第三章 第十五話 血の出口
何台もの荷車が旧九番倉庫の前へ入ってくる重い音は、地下の石壁を通してもはっきり分かった。檻の奥にいた男たちも気づいたらしく、扉の向こうで慌ただしく足音が増える。デイルは来た道と檻を交互に見たあと、退く判断をすぐに捨てた。今ここで地上へ戻れば、地下にいる六人がそのまま運び出される可能性がある。
「予定変更だ。地上に残した連中へ合図を送る。ここで檻を開ける」
警備員の一人が頷き、足音を殺して階段側へ戻った。アレンとカイには檻の近くから動かず、捕らわれている者たちを刺激しないよう指示が飛ぶ。カイは返事をしながらも、格子の向こうへ視線を向けたままだった。弱っている六人を見れば、いつもの無表情を保つ方が難しいのだろう。
奥の扉が開いた。現れたのは二人の男だった。一人は腰に短剣を下げ、もう一人は大きな鍵束を持っている。まだ警備隊の存在には気づいておらず、鍵を持つ男が手前の檻へ近づきながら言った。
「人間の男、犬の女、それからエルフだ。立てないなら引きずれ」
その言葉を聞いたデイルが物陰から出ると、二人の男へ逃げ道を与えない位置で足を止めた。
「そこまでだ。村警備隊だ。鍵を置いて、両手を見える位置へ出せ」
二人の顔から血の気が引いたのは一瞬だった。短剣を持つ男は次の瞬間には刃を抜き、鍵の男は反対側へ走ろうとする。警備員が進路を塞ぎ、地下の狭い通路で一気に動きがぶつかった。
短剣がデイルの胸元へ突き出される。デイルは身体を半歩ずらして腕を外側へ流し、相手の手首を掴もうとしたが、男は無理に引き抜いてもう一度刃を振った。切っ先がデイルの外套の袖を裂き、前腕へ浅い線を残す。血が滲んでもデイルは下がらず、今度は警棒で手首を打ち、短剣を石床へ落とした。
鍵を持った男は別の警備員へ肩からぶつかり、その脇を抜けようとした。だが進んだ先にはカイがいた。戦うために前へ出たわけではなく、檻の近くへ寄っていただけだったが、男がそのまま突っ込んでくる。
「どけ!」
カイは正面から受け止めず、荷物を避けるときと同じように身体を横へ流した。男の腕を掴み、勢いを利用して石壁側へ向ける。肩が壁へぶつかった瞬間、後ろから警備員が組みつき、そのまま床へ押さえ込んだ。鍵束が手から離れ、乾いた音を立てて転がる。
「カイ、下がれ!」
「分かってる!」
デイルの声にカイはすぐ檻の側へ戻った。捕まえた男から鍵を確保しようとしたところで、今度は階段側から複数の足音が響いた。地上へ上がった警備員の声と、知らない男たちの怒鳴り声が重なる。
「下にもいるぞ!」
「荷を出せ! 早くしろ!」
旧九番倉庫へ来た荷車の者たちだった。地上の警備員を押し切ったのか、三人の男が階段を下りてくる。先頭は鉄の棒、二人目は片刃の短剣、最後の男は縄を持っていた。
アレンは剣を抜いた。逃げ道を塞ぐためではなく、檻と階段の間に立つためだった。後ろには立つことさえ難しい者たちがいる。ここで下がれば、戦う力のない六人が直接狙われる。
「アレン、深追いするな!」
「分かってます!」
鉄棒の男が最初に踏み込んだ。振り下ろされた一撃を剣身で正面から受けず、刃を斜めに立てて外へ流す。鉄棒が石床を叩いた隙に、アレンは柄頭を男の肩口へ打ち込んだ。男がよろめいたところへ警備員が入り、体当たりで壁際へ押し込む。
二人目の短剣が横から伸びた。アレンは後ろへ引くのではなく半歩だけ内側へ入り、相手の腕が伸び切る前に手首を剣の鍔で押さえる。男が刃を引こうとした瞬間、左手を開いた。掌の前で短い風が弾け、顔へ砂埃と冷たい空気を叩きつける。視界を奪われた男の足が止まり、そのまま警備員に腕を取られた。
