第三章 第六話 黒髪の女、再び
水鐘亭へ戻る頃には、午後の陽が西へ傾き始めていた。昼のあいだ静かだった赤通りにも少しずつ人が戻り、閉じていた窓や扉が開き始めている。アレンは宿の前で一度だけ振り返ったが、朝に見た倉庫街の灰色の壁と、これから灯り始める華やかな通りが同じ村の中にあることが、まだ少し不思議だった。
部屋へ戻ると、剣を外して椅子へ腰を下ろした。十五番倉庫で見たハーピーの女性、相談所の職員が話していた記録、カイの「まず知るしかない」という言葉が頭に残っている。助けたいと思ったからといって、事情も知らずに動けばいいわけではない。そのことは分かっているつもりだった。
それでも、何も見なかったことにするのも違う気がした。
「……考えても、まだ材料が少ないか」
結論を急がないことにして、アレンは窓を開けた。外から食事の匂いが入り込み、腹が減っていたことを思い出す。昼食は簡単に済ませただけだった。
少し休んでから宿を出ると、中央通りでは夜の準備が始まっていた。市場の屋台へ新しい料理が並び、色付きの灯りが一つずつ点されていく。村へ着いた日の夜より人の流れを読めるようになったぶん、歩くことにも余裕があった。
夕食をどこで取るか考えながら黄色い通りへ入ったところで、前方に人だかりができているのが見えた。騒ぎではなく、果物を使った菓子を売る屋台に客が集まっているらしい。アレンは脇を通り抜けようとして、その向こうに立つ女性を見た。
長い黒髪だった。火の光ではなく、夕暮れの残光を受けても艶やかな黒は変わらない。黒を基調とした旅装に深い赤の差し色を入れ、片手には小さな紙包みを持っている。
彼女の方が先にアレンへ気づいた。
「来たのね」
驚いた様子はなかった。
「……やっぱりいるんじゃん」
「いると言った覚えはないけれど?」
「いないとも言ってなかった」
「それなら、あなたの勝ちかしら」
女は楽しそうに微笑み、紙包みから小さな焼き菓子を一つ取り出した。その自然な態度に、アレンは一瞬だけ言葉を失う。この村へ来てからも、会えるかどうか分からない相手だったはずなのに、彼女はまるで別れたばかりの知人に再会したように振る舞っている。
「いつからここにいたの?」
「いつからだと思う?」
「質問に質問で返すのやめない?」
「久しぶりに会ったのに、最初から厳しいのね」
「まだ数日しか経ってない」
「あら、そうだった?」
絶対に分かっていて言っている。アレンが呆れて息を吐くと、女は焼き菓子を一つ差し出した。
「食べる?」
「知らない人から食べ物をもらうなって、この村で何回も言われた」
「私はもう知らない人じゃないでしょう?」
「名前も知らない」
「そこ?」
「かなり大事だと思う」
女は少し考えるように首を傾げた。それから、ようやく折れたように口元を緩める。
「麗華」
「え?」
「名前。麗華よ」
あまりにあっさり告げられ、今度はアレンの方が反応に遅れた。
「……本当?」
「名前を教えても疑うの?」
「今までずっと隠してたから」
「秘密にしていた方が面白かったもの」
「やっぱり遊んでたんじゃん」
「少しだけね」
麗華。ようやく呼べる名前を得たはずなのに、それだけで彼女のことが分かった気にはまったくならなかった。どこから来たのかも、何をしているのかも、なぜこの村を勧めたのかも不明なままだ。
「名字は?」
「欲張りね」
「名前聞いたら普通そこまで聞くでしょ」
「今日は麗華だけで十分」
「また秘密?」
「そういうことにしておいて」
予想通りの答えだった。アレンはもう追及せず、屋台の横へ少し移動した。人の流れを塞いでいたことに気づいたからだ。麗華も並ぶように歩き、当然のように隣へついてくる。
「で、どうだった?」
「何が?」
「村よ。私が教えた場所」
「思ってたのと違った」
「悪い意味で?」
「まだ決めてない」
その返しに、麗華が僅かに目を細めた。
「ちゃんと見たのね」
「夜の店だけじゃなかった。普通に暮らしてる人もいるし、働いてる人もいる。今日、倉庫街も見た」
「倉庫街?」
「配達してる知り合いについて行っただけ」
「もう知り合いができたの?」
「知り合いっていうか……猫人の運び屋」
「男?」
「そうだけど」
「そう」
「何、その確認」
「別に?」
街道で恋人がいるか聞かれたときと同じ顔だった。アレンが警戒するように横を見ると、麗華は何もなかったように焼き菓子を食べている。
「女だったら何か違った?」
「どうかしら」
「またそれ」
「あなたの反応が面白いから、つい」
アレンは返事をやめた。麗華と話していると、真面目に答えるほど相手が楽しむだけだと少しずつ分かってきた。
二人は黄色い市場通りを抜け、中央広場の端へ出た。まだ本格的な演奏が始まる前で、楽器を運ぶ者や椅子を並べる者が忙しく動いている。麗華は空いている石造りの縁へ腰を下ろし、アレンにも隣を示した。
「座らない?」
「夕食まだなんだけど」
「なら少しだけ」
「少しってどのくらい?」
「私が飽きるまで」
「長そう」
「失礼ね」
文句を言いながらも、アレンは少し距離を空けて座った。
「倉庫街で何を見たの?」
今度の麗華の声には、からかう調子が少なかった。
「怪我してる人が仕事を断られてた。薬代のために借金してて、働けないと返せないのに、仕事にも入れてもらえない」
「珍しい話ではないわね」
「ここでは?」
「ここだけじゃなく、どこでも」
さらりと言われたが、突き放すような言い方ではなかった。麗華は広場を行き交う人々へ視線を向けたまま続ける。
