第三章 第十三話 売られる道
詰所へ着いた頃には、中央通りの騒ぎもほとんど届かなくなっていた。石造りの小さな建物には夜番の警備員が四人おり、アレンは襲ってきた二人の顔立ち、服装、声、逃げた方向を順番に説明した。机の上には回収された小刀、縄、布袋、小さな木札が別々の布の上へ置かれている。布袋については薬師を呼んで調べることになり、誰も素手では触れていなかった。
「この札、本当に荷役用なんですか?」
アレンが尋ねると、夕方から対応していた警備員――名をデイルと名乗った男が、木札を裏返した。表面の溝へ指先を近づけながらも直接は触れず、見覚えのある印を確かめるように目を細める。
「形はそうだ。二本線の下に輪。古い荷捌き場で、臨時雇いへ渡していた印に似てる。ただし、今の正式な札じゃない」
「古い?」
「三年くらい前に制度が変わった。今は番号と発行所の焼印が入る。これはそれがない」
つまり、正規の仕事で使われている証明ではない。だが偽物と決めつけるにも早く、昔の札をそのまま使っている者がいる可能性もあるという。デイルは木札を証拠袋へ戻し、アレンへ念を押すように視線を向けた。
「今夜は宿へ戻れ。こっちは夜番を増やす。お前が狙われた以上、もう好奇心で済む話じゃない」
「分かってます」
「本当に?」
「追いかけなかったでしょう」
「そこは評価する」
詰所を出る頃には夜も深くなっていた。今度は警備員が水鐘亭まで同行し、宿の受付にも事情を伝えた。アレンは部屋へ戻ると剣を手の届く位置へ置き、窓と扉の鍵を確かめた。眠ろうとしても、襲撃者が口にした「黙らせろ」という言葉が何度も頭へ浮かぶ。ノエルのことを調べ始めたから狙われたのか、それとも路地で布を見つけたからなのか。どちらにしても、誰かがアレンの動きを見ていた可能性は高かった。
翌朝、デイルは水鐘亭を訪れた。昨夜の布袋からは眠気と意識混濁を起こす薬草の成分が検出されたという。吸い込んだだけで必ず意識を失うほど強くはないが、顔へ密着させられれば抵抗を弱めるには十分だった。
「それと木札の出所が少し分かった。東の旧荷捌き場で、今も似た札が出回ってるらしい」
「正規の仕事じゃない?」
「少なくとも村の登録にはない。昼に確認へ行く」
「僕も?」
「駄目だと言いたいところだが、お前は二人の顔を見てる。荷捌き場の外までだ。勝手に離れるな」
警備側から同行を求められた形なら、昨夜の警告を破ることにはならない。単独で調べるのではなく、顔を見た証人として必要な範囲だけ同行する。その線を越えないよう意識しながら、アレンは頷き、朝食を済ませてから詰所へ向かった。
旧荷捌き場は、倉庫街のさらに東側にあった。かつて大型の荷車をまとめて停めていた場所らしく、広い石敷きの敷地を古い倉庫と低い事務所が囲んでいる。今は正式な荷役の大半が新しい市場側へ移っており、使われている建物は半分ほどしかない。入口には荷運び人や日雇いを探す者が集まり、壁には仕事の内容と賃金を書いた札が何枚も掛けられていた。
デイルたちが昨夜の木札を見せると、受付の老人は眉を寄せた。古びた印を見間違えないように角度を変えて確かめ、やがて記憶の中にあるものと照合できたらしく、低く息を吐いた。
「この印なら、ここじゃ出してないよ」
「見たことは?」
「ある。夜になると勝手に人を集めてる連中がいる。正式な受付を通さず、宿代や借金を立て替える代わりに仕事を回すってやつだ」
「どこで?」
「場所は決まってない。裏口だったり、酒場だったり。旅人ばかり狙うから、こっちも追い切れん」
老人は壁に掛けられた正式な求人札を一枚外した。仕事名、雇い主、時間、賃金、事故時の補償まで書かれており、誰が誰をどの条件で雇ったのか、後から確認できるようになっている。