三人目だけは階段へ戻ろうとした。だが途中で顔を上げた瞬間、アレンには見覚えがあると分かった。数日前、中央広場の手前で警備からの伝言だと嘘をつき、アレンを脇道へ連れ込もうとした男だった。
「この人、僕を襲った二人の一人です!」
男の表情が歪んだ。逃げる代わりに縄を捨て、腰から小さな刃を抜いてアレンへ向き直る。
「お前が余計なことをしなきゃ――」
「誰の命令だ?」
「知るかよ!」
男は答えず、低い姿勢から突っ込んだ。アレンは最初の刺突を横へかわし、返す刃を剣の腹で弾いた。狭い場所で大きく振れば後ろの檻へ当たるため、剣先を小さく動かしながら相手の手だけを追う。三度目の突きが来た瞬間、アレンは相手の外側へ回り、剣の柄で肘の内側を強く打った。刃が落ちる。男が素手で殴りかかろうとしたところを、横からデイルが警棒で脇腹へ打ち込み、警備員二人が取り押さえた。
地下に一瞬だけ静けさが戻った。石床には落ちた武器が散らばり、デイルの腕から落ちた血が細い筋になっている。それでも大きな怪我をした者はいなかった。
「鍵だ。檻を開けるぞ」
奪った鍵束には十本以上の鍵がついていた。警備員が順番に試し、三本目で最初の錠が開く。鉄格子が軋みながら動くと、中にいた犬人の女性が立ち上がろうとして膝をついた。
「急がなくていい。歩けない者は支える」
カイがすぐ肩を貸した。別の警備員は小柄なゴブリンの男を背負い、エルフの女性には水を一口ずつ飲ませる。リザードマンの青年は壁を支えにすれば歩けそうだったが、何度も足元が揺れた。
六人全員を確実に連れ出すため、警備員たちは檻を一つずつ開けていった。ノエルの檻が開くと、アレンは格子の外から名前を確認した。
「ノエルで合ってる?」
「……ああ」
「白樹亭の人たちが探してる。荷物も全部残ってる」
焦点の鈍かったノエルの目が、そこで初めて大きく動いた。白樹亭も、帰る場所もまだ失われていないことが、その反応だけではっきり伝わってくる。
「宿……まだ、あるのか」
「ある。帰れる」
その言葉を聞いたノエルは何か言おうとしたが、声にはならなかった。代わりに何度も頷き、警備員の腕を借りて立ち上がる。
六人全員を檻から出したところで、地上から再び衝突音が響いた。荷車側の人数は地下へ降りてきた三人だけではない。階段へ戻った警備員が顔を出し、「上にまだ五人いる。二人は逃走、三人を押さえてる!」と叫ぶ。
「出口は?」
「正面は確保できる。ただし荷車が二台、入口を半分塞いでる!」
デイルは一瞬だけ周囲を見た。歩けない者を連れて狭い階段を上がるには時間がかかる。それでも地下に残れば、奥の扉の先にまだ仲間がいる可能性がある。
「順番に上げる。歩ける者からじゃない。弱ってる者を先に出す」
ゴブリンの男、エルフの女性、犬人の女性から階段へ向かわせる。警備員とカイが身体を支え、アレンは最後尾に近い位置で奥の扉を警戒した。
その警戒していた扉がゆっくりと開き、中からこれまでの者たちより身なりの整った男が姿を現した。濃い茶色の外套を着て、片手には細身の剣を持っている。檻が空になっているのを見ると、怒鳴ることもなく目を細めた。デイルもすぐに前へ出て、警棒を構える。
「面倒なことをしてくれたな」
「武器を捨てろ。名前と雇い主を言え」
「言って何になる?」
男は返事を待たず、いきなり剣を突き出した。狙いはデイルではなく、その後ろを通っていたノエルだった。証人を消すつもりなのだと分かり、アレンは横から剣を差し込んだ。
