第三章 第十一話 消える旅人
翌朝、アレンはいつもより早く目を覚ました。窓の外では、まだ市場の屋台が布を広げ始めたばかりで、青通りを通る荷車の数も少ない。昨夜聞いた「戻っていない」という言葉が、眠っている間にも頭のどこかへ残っていた。王都へ向かう準備はできている。食料も水もあり、カイから道も聞いた。予定通りなら、朝食を済ませて東門へ向かえばいいだけだった。それでも荷物をまとめ終えたあと、アレンの手は扉の前で止まった。
「……一度だけ確認しよう」
誰かが帰ってこない。それだけなら珍しい話ではない。酒を飲んで別の宿へ泊まったのかもしれないし、急に旅程を変えた可能性もある。昨夜の時点では警備も呼ばれていた。すでに無事が確認されているなら、それで終わりだ。朝食を済ませたアレンは、水鐘亭の受付へ鍵を返す前に、昨夜の騒ぎについて尋ねた。受付の女性は最初こそ何のことか分からない顔をしたが、「市場の近くの宿で、客が戻っていないらしい」と説明すると表情を曇らせた。
「まだ見つかってないみたいね」
「知ってるんですか?」
「朝、警備の人が聞き込みに来たの。昨夜、この辺で見かけなかったかって」
「どんな人?」
「若い男の旅人。人間で、茶色い髪。名前までは聞かなかった」
水鐘亭まで聞き込みが来ているなら、単なる寝坊や行き違いでは済んでいないらしい。アレンが「よくあるんですか」と尋ねると、女性は少し考えてから首を横へ振った。
「酔って戻らない人ならいるよ。でも、荷物を全部置いたまま朝になっても帰らないなら、宿側も放っておけないでしょう」
その言葉を聞き、アレンは鍵を返すのをやめた。予定通り出発するだけなら、ここで返してしまえばいい。だが今は、朝のうちに村を離れる気にはなれなかった。
「もう一泊できますか?」
「空いてるけど……王都へ行くんじゃなかったの?」
「少しだけ予定を変えます」
受付の女性は理由を聞かなかった。ただ延泊分の料金を受け取ると、鍵をもう一度アレンへ戻した。
市場へ向かうと、カイは昨日言った通り入口近くにいた。今日は空の手押し車へ縄を積み込んでいる。アレンを見ると、東門へ向かう旅支度ではないことにすぐ気づいたらしい。
「出ないの?」
「予定変えた」
「何かあった?」
「旅人が一人、戻ってないらしい」
その言葉でカイの手が止まった。いつもの無表情は崩れなかったものの、灰褐色の耳だけが少し後ろへ向き、さっきまで動いていた尾の先も静かになる。単なる旅人の気まぐれとして聞き流していないことは、それだけで分かった。
「どこで聞いた?」
「昨日、市場で。今朝、宿でも警備が探してるって聞いた」
「名前は?」
「まだ知らない。人間の若い男で、茶色い髪」
「……またか」
「また?」
カイはすぐには答えなかった。周囲へ一度だけ目を向け、人の流れを確認してから声を落とす。
「ここ一か月くらいで、似た話を三回聞いた。全部、旅人か短期で働きに来た奴だ。宿に荷物を残して、急にいなくなる」
「見つかった人は?」
「一人は数日後、別の街道沿いで見つかったって聞いた。怪我してたらしいけど、詳しくは知らない。もう一人は、その後の話を聞いてない」
昨夜までなら偶然だと思えたかもしれない。だが相談所の女性が言っていた言葉が浮かぶ。一人なら偶然でも、同じことが続けば話は変わる。
「警備は知ってる?」
「知らないわけないだろ。ただ、旅人は予定を変えることも多い。本人が消えたって届けが出ないまま終わることもある」
「今回の人は?」
「宿が届けたなら調べる。首を突っ込むつもり?」
「まだ決めてない。ただ、何が起きてるのかは知りたい」
「それを首を突っ込むって言うんだよ」
