第三章 第十二話 夜道の襲撃
路地へ入るなと念を押した警備員は、灰色の布切れの周囲へ縄を張り、近くの店主たちへの聞き込みを始めた。アレンも見つけた場所と時刻、布へ触れていないことを改めて説明すると、これ以上は調査の邪魔になるから宿へ戻るよう言われた。夕方の市場はこれから夜の客が増え始める時間で、細い路地の入口に人が集まり続ければ、残っている痕跡まで踏み荒らされかねない。
「今日はもう戻れ。何か分かったら、必要ならこっちから聞きに行く。それと、一人で続きを探そうとするなよ」
「分かりました。路地にも入りません」
実際、そのつもりはなかった。ノエルのものかもしれない布が見つかった以上、警備が調べている場所へ勝手に入り込む理由はない。アレンは路地を離れ、市場の北側へ戻る途中で、荷車の縄を締め直しているカイを見つけた。
「何かあった?」
「何で分かるの」
「顔」
相変わらず短い答えだった。アレンが灰色の布と警備の話をすると、カイの表情は変わらなかったが、尾の先だけが一度強く振れた。
「路地の先は?」
「倉庫街の方角。でも、警備に止められたから入ってない」
「ならいい。あの辺は倉庫街の手前に古い荷捌き場もある。夜はほとんど使わない」
「十五番倉庫にも抜けられる?」
「抜けられる。でも他の倉庫にも行ける。今の話だけで十五番に決めるなよ」
「分かってる」
同じことを考えていたからこそ、アレンは素直に頷いた。カイも今日はもう宿へ戻れと言い、最後の配達があるからと荷車を押して市場の奥へ消えていった。
日はすでに屋根の向こうへ沈み、中央通りには色付きの灯りが戻り始めていた。黄色い市場では夕食の屋台に人が集まり、紫通りからは遊戯の勝敗に沸く声が聞こえる。昨日までなら、その賑やかさに足を止めたかもしれない。だが今夜は、白樹亭に残されたノエルの荷物と、路地に落ちていた灰色の布が頭から離れなかった。それでも村全体を疑うつもりはなく、アレンは人通りの多い中央通りを選んで水鐘亭へ戻ろうとした。
中央広場へ入る手前で、灰色の上着を着た男が前から近づいてきた。三十代ほどの人間で、見える範囲に武器はない。男は周囲を一度見回したあと、アレンの前で足を止めた。
「白樹亭の件で話を聞いた旅人だな?」
「そうですけど」
「警備から伝言だ。さっきの路地で確認したいことがある。少し来てくれ」
男が指したのは市場と青通りの間を抜ける生活道路だった。細いが完全な裏道ではなく、宿や倉庫へ向かう者も使う道だ。それでも警備員の姿は見えない。
「誰に頼まれたんですか?」
「さっきお前と話してた奴だよ」
「名前は?」
「細かいところまで知らねえよ。いいから来い」
「じゃあ、ここで待ちます。警備の人を呼んできてください」
男の目から愛想が消えた。
「面倒な奴だな」
その声とほぼ同時に、背後で靴底が石畳を擦った。アレンは振り返るより先に身体を横へずらし、後ろから伸びた腕を避ける。粗い布袋が肩の横を通り過ぎ、男の手から半分落ちた。頭から被せるつもりだったらしい。アレンは腰の剣を抜かず、鞘に収めたまま身体を回して相手の前腕を下から打ち上げた。
「こいつ――」
「何するんだ!」
問いに答える代わりに、最初の男が上着の内側から短い木棍を抜いた。頭を狙って振り下ろされた一撃を斜めへかわすと、木棍は外套の肩をかすめる。アレンは鞘の先を相手の胸元へ押し込み、踏み込む勢いごと二歩下がらせたが、背後の男もすでに立て直していた。布袋を捨て、今度は輪にした縄を投げてくる。腕へ絡みかけた縄を、アレンは剣を抜いて鍔で弾いた。
金属音に周囲の客が振り返った。
「警備を呼んで!」
アレンの声に、近くの屋台から一人が駆け出した。
「黙らせろ!」
木棍の男がもう一度踏み込む。今度は剣を持つ右手を狙っていた。アレンは正面から受けず、半歩だけ左へ流れて攻撃を空振りさせる。その勢いに合わせて左手で肘を押し、足を進行方向へ添えると、男は踏ん張れず石畳へ肩から転がった。
