↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第三章 『欲望の村と銀の狐』
62/139

第三章 第七話 夜の誘い

翌朝、アレンが目を覚ましたとき、窓の外にはまだ夜の名残が残っていた。水鐘亭の前を通る人影は少なく、昨夜遅くまで続いていた音楽も今は聞こえない。薄い朝日が青通りの屋根へ差し込み、色付きの灯りだけが消えたまま風に揺れている。


 寝台から身体を起こし、昨夜のことを思い返す。麗華。ようやく知った名前は短く、それだけなら何も特別ではないはずなのに、頭の中では妙に残っていた。正体の分からない黒髪の女ではなく、呼べる名前を持つ相手になったからかもしれない。


 もっとも、分かったことは名前だけだった。名字も、どこから来たのかも、この村で何をしているのかも相変わらず曖昧なままだ。問いかければ半分は笑ってかわされ、残り半分も本当なのか分からない。


「……名前一つで安心するのも変だな」


 アレンはそう呟き、いつものように剣と荷物を確かめた。旅を始めてから覚えた朝の習慣は、知らない土地でもほとんど変わらない。


 階下で朝食を済ませ、外へ出る。昨日カイから王都への道は聞いた。急ぐ理由はないが、この村に長く留まる理由もまだ決めていない。何日か見て回ってから東へ向かう。それくらいの予定で十分だった。


 市場の入口まで行くと、ちょうど荷物を肩へ担いだカイと顔を合わせた。今日は大きな荷車ではなく、布で包まれた細長い荷物を三つ背負っている。


「まだいたんだな」


「昨日も会っただろ」


「今日には出るかと思ってた」


「もう少し見ることにした」


 カイは一度だけアレンの顔を見て、それ以上理由を聞かなかった。


「王都の道、忘れてない?」


「大丈夫。東門から二日くらい。雨なら南の橋を避けて北回り」


「ならいい」


「確認だけ?」


「昨日、説明した意味があったか確かめただけ」


「先生みたいだね」


「やめろ」


 耳がわずかに後ろへ倒れたので、本当に嫌らしい。アレンが笑うと、カイは不満そうな顔のまま市場の奥へ視線を向けた。


「今夜も赤通りを見るなら、奥の裏道は使うなよ」


「何で急に?」


「昨日、十五番の話をしただろ。夜になると倉庫側の道は荷受けと店の裏口が重なる。客が入る場所じゃない」


「分かった」


「あと、知らない相手についていくな」


「それ、この村に来てから何回聞いたと思う?」


「何回言われても守れない奴がいるから言ってる」


 カイはそこで会話を切り、配達へ向かった。アレンも手を上げて別れる。最後の忠告だけが妙に引っかかったが、カイが麗華のことを知っているはずはない。ただ、この村では誰にでも同じことを言うのだろう。


 午前中は緑通りの修理屋で剣帯の留め具を見てもらい、旅用の水筒に新しい革紐を付けてもらった。昼には市場でパンと煮込みを食べ、その後は村の東側まで歩いた。王都へ続く道は広く、荷車の往来も多い。門というほど大きなものはなく、石柱と検問所だけが道の両脇に立っていた。


 ここから出れば、次はいよいよ王都に近づく。


 そう考えると、旅が少しだけ現実味を増した。ラークホロウを出た朝は世界全体が遠すぎて、どこまで歩いても終わらないように思えた。それが今は、地図の上でしか知らなかった王都まで二日ほどの場所にいる。


 それでも足は東へ向かわなかった。


 まだ見ていないものがあるからだと考えた。村の昼と夜、表通りと倉庫街、働く者たちの生活。確かにまだ知らない場所はいくらでもある。


 けれど、その理由だけではないことも分かっていた。


 麗華が「明日も会えたら」と言ったことを覚えている。


 約束ではない。待ち合わせの場所も時間も決めていない。それなのに、夕方が近づくにつれ、黒い髪を探していることに何度か気づいた。


「……完全に遊ばれてるな」


 自覚すると余計に腹立たしい。それでも宿へ戻る足は、昨日より少し遅かった。


 日が沈み始める頃、村は再び色を取り戻した。黄色い市場通りでは夜の屋台が開き、紫の通りからは早くも歓声が聞こえてくる。アレンは夕食をまだ取らず、中央広場の端を歩いていた。