「じゃあ、少しだけ」
「少しで済む顔じゃない」
呆れたように言われたが、カイは止めようとはしなかった。縄をまとめ終えると手押し車の脇へ立ち、少しだけ声を落とす。
「昼までなら市場の北側にいる。何か聞くなら、宿の名前くらい調べてからにしろ」
アレンは昨夜騒ぎがあった場所へ向かった。市場の端にある宿は「白樹亭」という二階建ての建物で、入口にはすでに二人の警備員がいる。勝手に中へ入るのは避け、外でしばらく様子を見ていると、昨夜見かけた若い女性が建物から出てきた。足早に市場へ向かおうとしていたため、アレンは邪魔にならない位置から声を掛ける。
「あの、昨日ここで話してた人ですよね」
女性は足を止めたものの、すぐには近づかず、警戒するようにアレンを見た。昨夜一度見かけただけの旅人から突然声を掛けられたのだから、その反応は当然だった。
「誰?」
「近くを通ったとき、戻ってない人がいるって聞こえたんです。今朝も見つかってないって聞いて」
「知り合い?」
「違います。ただ……似たようなことが前にもあったって聞いたから」
女性の表情が変わった。入口にいる警備員へ一度視線を向け、話しても問題ない内容か考えるように少し迷ったあと、人の流れを塞がない宿の壁際へ移動する。
「いなくなったのはノエルって人。二十三歳。王都から来た旅人で、三日前からここに泊まってるの」
「一人で?」
「うん。昨夜出たきり戻ってない。私、ここの手伝いをしてるから部屋も見た。荷物も予備の財布も置いたまま。旅に必要な外套まで残ってる」
「最後にどこへ行くって?」
「赤通りを見てくるって言ってた。でも、酒はそんなに飲まない人だったと思う」
「誰かと一緒だった?」
「そこが分からない。店を出たところまでは見た人がいるけど、そのあとがないの」
女性は腕を抱くようにして視線を落とした。警備はまだ事件だと決めておらず、喧嘩のあと別の場所で寝ている可能性や、誰かの部屋にいる可能性も含めて探しているらしい。それでも、外套まで残したまま連絡もなく消えるのはおかしいと、宿の者たちは考えていた。
「ノエルって、何か仕事を探してた?」
「どうして?」
「倉庫街で、旅人向けの日雇いもあるから」
「……一回だけ行ったって言ってた」
女性の声が少し低くなった。今までは宿泊客について知っていることを説明していただけだったが、その話だけは思い出してから慎重になったように見える。
「どこ?」
「番号までは知らない。でも、夜の店で使う酒を運ぶ仕事を紹介されたって。条件が悪かったから断ったって言ってた」
十五番倉庫が頭をよぎったが、すぐに結びつけるのは早い。倉庫街にはいくつも建物があり、酒を扱う場所も一つとは限らない。
「誰に紹介されたかは?」
「知らない。市場で声を掛けられたって」
そこまで話したところで警備員の一人が近づいてきたため、アレンは事情を説明した。以前にも旅人が荷物を残したまま消えたという話を聞いたことも伝えると、警備員は面倒そうな顔をせず、手帳を取り出した。
「その話をした相手の名前は?」
「本人の許可を取ってないので、今は言えません。でも、この村で運び屋をしてる人です」
「分かった。無理には聞かない。ただ、似た話を聞いた場所や時期を思い出したら教えてくれ」
警備員はノエルの特徴も改めて教えた。茶髪、灰色の上着、革の肩掛け鞄。腰には短剣を一本。王都から来た一人旅の青年だという。
「見つけても一人で追わないでくれ」
「誰かに追われてる可能性があるんですか?」
「可能性の話だ。今は何も決まってない。ただ、失踪者を探して旅人が二人目になるのは困る」
「分かりました」
