第三章 第八話 閉じた扉
麗華の部屋は、赤通りのいちばん賑やかな場所から二本ほど外れた路地にあった。坂を下りる途中までは酒場や音楽の店から漏れる声が聞こえていたが、角をいくつか曲がると急に静かになり、石畳を踏む二人の足音の方が大きくなる。道の両側には宿や貸し部屋らしい建物が並び、窓辺には小さな灯りが残っていた。
アレンは歩きながら、何度か周囲を確かめた。危険を疑っているというより、ここまで来てようやく何を選んだのか実感し始めたのだ。
「まだ戻れるわよ」
前を歩いていた麗華が、振り返らずに言った。
「急にどうしたの?」
「さっきは私が誘ったから。途中で気が変わったなら、今のうちに言って」
からかう声ではなかった。展望所で誘ったときと同じ、妙に真っ直ぐな調子だった。
「戻りたくなったら言う」
「そう」
「麗華の方は?」
「何が?」
「やっぱりやめたいって思ったら」
そこで初めて、彼女は足を止めた。夜の灯りが黒い髪の縁だけを淡く照らしている。
「そのときは、ちゃんと言うわ」
「ならいい」
麗華は少しだけ目を細めた。
「本当に変なところで真面目ね」
「それ、褒めてる?」
「今はね」
二人はまた歩き出した。麗華が立ち止まったのは、三階建ての細長い建物の前だった。赤通りの店ほど派手な飾りはなく、入口には小さな月形の金具がついた灯りが一つ下がっているだけだった。中へ入ると受付には誰もおらず、壁際の棚に部屋番号ごとの鍵が並んでいる。
「宿?」
「長く借りられる部屋。旅人も使うけれど、数週間とか数か月いる人の方が多いわね」
「麗華も長くいるの?」
「質問が増えたわね」
「ここまで来たら、少しくらい答えてほしい」
「部屋に入ったら考えてあげる」
またはぐらかされた気がしたが、アレンは追及しなかった。麗華は二階へ上がり、廊下のいちばん奥にある部屋の鍵を開ける。
「どうぞ」
扉の向こうは、思っていたより普通の部屋だった。大きすぎない寝台と丸い卓、二脚の椅子、衣装棚。窓際には水差しと小さな鉢植えが置かれ、壁には旅用の外套が一枚掛かっている。赤通りの華やかさをそのまま持ち込んだような装飾はなく、むしろ水鐘亭の部屋より落ち着いていた。
「何、その顔」
「もっと派手な部屋かと思ってた」
「私を何だと思ってるの?」
「分からないから困ってる」
麗華は一瞬黙り、それから声を立てずに笑った。
「それは正しい答えかも」
彼女は上着を脱いで椅子の背へ掛けた。深い赤の布が黒い服の上から消えると、印象が少し柔らかくなる。アレンは扉の近くに立ったまま、腰の剣へ手をやった。
「剣、そこに置いていいわよ」
「見えるところなら」
「信用されてない」
「全部は、って言っただろ」
「覚えてるわ」
寝台の横に低い台があったため、アレンは剣を鞘ごと置いた。手を伸ばせば届く距離だ。麗華はそれを見ても何も言わず、水差しから二つの杯へ水を注いだ。
「飲む?」
「水?」
「水よ」
「自分で注ぐ」
「徹底してるのね」
「この村で何回注意されたと思う?」
麗華は素直に水差しを渡した。アレンが手元の杯へ注ぐのを見て、満足したように頷く。
「それでいいわ。私が同じ立場でもそうするもの」
「誘った本人が言う?」
「誘ったからこそよ」
アレンは杯を持って椅子へ座った。麗華も向かい側へ腰を下ろす。二人きりになった途端、外で話していたときより沈黙が長く感じられた。
「……何で僕だったの?」
結局、先に聞いたのはアレンだった。
「何が?」
「街道で会ったときから、ずっと気にしてたみたいだったから」
「自意識過剰ね」
「じゃあ違う?」
「少しは当たってる」
麗華は杯の縁へ指を滑らせながら、しばらく答えを選ぶように黙った。
「最初は、面白そうだっただけ」
「僕が?」
「一人で旅を始めたばかりなのに、怖がっているわりには世界を見たがってた。知らない人を全部疑うわけでもなく、でも簡単には信用しない。だから少し話してみたくなったの」
「それだけ?」
「最初はね」
「今は?」
麗華の目が、まっすぐアレンへ向いた。
「今は、もう少し知りたい」
今度は冗談に聞こえなかった。