直後、背後から風を切る音がする。二人目が小刀を抜いていた。アレンは反射的に剣を横へ向け、短い刃を剣身で受ける。刃物が出た以上、さっきまでと同じ距離では戦えない。相手との間に切っ先を置き、斬るためではなく踏み込ませないために間合いを保った。
「やめろ。もう人が集まってる」
「うるせえ!」
小刀が振り上げられた瞬間、アレンは左手を開いた。掌の前で短い風が弾け、踏み込んだ男の顔と足元を同時に乱す。人を吹き飛ばすほどの力ではないが、一瞬視線を逸らさせるには十分だった。その隙に間合いへ入り、剣の柄頭を手首へ打ちつける。小刀が石畳へ落ちた。
「魔法まで使うのかよ!」
「先に刃物を出したのはそっちだろ!」
転がっていた男が起き上がり、市場側から人が集まり始めていることに気づいた。遠くでは警笛も鳴っている。
「引くぞ!」
二人は別々の方向へ走り出した。一人は市場の外側へ、もう一人は宿の間を抜ける狭い道へ逃げる。アレンも反射的に一歩出かけたが、すぐに止まった。警備員から、見つけても一人で追うなと言われている。逃げた先に何人いるのか分からない以上、追跡する方が危険だった。
代わりに落ちた小刀、縄、布袋から距離を取り、周囲の者へ触らないよう声を掛けた。数十秒もしないうちに警備員が二人駆けつけ、そのうち一人は夕方に路地でアレンへ注意した男だった。
「行くなと言ったよな」
「行ってません。向こうから来たんです」
事情を最初から説明すると、最初の会話を聞いていた店員や客も証言してくれた。警備員は道具を一つずつ確認し、布袋へ顔を近づけようとした仲間をすぐに止める。
「嗅ぐな。薬がついてるかもしれない」
布袋の口には細い紐まで縫いつけられていた。荷物を運ぶだけの袋には見えない。もし最初に頭から被せられていたらどうなっていたのか、アレンにも想像はついたが、薬が本当に使われているかはまだ分からない。
「顔は覚えてるか?」
「二人とも」
「あとで詰所で似顔絵を取る。追跡には加わるな」
「分かりました」
警備員が別の者を逃走方向へ走らせたところで、人垣の外から聞き慣れた声がした。
「……何してるんだよ」
仕事を終えたカイだった。空の手押し車を押したまま、小刀と布袋、それから無傷で立つアレンを順に見る。
「僕が聞きたい」
「宿へ戻れって言ったよな」
「戻る途中だった。本当に」
事情を聞いたカイは、布袋に薬の可能性があると知ると耳を低く伏せた。
「前に見つかった旅人も、意識が途切れてて移動した道を覚えてなかったって噂があった」
「昼には言ってなかった」
「怪我して見つかった話しか確かじゃなかったから。噂まで事実みたいに混ぜたくなかった」
今の布袋と同じ方法だった証拠はない。それでも、確かめるべきことが増えたのは間違いなかった。
警備員に詰所へ同行するよう言われ、アレンが歩き出そうとしたとき、石畳の端に小さな木札が落ちていることに気づいた。襲撃前からあったかどうか確信できなかったため、触れずに警備員へ知らせる。
布越しに拾い上げられた札は掌より小さく、表には二本の横線と、その下に小さな輪が刻まれていた。裏には紐を通す穴が一つある。
「何の札ですか?」
「荷役の臨時札に似てる。ただし、この村の外でも似た形は使う。これだけじゃ何も決められない」
警備員はすぐに証拠袋へ収めた。
ノエルが断ったという荷運びの仕事。路地に落ちていた鞄の一部。薬がついているかもしれない布袋。そして襲撃者が落とした可能性のある荷役札。それまで別々だったものの間に、細い線が生まれ始めていた。
詰所へ向かう途中、アレンは一度だけ夜の市場を振り返った。屋台は営業を続け、遠くでは音楽も鳴っている。数分前まで誰かに連れ去られかけた場所とは思えないほど、村はいつもの夜へ戻ろうとしていた。
明日の朝には王都へ向かうつもりだった。だが今はもう、予定通り旅立つという選択肢を簡単には選べそうにない。ノエルがどこへ消えたのか。そして、なぜその行方を調べ始めた旅人まで狙われたのか。偶然という言葉だけでは片づけられないものが、ようやく目の前に姿を現し始めていた。
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