第三章 第九話 朝の隣
朝の光は、閉じた瞼の向こうからゆっくり差し込んできた。アレンが目を覚ましたとき、最初に感じたのは見慣れない天井だった。水鐘亭の部屋より低く、木の梁には小さな傷がいくつも残っている。しばらく何も考えずにそれを見上げてから、昨夜ここへ来た理由を思い出し、すぐ隣に誰かの気配があることにも気づいた。
横を向くと、麗華がまだ眠っていた。長い黒髪が枕の上へ広がり、普段のような人をからかう笑みは当然なく、静かな寝息だけが聞こえる。夜の灯りの中で見るより幼く見えるほど穏やかな顔に、アレンは一瞬だけ視線の置き場を失い、慌てて起き上がろうとした。その動きに合わせて寝台が小さく軋んだ直後、目を閉じたままの麗華から声が飛んだ。
「……朝から逃げるの?」
「起きてたの?」
「今、起きた」
「じゃあ、その言い方何」
「あなたが面白い動きをしたから」
ゆっくり目を開けた麗華は、眠そうに瞬きをしたあと、いつもの笑みを浮かべた。けれど声にはまだ朝の柔らかさが残っている。
「おはよう、アレン」
「……おはよう」
返した途端、昨夜の記憶が鮮明に戻ってきた。どこまで思い返せばいいのか分からず、アレンは窓の方へ顔を向ける。薄い布の向こうから朝日が差し込み、村の外では荷車の音がもう聞こえていた。
「顔、赤いわよ」
「言わなくていい」
「昨夜は平気だったのに?」
「朝に言うのは違うだろ」
「何が違うのかしら」
麗華は楽しそうだったが、それ以上露骨にからかうことはしなかった。むしろ少し間を置き、声の調子を落とす。
「後悔してる?」
その問いだけは真面目だった。アレンはすぐに答えず、一度だけ息を整える。勢いだけで決めたつもりはない。何度も確認され、そのたびに残ると選んだ。朝になったからといって、その事実が変わるわけではなかった。
「してない」
「本当に?」
「うん」
「そう」
麗華は短く答え、少しだけ目を細めた。その表情に安堵が混じったように見えたが、確かめる前に彼女はいつもの調子へ戻る。
「なら良かった」
「麗華は?」
「何が?」
「後悔してない?」
「してたら、こんなにのんびり隣で寝てないわ」
「それもそうか」
「もう少し気の利いたことを言えない?」
「朝から難しいこと言わないで」
麗華が小さく笑い、二人の間に短い沈黙が落ちた。昨夜までは何を話しても、どこか互いを探るような感覚があった。今も知らないことの方が多い。それなのに、同じ寝台で朝を迎えたという事実だけが、距離の測り方を少し変えていた。
アレンは椅子の横へ置いた剣がそのままあることを確認し、床へ足を下ろした。荷物も動かされていない。麗華はそれに気づき、寝台へ頬杖をついた。
「最初に剣を確認するのね」
「癖になってる」
「大事なもの?」
「かなり」
「誰かにもらった?」
「違う。ずっと家にあったもの」
「へえ」
麗華はそれ以上聞かなかった。普段ならもう一つ二つ質問を重ねそうなのに、今日はあっさり引く。
「聞かないんだ」
「話したくなったら話せばいいでしょう?」
「麗華がそれ言う?」
「私だから言うのよ」
麗華自身のことをほとんど話さない人間に言われると、説得力があるのかないのか分からない。アレンが苦笑すると、麗華は寝台から起き上がって髪を手で整え、そのまま朝食の話へ切り替えた。
「朝ごはん、食べる?」
「ここで?」
「下に食堂がある。昼前までは軽いものを出してるわ」
「麗華、ここ本当に詳しいね」
「まだ聞くの?」
「聞くだけなら自由だろ」
「答えるかどうかも自由ね」
「分かってた」
麗華は楽しそうに笑いながら外套を羽織り、何事もなかったように扉へ向かった。その自然さに少し救われるような感覚があり、アレンも剣を腰へ戻して後に続いた。
階下の食堂は夜とは別の場所のように静かだった。六つある卓のうち使われているのは二つだけで、窓際では猫人の男が眠そうにスープを飲み、奥では人間の女性が帳面を確認している。麗華が店主へ声を掛けると、温かいパンと卵、薄い野菜のスープが二人分運ばれてきた。
「いつもここで食べてるの?」
「時々」
「部屋も長く借りてる?」
「それも時々」
「答えてるようで答えてない」
「気づいた?」
「もう慣れた」
食事を始めると、昨夜とは違って会話は途切れがちだった。気まずいというより、何を話せば自然なのか互いに探しているような時間だった。やがて麗華がスープから顔を上げ、先に口を開く。
「これで、私たちが何か特別になったと思ってる?」
アレンはパンを持つ手を止め、麗華の表情を確かめた。声音は穏やかだったが、からかうための質問ではないことは分かる。
「……どういう意味?」
「そのままよ。恋人になったとか、ずっと一緒にいるとか」