その言い方は冗談ではなかった。アレンは白樹亭を離れ、市場を歩きながらノエルが最後に向かったという赤通りへ視線を向ける。昼間の赤通りはまだ静かで、閉じた扉も多い。夜になれば人が増え、誰がどこへ入ったのか覚えている者も少なくなる。それでも、何も手掛かりがないわけではなかった。市場で仕事を紹介された。酒を運ぶ仕事。条件が悪く、断った。そのあと赤通りへ出て消えた。偶然かもしれないし、十五番倉庫とも関係ないかもしれない。だからこそ、決めつけずに確かめる必要があった。
昼過ぎ、アレンは相談所へ向かった。以前話した中年女性は不在だったが、受付には若いエルフの男がいた。失踪者の名前を出さず、「旅人が急にいなくなる相談はあるか」とだけ尋ねる。
「相談そのものはあります」
「多い?」
「多いとは言えません。ただ、ここ二か月で少し増えています」
「どんな人が?」
「旅人や短期労働者です。帰ってこない、連絡が取れない、仕事先を急に辞めたと言われた、という内容ですね」
「同じ雇い主?」
「そこまでは話せません」
予想していた答えだった。相談者の情報を簡単に外へ漏らすような場所なら、困っている者ほど来られなくなる。アレンはそれ以上具体的な名前を聞こうとはせず、以前ここで聞いた「記録を残すだけでも意味がある」という言葉を思い出して、質問の形を変えた。
「同じ場所の相談が続いてる?」
エルフの男はすぐには答えず、机の上の書類へ一度視線を落とした。何を話せて、何を話せないのか確かめるように数秒黙ってから、慎重に言葉を選ぶ。
「それも答えられません。ただ、気になるなら夜に一人で裏道を歩かないことです。店の裏手や倉庫街へ抜ける道は、昼は仕事の通路でも、夜になると人通りがかなり減ります」
カイにも同じことを言われていた。偶然の忠告ではなく、この村で暮らす者なら知っている注意なのだろう。
相談所を出たあと、アレンは一度水鐘亭へ戻り、部屋の机に地図を広げた。赤通り、倉庫街、市場、白樹亭の位置を確かめると、赤通りから倉庫街へ抜ける細い道はいくつかあり、そのうち一本は以前カイから使わない方がいいと言われた道に近い。だからといって夜にそこへ行く理由にはならない。警備員からも一人で追うなと言われている以上、何も分からない状態で暗い道へ入れば危険なだけだ。
まずはカイに、以前消えた旅人の話をもう少し聞く。それから警備が何を掴んでいるのか待つ。今夜すぐに動く必要はない。そう決めて地図を閉じた。
夕方、市場の北側へ向かう途中、アレンは路地の入口に落ちている灰色の布へ目を留めた。ただの布切れなら通り過ぎていただろう。しかし端には細い革紐が縫いつけられ、肩掛け鞄の口を留めるための小さな金具が残っている。白樹亭の警備員が説明したノエルの革の肩掛け鞄を思い出し、アレンは拾わずにその場でしゃがんだ。路地は昼でも薄暗く、その先は倉庫街の方角へ続いている。
偶然かもしれない。だからこそ勝手に証拠へ触れず、アレンは近くの店員へ警備を呼んでもらうよう頼んだ。数分後、駆けつけた警備員は布切れを確認すると、顔つきを変えた。
「これ、ノエルの鞄と同じ布だ」
断定ではない。それでも、初めて目に見える手掛かりが出た。警備員は路地の奥を見たあと、アレンへ向き直る。
「今日はここから先へ行くな」
「分かってます」
「本当に分かってる顔じゃないな」
「……行きません」
念を押され、アレンは一歩下がった。路地の向こうにはまだ誰の姿もない。それでも、消えた旅人がただ気まぐれに村を離れたのではない可能性だけは、もう無視できなくなっていた。
ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!