「誰を探してるの?」


 背後から聞こえた声に、足が止まった。


 振り返ると、麗華が立っていた。


 昨夜と同じ黒を基調にした服ではあるが、今日は上着の形が少し違い、深い赤の布が腰のあたりから柔らかく揺れている。長い黒髪は背中へ流れ、赤や金の灯りが近くにあるのに、その色へ染まることなく深い黒を保っていた。


「探してない」


「そう?」


「たまたま歩いてただけ」


「じゃあ、私を見つけて少し残念?」


「何でそうなるの」


「嬉しそうに見えたから」


「見えてない」


「残念」


 麗華は口元を緩め、そのままアレンの隣へ並んだ。


「夕食は?」


「まだ」


「ちょうどいいわね」


「また一緒に食べるの?」


「嫌?」


「嫌とは言ってない」


「なら決まり」


 決めるのが早い。だが昨日と同じ食堂へ行くのかと思えば、麗華は中央通りではなく、紫通りの外側へ続く坂道へ向かった。


「どこ行くの?」


「食事」


「店、そっちにあった?」


「あるわよ。観光客があまり来ないだけ」


「そういう場所に旅人を連れていくのって、入口の注意書きに反してない?」


「心配なら戻る?」


 麗華は立ち止まらずに聞いた。


 アレンは周囲を確認した。道は狭いが暗くはなく、店も家も並んでいる。仕事帰りらしい住民も歩いており、人通りが消えたわけでもない。危険な裏道という雰囲気ではなかった。


「……まだ大丈夫」


「慎重なのね」


「麗華が怪しいから」


「酷い言い方」


「否定してよ」


「嫌」


 やはり笑っている。


 二人が入ったのは、小さな石造りの食堂だった。外には目立つ看板もなく、扉の上に白い鳥の木彫りが一つ掛かっているだけだ。中には六卓ほどしかなく、客の多くは仕事を終えた住民らしかった。


 麗華が店主へ軽く手を上げると、年配のラミアの女性が「あら、また来たの」と笑った。


「知り合い?」


「何度か食べただけ」


「何度かであの反応?」


「私、覚えられやすいの」


 それは否定できなかった。


 席につくと、麗華は勝手に料理を決めることはせず、壁に掛かった札を指した。アレンは焼いた鳥肉と根菜の料理を選び、麗華は香辛料を使った魚の煮込みを頼む。


「今日は何を見たの?」


「東門」


「もう出ていくつもり?」


「まだ決めてない」


「そう」


 麗華は水の入った杯へ指を添えながら、少しだけ視線を落とした。


「引き止めてほしい?」


「逆じゃない?」


「どうして?」


「この村を勧めたのは麗華だし」


「勧めたから、ずっといなさいなんて言ってないわ」


「じゃあ王都へ行ってもいい?」


「許可が必要なの?」


「いらないけど」


「なら好きにすればいいわ」


 言葉だけなら素っ気ない。それでも麗華はすぐに話題を変えず、アレンの顔を見ていた。


「ただ、今夜くらいはまだいてもいいんじゃない?」


「今夜?」


「ええ」


 料理が運ばれてきたため、そこで会話は一度途切れた。麗華は何事もなかったように食べ始める。アレンも皿へ手を伸ばしたが、先ほどの言い方が少し気になった。


「何かあるの?」


「夜に?」


「そう」


「この村では毎晩、何かしらあるでしょう?」


「そういう意味じゃなくて」


「分かってる」


 麗華は魚を一口食べてから、楽しそうに目を細めた。


「食べ終わったら、少し付き合って」


「どこに?」


「まだ内緒」


「また?」


「今度はそんなに遠くないわ」


「それ、安心材料になってない」


「でも来るでしょう?」


「決めつけないで」


「じゃあ、来ない?」


 すぐに答えられない。


 麗華はその沈黙だけで十分だったらしく、満足そうに食事へ戻った。


 食後、二人は店を出た。麗華が向かったのは赤通りではなく、村の北側へ続く緩やかな坂だった。途中には共同浴場の煙突や住民向けの小さな店が並び、夜でも騒がしさは少ない。


