第三章 第十話 残された名前
水鐘亭へ戻ったあとも、アレンはしばらく部屋の窓を開けたまま椅子に座っていた。朝の市場から届く声や荷車の音はいつも通りなのに、今朝だけはどこか遠く感じる。昨夜から今朝にかけて起きたことを後悔しているわけではない。それでも、麗華と別れて一人になった途端、彼女が最後に見せた表情や「またね」という短い言葉が何度も思い返された。
恋人ではない。それは二人で確かめた。先の約束もしていない。だから何かを期待する理由はないはずだった。それでも、また会いたいと口にしたのはアレンの方で、麗華もそれを拒まなかった。その事実だけが、曖昧なまま胸の内に残っている。
「……考えすぎても仕方ないか」
声に出して区切りをつけ、アレンは荷物を整理した。旅を続けるなら、そろそろ村を出る日も考えなければならない。王都までの道はカイから聞いている。水筒の革紐も直し、剣帯にも問題はない。ここへ来た目的そのものが明確だったわけではない以上、いつまでも留まる理由もなかった。
昼前に宿を出ると、黄色い市場通りはいつも通り賑わっていた。夜の華やかさが消えたあとには生活の音が戻り、野菜を並べる商人、洗濯物を運ぶ住民、宿へ食材を届ける荷車が行き交っている。村へ来たばかりの頃には目についた色付きの札も、今では道を確かめるための普通の目印になっていた。
市場の入口近くまで来ると、荷物を肩へ担いだカイを見つけた。灰褐色の耳が先にアレンへ向き、そのあと深い緑の目がこちらを見る。何度か顔を合わせただけなのに、互いを見つけることがもう特別ではなくなり始めていた。
「今日は遅いな」
「朝から少し用事があった」
「そう」
それだけで追及しないところは、カイらしかった。アレンも説明するつもりはなく、そのまま隣を歩きながら、旅立ちについて決めかけていることを伝えた。
「明日か明後日には、王都へ向かおうと思ってる」
「やっとか」
「やっとって何だよ」
「二日で出る顔してたのに、ずっといるから」
「そんな顔ある?」
「ある」
「適当だろ」
「半分くらい」
麗華と同じような言い方をされ、アレンは思わず足を止めかけた。ほんの数日前なら何とも思わなかった言葉なのに、今朝まで一緒にいた相手を思い出してしまう。カイは理由が分からないまま片耳を動かした。
「何?」
「いや、何でもない」
「変な奴」
そう言って前を向く横顔は相変わらず無愛想だったが、以前ほど冷たくは見えなくなっていた。付き合いが少し増えただけで、同じ表情でも受け取る印象は変わるらしい。
「王都へ行くなら、朝に出た方がいい。最初の宿場までなら余裕を持って着ける」
「分かった」
「東門の近くに安い食料店がある。旅人向けの値段で売ってるから、ここで買うより少し安い」
「そういう情報、最初に教えてよ」
「聞かれなかった」
「聞かなかった僕が悪いの?」
「そう」
即答され、アレンは苦笑した。カイは次の配達があるらしく、市場の中央で別れた。去り際に「明日の朝、まだいたら市場にいる」とだけ言い残す。見送りながら、アレンはこの村で知り合った者の中で、カイとはまたどこかで会う気がした。理由はない。ただ、旅の途中で一度会っただけの相手とは少し違う感覚があった。
午後は旅支度の確認に使った。干し肉と固いパンを買い足し、水筒を満たし、王都へ向かう道を地図へ書き込む。必要なことを一つずつ済ませていくうちに、明日の朝には出発しても困らない状態になった。
それでも、夕方が近づくにつれ、ひとつだけ済ませていないことがあるような気がしてきた。麗華に、もう一度会うことだった。約束はしていない。朝に別れたばかりでもある。それでも明日出発する可能性があるなら、その前に一言くらい伝えてもいい。そう考えた時点で、会いたい理由を旅立ちの挨拶だけにするのは無理があるとも分かっていた。
日が傾き始める頃、アレンは昨夜歩いた道をもう一度辿った。赤通りの中心から二本外れ、賑やかな店の音が少し遠くなる。月形の金具がついた灯りを見つけるまで迷うことはなかった。
建物の扉を開けると、昨夜は無人だった受付に年配の人間の女性が座っていた。帳面へ何かを書き込んでいた手を止め、アレンを見る。
「部屋を探してるの?」
「人を訪ねてきました。二階の奥の部屋にいる、麗華っていう人です」
女性は少し考えたあと、帳面を数枚めくった。宿泊者の名前を探しているというより、部屋の使用記録を確かめているようだった。
「黒髪の綺麗な人?」
「はい」
「今朝、出たよ」
返事があまりに簡単で、アレンは一瞬意味を理解できなかった。今朝まで同じ部屋にいた相手が、もうそこにはいないという事実だけが少し遅れて胸へ落ちてくる。