「本当はこれが必要なんだ。登録のない仕事は、何かあっても誰が雇ったか残らない。あの二本線と輪の札を持ってくる奴は、だいたい『紹介済みだから書類はいらない』と言う」
「紹介された人は、どこへ行くんですか?」
「荷運びと聞いて来る奴が多い。だが、途中で別の仕事へ回されるって噂もある」
そのとき、敷地の端から聞き覚えのある声がした。振り向くと、カイが東側の倉庫へ配達する途中らしく、荷車を止めてこちらを見ていた。
「アレン?」
警備員と一緒にいる理由を説明すると、カイは昨夜の木札へ視線を落とした。表情はいつもとほとんど変わらなかったが、灰褐色の耳だけが低く伏せられ、見覚えのあるものを前にしたことが伝わってくる。
「それ、見たことある」
「どこで?」
「仕事を探し始めた頃。登録所の外で声を掛けてきた男が持ってた。宿代を前払いしてやるから、夜の荷運びをしないかって」
「受けた?」
「断った。条件を紙に書けって言ったら、向こうからいなくなった」
デイルが男の特徴を尋ねたが、数か月前のことで顔までははっきり覚えていないという。それでも、二本線と輪の印は同じだった。
「十五番倉庫と関係ある?」
アレンが小声で尋ねると、カイはすぐに首を横へ振った。疑っている場所があるからといって、そこへ都合よく証拠を重ねるつもりはないらしく、木札から視線を外してはっきり否定する。
「分からない。十五番で働いてる奴がこの札を持ってるのは見たことない」
疑いがあるからといって、都合よく結びつけるわけにはいかない。アレンが頷いたところで、旧荷捌き場の入口が少し騒がしくなった。
翼の付け根へ包帯を巻いた若いハーピーの女性が、相談所の職員に付き添われて入ってきた。十五番倉庫で仕事を断られていた女性だった。彼女もアレンに気づき、驚いたように足を止める。
「この前の……」
「怪我、大丈夫?」
「少しは。あなた、あの時いた人だよね」
相談所の職員が警備と話し始めると、女性は名をフィアと名乗った。十五番倉庫の前借りを返せずにいたところ、二日前、知らない男から別の仕事を紹介されたという。
「借金ごと引き取ってくれるって言われたの。ここより稼げる場所へ移れば、すぐ返せるって」
デイルが移動先を尋ねると、フィアは唇を噛んだ。最初に聞かされた話と、その後に変わっていった説明を思い返しているのか、包帯を巻いた翼を庇うように肩を縮める。
「分からない。最初は王都の近くだって。でも、あとで聞いたら南の鉱山かもしれないって言われた。話すたび場所が変わった」
「契約書は?」
「なかった。代わりに、これを渡された」
彼女が相談所の職員へ預けていた木札が机へ置かれる。二本線、その下に小さな輪。昨夜の襲撃者が落としたものと同じ印だった。まだ同じ人物が関わっていると断定できる段階ではない。それでも、偶然として片づけるには一致するものが増えすぎており、その場にいた者たちの表情が一斉に硬くなった。
「どうして受けなかった?」
フィアは震える指を握りしめた。嫌な記憶を言葉にすること自体が負担になっているのか、一度大きく息を吸ってから、男たちに言われた内容を順番に思い出す。
「借金が増えるって分かったから。移動代、食事代、宿代を先に向こうが払うって言われた。でも全部、あとで返す金に足すって。働く場所も、着くまで教えられない。断ったら『今の借金を売れば済む』って言われて……意味が分からなくて、相談所へ行った」
「借金を売る?」
アレンが意味を確かめるように聞き返すと、相談所の職員は表情を厳しくした。制度として存在するものと、フィアが受けた説明は同じではないことを切り分けるように、慎重な口調で答える。
「借金そのものを別の雇い主へ譲る契約はあります。ただし本人の同意が必要です。問題は、こういう無登録の仲介が本人の意思を無視して人まで移している可能性があることです」
