第三章 第七話 夜の誘い
翌朝、アレンが目を覚ましたとき、窓の外にはまだ夜の名残が残っていた。水鐘亭の前を通る人影は少なく、昨夜遅くまで続いていた音楽も今は聞こえない。薄い朝日が青通りの屋根へ差し込み、色付きの灯りだけが消えたまま風に揺れている。
寝台から身体を起こし、昨夜のことを思い返す。麗華。ようやく知った名前は短く、それだけなら何も特別ではないはずなのに、頭の中では妙に残っていた。正体の分からない黒髪の女ではなく、呼べる名前を持つ相手になったからかもしれない。
もっとも、分かったことは名前だけだった。名字も、どこから来たのかも、この村で何をしているのかも相変わらず曖昧なままだ。問いかければ半分は笑ってかわされ、残り半分も本当なのか分からない。
「……名前一つで安心するのも変だな」
アレンはそう呟き、いつものように剣と荷物を確かめた。旅を始めてから覚えた朝の習慣は、知らない土地でもほとんど変わらない。
階下で朝食を済ませ、外へ出る。昨日カイから王都への道は聞いた。急ぐ理由はないが、この村に長く留まる理由もまだ決めていない。何日か見て回ってから東へ向かう。それくらいの予定で十分だった。
市場の入口まで行くと、ちょうど荷物を肩へ担いだカイと顔を合わせた。今日は大きな荷車ではなく、布で包まれた細長い荷物を三つ背負っている。
「まだいたんだな」
「昨日も会っただろ」
「今日には出るかと思ってた」
「もう少し見ることにした」
カイは一度だけアレンの顔を見て、それ以上理由を聞かなかった。
「王都の道、忘れてない?」
「大丈夫。東門から二日くらい。雨なら南の橋を避けて北回り」
「ならいい」
「確認だけ?」
「昨日、説明した意味があったか確かめただけ」
「先生みたいだね」
「やめろ」
耳がわずかに後ろへ倒れたので、本当に嫌らしい。アレンが笑うと、カイは不満そうな顔のまま市場の奥へ視線を向けた。
「今夜も赤通りを見るなら、奥の裏道は使うなよ」
「何で急に?」
「昨日、十五番の話をしただろ。夜になると倉庫側の道は荷受けと店の裏口が重なる。客が入る場所じゃない」
「分かった」
「あと、知らない相手についていくな」
「それ、この村に来てから何回聞いたと思う?」
「何回言われても守れない奴がいるから言ってる」
カイはそこで会話を切り、配達へ向かった。アレンも手を上げて別れる。最後の忠告だけが妙に引っかかったが、カイが麗華のことを知っているはずはない。ただ、この村では誰にでも同じことを言うのだろう。
午前中は緑通りの修理屋で剣帯の留め具を見てもらい、旅用の水筒に新しい革紐を付けてもらった。昼には市場でパンと煮込みを食べ、その後は村の東側まで歩いた。王都へ続く道は広く、荷車の往来も多い。門というほど大きなものはなく、石柱と検問所だけが道の両脇に立っていた。
ここから出れば、次はいよいよ王都に近づく。
そう考えると、旅が少しだけ現実味を増した。ラークホロウを出た朝は世界全体が遠すぎて、どこまで歩いても終わらないように思えた。それが今は、地図の上でしか知らなかった王都まで二日ほどの場所にいる。
それでも足は東へ向かわなかった。
まだ見ていないものがあるからだと考えた。村の昼と夜、表通りと倉庫街、働く者たちの生活。確かにまだ知らない場所はいくらでもある。
けれど、その理由だけではないことも分かっていた。
麗華が「明日も会えたら」と言ったことを覚えている。
約束ではない。待ち合わせの場所も時間も決めていない。それなのに、夕方が近づくにつれ、黒い髪を探していることに何度か気づいた。
「……完全に遊ばれてるな」
自覚すると余計に腹立たしい。それでも宿へ戻る足は、昨日より少し遅かった。
日が沈み始める頃、村は再び色を取り戻した。黄色い市場通りでは夜の屋台が開き、紫の通りからは早くも歓声が聞こえてくる。アレンは夕食をまだ取らず、中央広場の端を歩いていた。
「誰を探してるの?」