 坂を上りきると、低い石壁に囲まれた小さな展望所へ出た。谷の中心に広がる村の灯りが一望でき、遠くには黒い丘の輪郭、その上には星空が広がっている。


「こんな場所あったんだ」


「夜の村を見るなら、下からよりこっちの方が綺麗よ」


 麗華は石壁へ背を預けた。下から届く音楽はここまで来ると遠く、風の音の方が強い。


「麗華は、この村に長いの?」


「どうして?」


「詳しすぎるから」


「何度も来てるだけ」


「何のために?」


「遊び」


「半分だけ?」


 昨日の返事を覚えていたことに、麗華が小さく笑った。


「覚えてるのね」


「気になる言い方するから」


「残り半分を知ったら、何か変わる?」


「内容による」


「正直」


「麗華に言われたくない」


 風が黒髪を揺らし、何本かが頬へかかった。麗華はそれを耳へ掛けながら、村の灯りを見下ろした。


「アレンは、家に帰りたいと思わない?」


 突然の問いだった。


「今はまだ」


「お母さんに会いたくない?」


「会いたいよ。でも、それと帰るのは別」


「そう」


「旅に出るって決めたのは僕だから。世界を見て、それから帰りたい」


「帰れる場所があるのは、いいことね」


 声が少しだけ静かだった。


「麗華にはないの?」


 尋ねた瞬間、彼女の横顔から笑みが薄くなった。


 ほんの一瞬だった。


「あるかもしれないし、ないかもしれない」


「また秘密?」


「これは、少し違うわね」


 それ以上聞くべきではない気がして、アレンは黙った。麗華もすぐにいつもの笑みへ戻ったが、今の反応だけは演技ではなかったように思えた。


「優しいのね」


「何が?」


「聞かないでいてくれるところ」


「話したくなさそうだったから」


「そういうところ」


 麗華は石壁から身体を離し、一歩近づいた。


 距離が縮まったことに気づき、アレンは少しだけ身体を固くした。逃げるほどではない。けれど、昨夜までの会話より明らかに近い。


「警戒してる?」


「少し」


「まだ私を信用してない?」


「全部は」


「正しい答えね」


「怒らないんだ」


「どうして怒るの? 数日前に会ったばかりの女を、何も知らないのに全部信用する方が心配だわ」


 麗華はそう言い、さらに近づくことはしなかった。


「それでも、一緒にここまで来た」


「人がいる道だったから」


「本当にそれだけ?」


「……麗華が何をしたいのか気になったから」


「それも正直」


 今度はからかう笑いではなかった。どこか満足したような、静かな笑みだった。


 少しのあいだ、二人は村を見下ろした。下では夜が深くなるほど灯りが増え、赤通りの色が谷の中心に長く伸びている。


「ねえ、アレン」


「何?」


「このあと、どうする?」


「宿に戻ると思う」


「思う?」


「麗華がまた何か言いそうだから」


「よく分かってきたわね」


 彼女はゆっくりと振り返り、アレンの正面に立った。


「今夜、私の部屋に来る?」


 冗談のように軽く言ったわけではなかった。


 アレンはすぐに返事をできなかった。


 麗華は急かさない。ただ静かに待っている。いつものように笑って反応を楽しむ様子もなく、その目だけがまっすぐ向けられていた。


「……それ、どういう意味?」


「分からない?」


「分かるけど、確認してる」


「そう」


 麗華は僅かに笑った。


「嫌なら断って。断ったからって、何も変わらないわ」


「麗華は?」


「来てほしいから聞いてるの」


 答えは明確だった。


 赤い灯りの村で何度も注意されたことが頭をよぎる。知らない相手についていかない。知らない飲み物を受け取らない。勢いだけで決めない。


 そして同時に、麗華は今、誤魔化さずに選ばせている。


 アレンはしばらく黙ったあと、村の灯りから彼女へ視線を戻した。


「……場所は?」


 麗華の目がゆっくり細められた。


「近いわ」


「それ、前にも聞いた」


「今度は本当」


 アレンは小さく息を吐いた。


「じゃあ、行く」


「ええ」


 麗華はそれ以上からかわなかった。


 二人は展望所を離れ、夜の村へ続く坂をゆっくり下り始めた。

ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。

もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。

皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。

いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。