「出た?」
「部屋を引き払った。昼前だったかな。荷物も全部持っていったよ」
「どこへ行ったか、聞いてませんか?」
「さあね。あの人、前から時々来てるから。長く借りるときもあれば、二、三日でいなくなるときもある」
「前から?」
「何度か見てるよ。詳しいことは知らないけどね」
麗華がこの村へ何度も来ていることは本人から聞いていた。けれど、朝に別れたあと、そのまま部屋まで引き払ったとは思っていなかった。宿の女性の話を聞く限り、こうして滞在場所を変えること自体は珍しくないらしい。
女性はもう一度帳面へ目を落としかけたが、何か思い出したように手を止め、今度は確かめるようにアレンの髪と目を見てから顔を上げた。
「あんた、アレン?」
「そうですけど」
「なら、預かってるものがある」
受付の下から、小さく折られた紙を取り出す。封はされておらず、外側には名前も書かれていない。
「黒髪の人が出る前に置いていった。黒髪で琥珀色の目をした若い男が来たら渡してくれって」
「……僕が来ると思ってたんだ」
「さあ。来なかったら捨てていいとも言ってたけど」
「そこまで言ったんですか?」
「言ったよ。変わった人だね」
否定はできなかった。アレンは礼を言って紙を受け取り、建物の外へ出た。夕方の風が路地を抜け、遠くから市場の音が届いている。紙を開くと、中には短い文しか書かれていなかった。
「旅を続けなさい。またどこかで会いましょう。――麗華」
書かれていたのは、それだけだった。行き先も、次にいつ会うのかも書かれていない。朝には「またね」と言いながら、その日のうちに部屋を引き払っていた。相変わらず、麗華はこちらが知りたいことを一つも素直に残してくれない。
「……勝手だな」
口ではそう言ったものの、紙を捨てる気にはならなかった。もう一度読み返す。「またどこかで会いましょう」。会う場所も時期も書かれていないが、別れの言葉というより、次の再会を気軽に約束するような書き方だった。
朝、麗華が「今日は少し用事がある」と言っていたことを思い出す。あの時点でこの部屋を出るつもりだったのか、それとも別れたあとに決めたのかは分からない。少なくとも、今どこにいるのかを聞ける相手はもういなかった。
紙を折り直し、アレンは旅用の地図を入れている袋へしまった。黒髪の女から最初にもらった地図の近くに、今度は彼女自身の言葉が残ることになる。
麗華という名前を知ったことで、少し近づいたように思っていた。だが実際には、名字も故郷も、旅の目的も、何一つ分かっていない。夜を共にしたあとでさえ、それは変わらなかった。
それでも、分からないことを理由に昨夜を後悔する気はなかった。麗華が何者であっても、あの夜に選んだことまで嘘になるわけではない。
路地を出ると、村は夜の準備を始めていた。色付きの灯りが一つずつ点き、赤通りには華やかな服を着た者たちが戻り始めている。麗華の姿が見えなくても、村の日常は何も変わらない。
アレンは中央通りを歩きながら、明日のことを考えた。王都へ向かうなら、朝に東門を出ればいい。カイが市場にいるなら、出発前に挨拶もできる。旅はそこでまた次の場所へ進む。
そう考えていたとき、通りの向こうで誰かが大きな声を上げ、アレンは反射的にそちらへ目を向けた。
「まだ戻ってないのか?」
市場の端で、宿の店主らしい男と若い女性が話している。聞き耳を立てるつもりはなかったが、女性の声が焦っていたため、言葉の一部が自然に届いた。
「昨日の夜からだよ。荷物も部屋に置いたままなのに」
「警備には?」
「今、呼びに行ってる」
男の表情が曇り、二人はすぐに市場の奥へ消えていった。村では人の出入りが多い。予定を変えて別の場所へ行く旅人もいるだろう。酒を飲みすぎて違う宿で寝る者だっているかもしれない。今聞いただけでは、何が起きたのか判断できない。
それでも、十五番倉庫で見たことや、相談所の職員が話していた「同じ相談が続けば偶然とは言えない」という言葉が、ふと頭をよぎった。アレンはすぐに追いかけなかった。まだ何も分かっておらず、焦って動けば事情を見誤ることは、ここへ来てから何度も学んでいる。ただ、麗華が残した紙をしまった袋へ一度だけ手を触れ、そのまま水鐘亭へ向かって歩き出した。明日の朝、本当にこの村を出ることになるのか。その答えだけが、さっきまでより少し曖昧になっていた。
ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!