フィアはさらに、男たちが別の紙を持っていたことを思い出した。名前ではなく年齢、種族、身体の状態、借金額らしい数字が縦に並び、その横に別の金額が書かれていたという。
「私のところには、銀貨四十二枚って書かれてた」
「借金額?」
「違う。借金はその半分くらい」
誰もすぐには言葉を返さなかった。人を仕事へ紹介するなら、賃金を書くはずだ。借金を整理するなら、返済額を書く。それなのに本人の借金より大きな数字が、年齢や身体の状態と並んで記されていた。
「値段みたいだった」
フィアは数字の並びを思い出すように視線を落とし、声を小さくした。借金の額とは合わず、賃金として説明されたものでもない以上、そう呼ぶ以外に思いつく言葉がなかったのだろう。
フィアが口にした「値段」という言葉によって、昨夜まで曖昧だったものの形が変わった。仕事の紹介や借金の整理として見えていたものの奥に、人そのものを金額へ置き換えて扱う仕組みがある可能性が浮かび上がる。
デイルはすぐに他の警備員へ指示を出し、旧荷捌き場で無登録の仲介をしている者、二本線と輪の札を使う者、最近消えた旅人や労働者の記録を洗い直すよう命じた。アレンとカイにはその場を離れないよう告げ、フィアは相談所の職員と一緒に詳しい聞き取りを受けることになった。
しばらくして、別の警備員が古い事務所の裏から戻ってきた。手には泥のついた紙片があり、端は水を吸って崩れかけていたものの、中央部分にはまだ文字が残っていた。
「排水溝に詰まってました」
破れていて全文は残っていない。それでも、読める部分には「年齢」「状態」「引渡額」という三つの項目があり、そのどこにも名前を書く欄は残されていなかった。少なくとも、その紙の上では誰が運ばれるのかより、どのような身体で、いくらで引き渡されるのかの方が重要だったらしい。
アレンは紙へ近づかなかった。ただ離れた場所から、その言葉だけを見た。旅人や働き手を誰かへ紹介する記録ではない。少なくとも、そこに記された誰かを一人の人として扱う書き方には見えなかった。
「これだけじゃ、誰が作ったかは分からない」
デイルは紙片から視線を上げなかった。見つかった内容がどれほど不穏でも、推測をそのまま事実へ変えてしまわないよう自ら戒めるように、ひとつずつ言葉を選んでから低い声で告げる。
「でも、捨てていい紙でもないな」
紙片はすぐ証拠として包まれた。アレンは隣に立つカイを見る。いつも表情の乏しい青年の顔にも、今ははっきりと嫌悪が浮かんでいる。荷運びを仕事にしているからこそ、人まで荷物と同じように記録する書き方が余計に許せないのかもしれなかった。
「旅人だけじゃなかったんだな」
カイの言葉に、アレンは頷いた。仕事を探す者。借金を抱えた者。短期間だけ村へ来た者。帰りを待つ家族が近くにいない者。消えても、予定を変えただけだと思われやすい人間ばかりだった。
ノエルも、その中の一人だったのかもしれない。王都から一人で来て、条件の悪い仕事を断り、その後に姿を消したという経緯は、今聞いた話と無関係だと言い切れなくなっていた。
旧荷捌き場を出る頃には、警備が敷地の一部を封鎖し始めていた。だがフィアの話に出た「移動先」がどこなのかは、まだ分かっていない。王都、南の鉱山、あるいは最初からどちらでもなかった可能性さえある。
アレンは市場へ戻る道で、街道の先を走る一台の荷車を見た。布を掛けられた荷台の中身は見えず、御者も普通の商人にしか見えない。これまでは、そうした荷車を見ても食料や商品を運んでいるとしか思わなかった。だが今は、村から外へ伸びる道のどこかを、人まで荷物のように扱う者たちが使っているかもしれない。その先へ運ばれた者がどこへ行くのか、まだ誰にも分からなかった。
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