背後から聞こえた声に、足が止まった。
振り返ると、麗華が立っていた。
昨夜と同じ黒を基調にした服ではあるが、今日は上着の形が少し違い、深い赤の布が腰のあたりから柔らかく揺れている。長い黒髪は背中へ流れ、赤や金の灯りが近くにあるのに、その色へ染まることなく深い黒を保っていた。
「探してない」
「そう?」
「たまたま歩いてただけ」
「じゃあ、私を見つけて少し残念?」
「何でそうなるの」
「嬉しそうに見えたから」
「見えてない」
「残念」
麗華は口元を緩め、そのままアレンの隣へ並んだ。
「夕食は?」
「まだ」
「ちょうどいいわね」
「また一緒に食べるの?」
「嫌?」
「嫌とは言ってない」
「なら決まり」
決めるのが早い。だが昨日と同じ食堂へ行くのかと思えば、麗華は中央通りではなく、紫通りの外側へ続く坂道へ向かった。
「どこ行くの?」
「食事」
「店、そっちにあった?」
「あるわよ。観光客があまり来ないだけ」
「そういう場所に旅人を連れていくのって、入口の注意書きに反してない?」
「心配なら戻る?」
麗華は立ち止まらずに聞いた。
アレンは周囲を確認した。道は狭いが暗くはなく、店も家も並んでいる。仕事帰りらしい住民も歩いており、人通りが消えたわけでもない。危険な裏道という雰囲気ではなかった。
「……まだ大丈夫」
「慎重なのね」
「麗華が怪しいから」
「酷い言い方」
「否定してよ」
「嫌」
やはり笑っている。
二人が入ったのは、小さな石造りの食堂だった。外には目立つ看板もなく、扉の上に白い鳥の木彫りが一つ掛かっているだけだ。中には六卓ほどしかなく、客の多くは仕事を終えた住民らしかった。
麗華が店主へ軽く手を上げると、年配のラミアの女性が「あら、また来たの」と笑った。
「知り合い?」
「何度か食べただけ」
「何度かであの反応?」
「私、覚えられやすいの」
それは否定できなかった。
席につくと、麗華は勝手に料理を決めることはせず、壁に掛かった札を指した。アレンは焼いた鳥肉と根菜の料理を選び、麗華は香辛料を使った魚の煮込みを頼む。
「今日は何を見たの?」
「東門」
「もう出ていくつもり?」
「まだ決めてない」
「そう」
麗華は水の入った杯へ指を添えながら、少しだけ視線を落とした。
「引き止めてほしい?」
「逆じゃない?」
「どうして?」
「この村を勧めたのは麗華だし」
「勧めたから、ずっといなさいなんて言ってないわ」
「じゃあ王都へ行ってもいい?」
「許可が必要なの?」
「いらないけど」
「なら好きにすればいいわ」
言葉だけなら素っ気ない。それでも麗華はすぐに話題を変えず、アレンの顔を見ていた。
「ただ、今夜くらいはまだいてもいいんじゃない?」
「今夜?」
「ええ」
料理が運ばれてきたため、そこで会話は一度途切れた。麗華は何事もなかったように食べ始める。アレンも皿へ手を伸ばしたが、先ほどの言い方が少し気になった。
「何かあるの?」
「夜に?」
「そう」
「この村では毎晩、何かしらあるでしょう?」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
麗華は魚を一口食べてから、楽しそうに目を細めた。
「食べ終わったら、少し付き合って」
「どこに?」
「まだ内緒」
「また?」
「今度はそんなに遠くないわ」
「それ、安心材料になってない」
「でも来るでしょう?」
「決めつけないで」
「じゃあ、来ない?」
すぐに答えられない。
麗華はその沈黙だけで十分だったらしく、満足そうに食事へ戻った。
食後、二人は店を出た。麗華が向かったのは赤通りではなく、村の北側へ続く緩やかな坂だった。途中には共同浴場の煙突や住民向けの小さな店が並び、夜でも騒がしさは少ない。
坂を上りきると、低い石壁に囲まれた小さな展望所へ出た。谷の中心に広がる村の灯りが一望でき、遠くには黒い丘の輪郭、その上には星空が広がっている。
「こんな場所あったんだ」