アレンは杯を卓へ置いた。麗華が何者なのか分からないという事実は変わらない。それでも、分からないからこそ気になっている点では、アレンも同じだった。
「僕も、麗華のことは全然分からない」
「知りたい?」
「知りたい。でも、聞いても答えないだろ」
「全部はね」
「じゃあ、一つだけ」
「何?」
「麗華って、本当に旅人なの?」
彼女はわずかに首を傾げた。
「旅をしているなら、旅人でいいんじゃない?」
「またそういう答え」
「嘘は言ってないわ」
「本当のこと全部言ってないだけでしょ」
「賢くなったわね」
「麗華と話してれば嫌でもなる」
そう返すと、彼女は今度こそ声を立てて笑った。
笑いが収まるまで待ってから、アレンは少しだけ真面目な声で続ける。
「帰る場所の話をしたときだけ、麗華はいつもと違った」
彼女の指が一瞬止まった。
「よく見てるのね」
「見えるところにいたから」
「それも答え方が上手くなった」
「言いたくないなら聞かない」
「……ありがとう」
小さな声だった。
麗華がそんなふうに礼を言うのは初めてで、アレンの方が戸惑った。からかわれるより、その一言の方が距離を縮められたように感じる。
しばらく二人とも何も話さなかった。窓の外から遠い音楽が聞こえ、時折、廊下を誰かが歩く音がする。静かな部屋の中では、互いの呼吸まで分かりそうだった。
「アレン」
「何?」
「まだ帰りたい?」
「今は思ってない」
「怖くない?」
「少しは」
「私が?」
「麗華も、この状況も」
正直に答えると、彼女は少し笑った。
「それでいいわ」
麗華は立ち上がり、卓の横を回ってアレンの前へ来た。さっき展望所で近づかれたときより、今度はさらに距離が近い。それでも触れてはこない。
「嫌なら、ここで終わりにできる」
「何回確認するの?」
「大事だから」
「麗華がそんなこと言うの、ちょっと意外」
「私を何だと思ってるのよ」
「だから分からないって」
また同じ答えになり、麗華は小さく笑った。
「じゃあ、分からないままでもいい?」
「全部分かるまで待ってたら、いつになるか分からないだろ」
「それはそうね」
彼女の指先が、初めてアレンの手へ触れた。握るのではなく、確かめるように軽く触れただけだった。
「嫌?」
「嫌じゃない」
答えると、今度は指がゆっくり重なる。
アレンも手を引かなかった。
麗華はもう片方の手を伸ばし、アレンの頬に触れた。指先は思っていたより温かい。近づく気配に、アレンは一度だけ呼吸を止めた。
「今なら、まだ笑って誤魔化してあげてもいいわよ」
「麗華がそれ言うと、本当に誤魔化しそうだから嫌だ」
「じゃあ、誤魔化さない」
唇が重なった。
触れたのは短い時間だった。けれど離れたあとも距離はほとんど変わらず、麗華の黒い瞳がすぐ近くにある。
「……本当に真面目」
「今それ言う?」
「言いたくなったから」
アレンが何か返す前に、今度は彼の方から少しだけ距離を縮めた。麗華の表情が一瞬だけ驚き、そのあと柔らかく変わる。
次の口づけは、最初より長かった。
外から聞こえていた音楽が、一曲終わったらしい。遠くで拍手が起こり、しばらくして別の旋律が始まる。
麗華はゆっくり離れると、アレンの手を握ったまま寝台の方へ視線を向けた。
「最後にもう一度だけ聞くわ」
「うん」
「本当に、ここにいる?」
アレンは彼女の目を見た。
街道で出会ったときから、分からないことばかりの女性だった。今もそれは変わらない。何者なのかも、なぜアレンに興味を持ったのかも、きっと聞けばまた半分しか答えない。
それでも、今この瞬間にどうしたいのかだけは、互いに言葉にして選べる。
「いる」
麗華は静かに頷いた。
彼女が部屋の灯りを一つ消す。残った小さな明かりの中で、二人はもう一度唇を重ねた。
その先に何が続くのかは、もう互いに分かっていた。
夜の音楽は遠くで続いていたが、やがて麗華が最後の灯りへ手を伸ばすと、部屋の中は静かな闇に包まれた。
閉じた扉の向こうで、それ以上の夜を知る者はいなかった。
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