として見ていたアレンにとって、今ではもう、それだけでは説明できない場所になっていた。
水鐘亭へ戻る前に白樹亭へ寄ると、入口には見覚えのある若い女性がいた。アレンに気づいた彼女はすぐに頭を下げ、ノエルが会話できる程度まで回復したことを教えてくれた。
「ノエル、話せるくらいには戻ったよ」
「よかった」
「助けてくれてありがとう」
「僕だけじゃない。警備の人たちも、カイもいたし」
「それでも、最初に気にしてくれたのはあなたでしょ」
そう言われると返す言葉に困り、アレンは大したことはしていないと答えた。女性はそれでももう一度だけ礼を言い、ノエル本人がアレンに会いたがっていることを伝えた。
「ノエルが、会いたいって」
診療所へ向かうと、ノエルは窓際の寝台に座っていた。顔色はまだ悪く、脇の卓には水と薬草の匂いがする湯が置かれていたが、昨日地下で見たときより目ははっきりしている。
「アレン、だったよな」
「うん」
「聞いた。俺を探し始めたせいで、お前まで狙われたって」
「それはノエルのせいじゃない」
「でも、俺があの仕事の話をもっと早く誰かに言ってれば」
「断っただけで、ここまでされるなんて普通は思わないだろ」
ノエルはしばらく黙り、視線を落とした。市場で声を掛けてきた男から夜の荷運びを勧められ、条件が曖昧だったため断った。その夜、赤通りを歩いた帰りに別の男から「もっと条件のいい仕事がある」と声を掛けられた。無視して宿へ戻ろうとしたところまでは覚えているが、そのあとの記憶は途切れているという。
「目が覚めたら地下だった。何日いたかも分からなかった」
「他の人たちとは話した?」
「少しだけ。みんな似た感じだ。仕事、借金、宿代。困ってるところへ話を持ってこられて、そのあと……」
ノエルは最後まで言わずに息を吐き、しばらく窓の外へ視線を向けたあと、王都へ戻ったら向こうの警備にも今回のことを話すつもりだと告げた。
「王都へ戻ったら、警備にも話す。あっちで同じことやってる奴がいたら嫌だから」
「僕も王都へ行く」
「そうなのか?」
「元々その予定だった」
ノエルはそこで初めて少しだけ笑い、王都でまた会うかもしれないと言った。その表情が地下で見たときよりずっと生きたものに見えたため、アレンも自然に口元を緩める。
「なら、向こうで会うかもしれないな」
「今度は普通の場所で会いたい」
「本当にそうしてくれ」
二人とも小さく笑い、アレンはノエルの休息を邪魔しないよう長居せず診療所を出た。外へ出ると昼前の陽射しが石畳を照らしており、地下の湿った暗さがもう遠い場所のことのように感じられた。
水鐘亭へ戻って荷物をまとめる。黒銀の剣、旅用の地図、水筒、食料、セントールたちから贈られた帯。最後に、麗華からもらった最初の地図と、彼女が残した短い紙を同じ袋へしまった。
「旅を続けなさい。またどこかで会いましょう」
読み返すつもりはなかったのに、その言葉はもう覚えていた。麗華がどこへ行ったのかは分からない。追いかける理由も手掛かりもない。それでも、旅を続ければ本当にまた会う気がしていた。
荷造りを終えて受付へ鍵を返すと、女性は少し驚いた顔をした。これまでにも何度か出発を延ばしていたことを知っているため、本当に出るのか確かめるように鍵とアレンを交互に見る。
「今度こそ出るの?」
「はい。王都へ向かいます」
「この数日でずいぶん色々あったね」
「最初は泊まるだけのつもりだったんですけど」
「旅って、だいたいそういうものかもね」
宿代の精算を終えると、女性は東門までの近道を教えてくれた。アレンは礼を言って水鐘亭を出た。市場の入口まで来たところで、いつもの手押し車を持たずに立っているカイを見つけた。背中には旅用の荷袋を背負い、腰には短い作業用の刃物を下げている。
「今日は配達?」
「半分」
「またその言い方?」
「誰かの真似じゃない」
カイは東門の方角へ顎を向け、次の宿場まで荷物を届ける仕事が入ったことを説明した。戻りは翌日でも構わないらしく、少なくとも今日のあいだは同じ街道を進むことになる。
「じゃあ、途中まで一緒?」
「嫌なら別にいい」
「嫌って言ってない」
「なら決まり」
あまりにも自然に決まり、アレンは少しだけ笑った。数日前には名前すら知らなかった相手と、同じ道を歩いて村を出ることになるとは思っていなかった。
「でも、仕事が終わったら戻るんだよね?」
「そのつもり」
「そのつもり?」
カイはすぐには答えず、灰褐色の耳を一度だけ動かした。昨日の救出が終わってから考えていたことがあるらしく、言葉を選ぶように少し間を置いてから口を開く。
「ずっとここで運び屋をやるのも悪くない。でも、あの札を使ってる連中が村の外にもいるなら、仕事で街道を回る方が見えるものもある」
「追うつもり?」
「お前に言われたくない」
「それはそう」
「ただ、今すぐ何か決めたわけじゃない。今日は配達。明日は明日」
その答えはカイらしかった。事件があったからといって、突然すべてを捨ててアレンについてくるわけではない。それでも、村の外へ目を向け始めたことだけは確かだった。
二人は東門へ向かった。途中、相談所の前を通ると、フィアが職員と一緒に外へ出てきた。翼の包帯はまだ残っているが、以前より顔色は良く、アレンとカイに気づくと少し驚いたあと笑った。
「出るの?」
「王都へ」
「私はもう少しここにいる。借金のことも、仕事のことも、ちゃんと整理してから決める」
「それがいいと思う」
「今度は変な札を持ってる人についていかない」
「それも」
フィアはカイにも礼を言い、二人が歩き出すと大きく手を振った。彼女が誰かに決められた行き先ではなく、これからのことを自分で選ぼうとしている姿を見られたことに、アレンは少しだけ安心した。
東門に近づくにつれ、村の色付きの札は少なくなり、代わりに旅人向けの店と荷車置き場が増えていく。入ってきたときには知らなかった道なのに、出る頃にはいくつもの場所と人の顔が思い浮かんだ。水鐘亭、白樹亭、相談所、旧九番倉庫、中央広場。そして、もう部屋を引き払った麗華。
検問所で名前と行き先を記録し、東へ続く街道へ出る。振り返ると、谷の中に広がる村は昼の光の下では穏やかに見えた。夜になればまた色付きの灯りが点き、音楽が始まり、旅人たちが集まるのだろう。隣を歩いていたカイが、同じように村を振り返りながら口を開いた。
「名残惜しい?」
「少しだけ」
「夜の店?」
「違う」
「本当に?」
「カイまでそれ言うの?」
わずかに尾の先を揺らしただけで、カイは笑わなかった。それでも冗談だということは、もうアレンにも分かった。
二人は村へ背を向けた。王都まではまだ二日ほどある。カイと歩くのは最初の宿場までの予定で、その先も一緒かどうかは決まっていない。麗華と再び会える場所も分からず、地下で見つかった売買の道がどこまで続いているのかも不明なままだが、旅はすべての答えが揃うまで待ってはくれない。アレンは肩の荷物を直し、東へ続く街道へ足を踏み出した。隣ではカイも同じ方向へ歩き始める。村を出たのは一人ではなかったが、この先をどこまで共に歩くのかは、まだ二人とも知らなかった。
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