「思ってない」
「そう」
「麗華は?」
「同じ」
返事は迷いなく早かった。胸のどこかが僅かに引っかかった気はしたが、それが何なのか、アレンにはまだうまく言葉にできなかった。昨夜を後悔しているわけではない。ただ、一晩を共にしたからといって相手の人生まで分かったことにはならない。それは麗華も同じなのだろう。
「嫌だった?」
「いや。最初から、麗華がそういう約束をしたわけじゃないし」
「真面目ね」
「またそれ?」
「褒めてる」
麗華は少し笑ってからスープへ視線を落とした。さっきまでより表情は静かで、次に口にした言葉には冗談めいた響きがなかった。
「私は、誰かに勝手に意味を決められるのが嫌なの」
「意味?」
「一緒に食事したからこう。夜を過ごしたからこう。優しくしたからこう。そうやって、次に何をするかまで決められるのが嫌」
その言葉には、これまでより少しだけ重さがあった。アレンは無理に理由を尋ねず、少し考えてから答える。
「じゃあ、その都度決めればいいんじゃない?」
「その都度?」
「昨日は昨日。今日また会いたいなら会えばいいし、会いたくないなら別に会わなくていい。先のことまで今決めなくてもいいだろ」
麗華はしばらく黙り、何かを測るようにアレンを見ていた。やがてほんの少しだけ笑みを浮かべる。
「……あなた、本当に時々ずるいこと言うわね」
「何で?」
「本人が分かってないところ」
「意味分からない」
「分からなくていい」
また秘密が増えた気がしたが、アレンはそれ以上追わなかった。食事を終え、二人で建物の外へ出ると、朝の通りには夜の華やかさがほとんど残っていない。店の前では掃除が始まり、昨夜使われた看板が壁へ立てかけられている。遠くでは市場へ向かう荷車がゆっくり進んでいた。
「今日はどうするの?」
「一度、水鐘亭に戻る。荷物も置いたままだし」
「そのあと?」
「まだ決めてない」
「王都へ出る?」
「今日すぐには出ないと思う」
「そう」
麗華はそれ以上何も付け加えなかったが、口元が僅かに緩んだことをアレンは見逃さなかった。わずかな変化だったものの、出会ったばかりの頃なら気づかなかったかもしれない。
「嬉しい?」
「何が?」
「まだいるって言ったこと」
「どうかしら」
「今ちょっと笑った」
「気のせいよ」
「絶対違う」
「朝から細かい男ね」
いつもの調子が戻ってきたことに、アレンは少しだけ安心した。中央通りへ出る手前まで歩いたところで、麗華が足を止める。
「ここで別れましょうか」
「水鐘亭まで来ないの?」
「送ってほしい?」
「逆じゃない?」
「どっちでもいいわ」
麗華は笑いながら一歩下がり、そのまま赤通りとは別の方向へ視線を向けた。別れを惜しむような態度は見せないが、すぐに立ち去ろうともしなかった。
「今日は少し用事があるの」
「遊び?」
「半分くらい」
「またそれか」
「便利でしょう?」
アレンは呆れたように息を吐いたものの、別れるとなると次に会えるかどうかが気になった。少し迷ってから、結局その疑問を口にする。
「じゃあ、また会える?」
言ってから、少しだけ早かったかもしれないと思った。麗華はすぐには答えず、からかう笑みのない静かな目でアレンの顔を見る。
「会いたい?」
「昨日もそれ聞いた」
「今日は答えてくれる?」
ここで逃げても同じことを聞かれるだけだと分かっていた。それなら曖昧に誤魔化す理由もなく、アレンは今度こそ素直に言葉を返した。
「……会いたい」
その答えを聞いた麗華は目を細め、満足したような、それでいて少しだけ柔らかな表情を見せた。からかうための笑みではないことだけは、今のアレンにも分かった。
「そう」
「それだけ?」
「十分よ」
彼女は一歩近づき、アレンの頬へ軽く触れた。昨夜ほど長くはなく、確かめるような短い口づけだけを残す。
「またね、アレン」
麗華はそれ以上何も言わず、朝の通りへ歩き出した。黒髪が人の流れに紛れて見えなくなるまで、アレンはその場に立っていた。恋人ではない。約束もない。麗華が何者なのかさえ、ほとんど分からない。それでも、また会いたいと思ったことだけは否定できなかった。
水鐘亭へ戻る道を歩きながら、アレンは昨夜よりも少しだけ複雑になった気持ちを持て余していた。世界を見たいと思って旅に出たはずなのに、知らない土地で出会うものは景色や種族や街だけではないらしい。人と出会えば、その人を知りたくなり、知りたいと思うほど分からないことも増えていく。
朝の光の下では夜の灯りはすべて消えていた。それでも麗華という存在だけは、昨夜よりはっきりとアレンの中に残っていた。
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