「人が集まれば、お金も集まる。お金が集まれば、それを欲しがる人も増える。楽しい場所だから、そこだけ綺麗になるわけじゃない」
「だから、この村を教えたの?」
アレンが尋ねると、麗華は横目でこちらを見た。
「どうしてそう思うの?」
「前に会ったときは面白い場所だからって言ってた。でも、普通の観光みたいな理由だけじゃない気がしてきた」
「考えすぎじゃない?」
「麗華が何も言わないから考えるんだよ」
初めて名前を呼ぶと、彼女の表情がほんの僅かに変わった。笑みが消えたわけではない。ただ、何かを確かめるような静かな目になった。
「……その呼び方、悪くないわね」
「そこじゃない」
「分かってる」
麗華はまた笑った。
「本当に、ただ面白いと思っただけよ。あなたがこの場所をどう見るのか」
「僕を試してた?」
「そこまで大げさじゃないわ。知らない場所を見たいと言う人が、綺麗なものしか見たがらないのか、それとも嫌なものを見ても歩けるのか、少し気になっただけ」
「性格悪いね」
「今さら?」
否定しないことに、アレンは思わず笑ってしまった。
「でも、嫌なものを見たからって、全部悪い場所だとも思ってない」
「それでいいんじゃない?」
「簡単に言うね」
「簡単なことよ。人も場所も、一つの顔しか持っていない方が珍しいもの」
麗華の横顔は穏やかだった。前に会ったときのような露骨なからかいもなく、その言葉だけを聞けば年上の旅人が経験から話しているようにも思える。
「麗華は、ここで何してるの?」
「遊んでる」
「本当に?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「秘密」
「聞いた僕が悪かった」
「学んだわね」
広場の中央で弦楽器の音が鳴り始めた。調律らしく短い音が何度も繰り返され、そのたびに近くの子供たちが真似をして笑っている。
「夕食、付き合ってあげようか?」
「何で上からなの」
「一人で食べるより楽しいでしょう?」
「麗華が普通に食事するだけなら」
「普通って何?」
「からかわない」
「無理ね」
「じゃあ一人で食べる」
立ち上がろうとすると、麗華が袖の端を指先でつまんだ。強く引いたわけではない。止めるというより、反応を見ているような仕草だった。
「冗談よ。少しくらい我慢する」
「少しくらい?」
「全部は無理」
「正直だね」
「褒め言葉として受け取るわ」
結局、二人は市場通りの食堂へ入った。通りに面した開放的な店で、木の卓が十数個並んでいる。人間の店主と猫人の若者が忙しく料理を運び、奥の竈では大きな鍋が湯気を上げていた。
アレンは肉と豆の煮込み、麗華は香草を使った魚料理を頼んだ。注文が届くまでの間も、麗華は村で何を見たか細かく聞いてくる。
「紫の通りは?」
「盤上遊戯で負けた」
「賭けた?」
「賭けてない」
「真面目」
「前にも言われた」
「誰に?」
「盤上遊戯の老人じゃなくて……いろんな人に」
「人気者になったのね」
「そういう意味じゃない」
「赤通りは?」
その質問だけ、明らかに楽しみにしていた。
「見ただけ」
「本当に?」
「本当に」
「一晩くらい遊んでもよかったのに」
「麗華がそれ言う?」
「私が勧めた村だもの」
「だから余計に怪しい」
麗華は楽しそうに笑った。食事が運ばれてきても、しばらくその笑みは消えなかった。
料理を食べ始めると、会話は少し静かになった。麗華は見た目に反して食べ方が丁寧で、魚の骨を器用に外しながら市場を歩く人々を眺めている。
「明日はどうするの?」
「まだ決めてない。村をもう少し見てから、王都へ行くか考える」
「急がないのね」
「旅を始めたばかりだし」
「それなら、もう少しいれば?」
「麗華がいるから?」
冗談で返したつもりだった。
麗華は少しだけ目を細め、魚を切っていた手を止める。
「そう言ってくれるなら嬉しいわ」
「……冗談だったんだけど」
「私は本気かもしれない」
どこまで本気なのか分からない。その目が笑っているようにも、そうではないようにも見えて、アレンは返事に困った。
すると麗華はすぐに表情を緩めた。
「その顔、本当に好き」
「やっぱりからかってた」
「半分くらいはね」
「もうそれ信じないから」
「賢くなったわ」
食事を終える頃には、外は完全に夜になっていた。赤や紫の灯りが市場通りの端まで届き、広場からは演奏が始まっている。
店を出ると、麗華は中央通りで足を止めた。
「私はこっち」
指したのは赤通りの方向だった。
「宿じゃないの?」
「さあ?」
「それくらい答えてよ」
「明日も会えたら教えるかも」
「会えたら?」
「会いたい?」
またその流れだと分かっていても、一瞬答えに詰まる。麗華は満足そうに微笑んだ。
「おやすみ、アレン」
初めて、名前を呼ばれた。
「……おやすみ、麗華」
黒髪の女――もうそう呼ぶ必要はない。麗華は片手を軽く上げ、赤い灯りの並ぶ通りへ歩いていった。
アレンはその背中が人混みに消えるまで見送った。彼女がこの村を教えた理由は、結局まだ分からない。それでも昨日より一つだけ増えたものがある。
麗華という名前だった。たったそれだけなのに、正体の分からない旅人だったはずの女性が、少しだけ近い存在になったように感じられた。その感覚が良いものなのかどうかまでは、まだ判断できなかった。
ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!