細身の刃とアレンの剣がぶつかり、乾いた金属音が地下へ響く。男は予想より速く、弾かれた剣をすぐ引いて次の角度から斬り込んでくる。アレンは二撃目を受け流し、三撃目には風を使わず足だけで距離を外した。
「邪魔をするな、旅人」
「後ろにいる人を狙っただろ」
「商品をどう扱おうが、こっちの勝手だ」
その言葉にアレンの目つきが変わり、切っ先を男から外さないまま一歩だけ前へ出た。相手も再び踏み込み、細身の剣を低い位置から跳ね上げる。
「人だ」
今度はアレンも下がらなかった。剣先を合わせ、相手の刃を外へ流し、そのまま肩を入れて体勢を崩す。男はすぐ立て直そうとしたが、足元には先ほどの戦いで落ちた縄がある。踏みかけた瞬間に重心がずれ、デイルが横から腕を掴んだ。
「終わりだ」
男は最後まで剣を離そうとしなかった。アレンが鍔元を押さえ、デイルが手首を捻る。ようやく細身の剣が床へ落ち、別の警備員が両腕を後ろへ回して拘束した。
その間にも六人の避難は進み、アレンたちが階段へ戻る頃には、地下に残っている捕虜はノエルとリザードマンの青年だけになっていた。二人を挟むようにして上がり、最後にデイルとアレンが鉄板の下を抜ける。
地上の倉庫は、入ったときとはまるで違う状態になっていた。箱が倒れ、荷車の一台が入口へ斜めに突っ込み、床には壊れた木片と血の跡が残っている。警備員二人が軽い怪我をしていたが立っており、三人の男が床へ伏せた状態で拘束されていた。
外へ出ると、夕方の空気が地下とは比べものにならないほど広く感じられた。救出された六人は倉庫の壁際へ座らされ、呼ばれていた治療師たちが一人ずつ状態を確認している。ノエルも水を渡され、震える手で杯を持っていた。
白樹亭から知らせを受けた女性が駆けつけ、ノエルの姿を見つけると途中で足を止めた。泣きながら近づく彼女に、ノエルは弱々しく片手を上げた。
「ごめん。戻れなくて」
「謝ることじゃないでしょ」
その声を聞いて、アレンはようやく少しだけ肩の力を抜いた。しかし六人を外へ出せたからといって、事件そのものが終わったわけではない。地下の奥にはまだ調べていない部屋があり、地上へ来た荷車のうち一台は御者ごと逃げている。捕まえた男たちも、誰が上にいるのかという質問には黙ったままだった。浅く切られた腕へ包帯を巻かれながら、デイルは旧九番倉庫を見上げる。
「ここは出口の一つだっただけかもしれない」
「他にもある?」
「今は分からん。だから調べる」
カイは救出された者たちを見たまま、低い声で言った。灰褐色の耳は伏せたままで、普段の無表情よりもはっきりと怒りが滲んでいる。
「少なくとも、今日ここから売られる奴はいなくなった」
倉庫の入口から石畳へ続く道には、戦いの最中に落ちた血がまだ細く残っていた。誰かを商品として運び出すために使われていた出口を、今度は閉じ込められていた者たち自身が生きて通り抜けた。その光景を見届けながら、アレンは剣を鞘へ戻した。
六人は救い出せた。それでも、彼らをここへ連れてきた仕組みまで壊せたわけではない。逃げた者もいれば、買い手と呼ばれた相手もいる。麗華から渡された一枚の地図を頼りに立ち寄った村で、王都へ向かうだけでは見えなかったものを、また一つ知ってしまった。
夕陽の下で治療師たちが救出者を運び始める。アレンはその列が村の明るい通りへ戻っていくまで見送り、最後に血の残る倉庫の出口へ視線を向けた。今夜はもう、誰もそこから売られていかなかった。
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