「夜の村を見るなら、下からよりこっちの方が綺麗よ」
麗華は石壁へ背を預けた。下から届く音楽はここまで来ると遠く、風の音の方が強い。
「麗華は、この村に長いの?」
「どうして?」
「詳しすぎるから」
「何度も来てるだけ」
「何のために?」
「遊び」
「半分だけ?」
昨日の返事を覚えていたことに、麗華が小さく笑った。
「覚えてるのね」
「気になる言い方するから」
「残り半分を知ったら、何か変わる?」
「内容による」
「正直」
「麗華に言われたくない」
風が黒髪を揺らし、何本かが頬へかかった。麗華はそれを耳へ掛けながら、村の灯りを見下ろした。
「アレンは、家に帰りたいと思わない?」
突然の問いだった。
「今はまだ」
「お母さんに会いたくない?」
「会いたいよ。でも、それと帰るのは別」
「そう」
「旅に出るって決めたのは僕だから。世界を見て、それから帰りたい」
「帰れる場所があるのは、いいことね」
声が少しだけ静かだった。
「麗華にはないの?」
尋ねた瞬間、彼女の横顔から笑みが薄くなった。
ほんの一瞬だった。
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
「また秘密?」
「これは、少し違うわね」
それ以上聞くべきではない気がして、アレンは黙った。麗華もすぐにいつもの笑みへ戻ったが、今の反応だけは演技ではなかったように思えた。
「優しいのね」
「何が?」
「聞かないでいてくれるところ」
「話したくなさそうだったから」
「そういうところ」
麗華は石壁から身体を離し、一歩近づいた。
距離が縮まったことに気づき、アレンは少しだけ身体を固くした。逃げるほどではない。けれど、昨夜までの会話より明らかに近い。
「警戒してる?」
「少し」
「まだ私を信用してない?」
「全部は」
「正しい答えね」
「怒らないんだ」
「どうして怒るの? 数日前に会ったばかりの女を、何も知らないのに全部信用する方が心配だわ」
麗華はそう言い、さらに近づくことはしなかった。
「それでも、一緒にここまで来た」
「人がいる道だったから」
「本当にそれだけ?」
「……麗華が何をしたいのか気になったから」
「それも正直」
今度はからかう笑いではなかった。どこか満足したような、静かな笑みだった。
少しのあいだ、二人は村を見下ろした。下では夜が深くなるほど灯りが増え、赤通りの色が谷の中心に長く伸びている。
「ねえ、アレン」
「何?」
「このあと、どうする?」
「宿に戻ると思う」
「思う?」
「麗華がまた何か言いそうだから」
「よく分かってきたわね」
彼女はゆっくりと振り返り、アレンの正面に立った。
「今夜、私の部屋に来る?」
冗談のように軽く言ったわけではなかった。
アレンはすぐに返事をできなかった。
麗華は急かさない。ただ静かに待っている。いつものように笑って反応を楽しむ様子もなく、その目だけがまっすぐ向けられていた。
「……それ、どういう意味?」
「分からない?」
「分かるけど、確認してる」
「そう」
麗華は僅かに笑った。
「嫌なら断って。断ったからって、何も変わらないわ」
「麗華は?」
「来てほしいから聞いてるの」
答えは明確だった。
赤い灯りの村で何度も注意されたことが頭をよぎる。知らない相手についていかない。知らない飲み物を受け取らない。勢いだけで決めない。
そして同時に、麗華は今、誤魔化さずに選ばせている。
アレンはしばらく黙ったあと、村の灯りから彼女へ視線を戻した。
「……場所は?」
麗華の目がゆっくり細められた。
「近いわ」
「それ、前にも聞いた」
「今度は本当」
アレンは小さく息を吐いた。
「じゃあ、行く」
「ええ」
麗華はそれ以上からかわなかった。
二人は展望所を離れ、夜の村へ続く坂をゆっくり下り始めた。
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