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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第三章 『欲望の村と銀の狐』
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第三章 第五話 裏通りの値段

朝の市場は、前日よりさらに人の出入りが多かった。夜の店が眠り始める時間と、昼の商売が動き出す時間が重なっているらしく、赤通りから帰る者と黄色い市場へ荷物を運ぶ者が同じ石畳ですれ違っている。アレンは水鐘亭で朝食を済ませると、約束していた市場の入口へ向かった。


 カイはすでにそこにいた。昨日と同じ深い緑の上着を着ているが、今日は手押し車ではなく、背中へ細長い革袋を背負っている。灰褐色の耳は通りの音を拾うたびに小さく動き、アレンを見つけると片手だけを上げた。


「遅くないな」


「約束した時間より少し早いと思うけど」


「俺も早かった」


「じゃあ同じだね」


「そういうことにしとく」


 相変わらず表情はほとんど変わらない。だが昨日より会話の間が短くなっている気がして、アレンは少しだけ笑った。


「王都の道、教えてくれるんだよね」


「ああ。地図ある?」


 黒髪の女からもらった地図ではなく、旅立ちのときから使っている方を広げる。カイは市場脇の石台へ紙を置き、村の東側から伸びる街道を指先でなぞった。


「王都へ行くだけなら東門から出て、この道を二日くらい。途中に宿場が二つある。ただ、雨が続くと南側の橋が使えなくなる。その時は北回り」


「王都って、ここからそんなに遠くないんだ」


「この村が人を集められる理由の一つ。王都へ行く商人も、王都から離れる旅人も通るから」


 説明は簡潔だが、必要なことは分かりやすい。アレンが道を書き留めていると、カイは東側の細い脇道へも指を置いた。


「こっちは使わない方がいい」


「危ない?」


「昼なら危険ってほどじゃない。倉庫街を抜ける近道だけど、荷車が多いし、知らない奴が入ると面倒に巻き込まれる」


「面倒?」


「仕事の取り合いとか、荷物の責任とか。あの辺は、何か壊れたら誰が払うかで毎日揉めてる」


 昨日まで見てきた華やかな村とは少し違う話だった。アレンが脇道の先へ目を向けると、市場の奥に背の高い倉庫がいくつも並んでいる。表通りほど色付きの布はなく、荷車と木箱ばかりが見えた。


「カイは今日、そっち?」


「配達が一件ある」


「じゃあ、ついて行ってもいい?」


「王都の道を聞くだけじゃなかったのか」


「せっかくだから村のことをもう少し見たい」


「昨日も一日見てたんだろ」


「見れば見るほど、知らないところが増えるんだよ」


 カイは少しだけ黙り、耳を片方動かした。呆れているのか考えているのか分からないが、やがて小さく息を吐く。


「邪魔しないなら勝手にしろ」


 二人は市場の裏手から倉庫街へ入った。数十歩進んだだけで、空気が大きく変わる。音楽は聞こえなくなり、代わりに木箱を積み下ろす音、荷車の軋み、作業員たちの短い掛け声が響いていた。建物も装飾が少なく、壁には番号と商会名だけが大きく書かれている。


 人の種類は表通りと変わらない。人間、猫人、犬人、リザードマン、ゴブリン。だが誰も客へ見せる笑顔を作る必要がなく、汗を拭きながら荷物を運び、帳面を確認し、次の仕事へ急いでいる。


「こっちも同じ村なんだな」


「当たり前だろ」


「分かってる。でも夜の通りとは全然違う」


「夜に使う酒も食い物も、寝具も香油も、勝手に店へ湧いてくるわけじゃない」


 昨夜ミレイから聞いたことと同じだった。灯りの裏には働く者がいる。ここでは、その裏側がそのまま目の前に並んでいた。


 カイが向かったのは、倉庫街の端にある十五番の建物だった。入口には二人の男が立ち、出入りする作業員の木札を一枚ずつ確認している。カイは革袋から小さな包みを取り出し、受付の男へ渡した。


「北側の宿から。受領印」


「待て」


 男は包みを受け取ったまま、帳面をめくった。カイの尾先が一度だけ動く。急いでいるわけではなさそうだが、歓迎されている空気でもない。


 そのとき、倉庫の中から若いハーピーの女性が出てきた。片翼の付け根を布で巻き、もう片方の手には空の木箱を抱えている。足取りは重く、入口の男へ何か言おうとしたが、先に手で止められた。


「今日はもう枠がない」


「でも昨日、朝に来れば入れるって」


「昨日の話だ。今日は埋まった」


「薬代だけでも必要なの。半日でいいから」


「前借りが残ってるだろ。先にそっちを返せ」


 女性の表情が固まった。周囲の作業員は会話を聞いていても、視線を向けない。珍しいやり取りではないらしい。


「前借りって?」


 アレンが小さく聞くと、カイは帳面から目を離さないまま答えた。


「仕事を始める前に金を借りる。宿代とか薬代とか。働いた分から返す」


「それなら、働かせないと返せないんじゃない?」


「そうだよ」


 短い返事の声が、昨日までより少し低かった。


 ハーピーの女性はもう一度頼んだが、男は首を振るだけだった。やがて彼女は木箱を入口脇へ置き、何も言わずに歩き去っていく。翼を使って飛ぼうとはせず、負傷した側を庇うようにゆっくり人混みへ消えた。


「治るまで休めないの?」


「休めば借りた金が減らない」


「でも仕事に入れなかったら同じだろ」


「だから面倒なんだ」


 カイは受領印を受け取ると、倉庫から少し離れるまで何も言わなかった。表通りへ戻る角まで来てから、ようやく足を緩める。


「全部の倉庫がああじゃない。日雇いでもちゃんと払うところはあるし、怪我した奴を診療所へ回すところもある」


「十五番は違う?」


「違うって言い切れるほど証拠はない」


「カイ、あそこ嫌いなんだね」


「好きになる理由がない」


 初めて、言葉の奥に明確な感情が見えた。笑わない青年は、怒るときにも声を荒らげないらしい。


 アレンは先ほどの女性が消えた方向を振り返った。助けるべきなのか、一瞬考える。だが名前も事情も知らず、借金の額も契約の内容も分からない。金を渡せば解決するとも限らず、突然口を挟めば、むしろ状況を悪くする可能性もある。


「何かできないのかな」


「知らない相手の借金を払う?」


「そういう意味じゃない」


「なら、まず知るしかない」


 カイの答えは冷たく聞こえたが、アレンを止めたいわけではないようだった。


「この村には診療所も相談所もある。困ってるなら、そこへ行く方法もある。でも、あの倉庫と契約してる奴は相談したがらない」


「何で?」


「仕事を切られるから」


「それじゃ、ずっと同じじゃないか」


「だから面倒なんだって言った」


 二人が市場へ戻ると、華やかな色と食べ物の匂いがまた周囲を満たした。数十歩しか離れていないのに、倉庫街で見たものが別の場所の出来事のように感じる。


 カイは次の配達があると言い、そこで別れるつもりらしかった。だが立ち去る前、アレンへ一度だけ視線を戻した。


「昨日、緑通り見た?」


「見た。診療所と郵便所も確認した」


「なら、相談所も見とけ。診療所の裏にある」


「借金の相談もできる?」


「できる。仕事の揉め事も」


「分かった」


「首を突っ込みすぎるなよ」


「まだ何もしてない」


「顔がもう考えてる」


「そんなに分かりやすい?」


「かなり」


 言い切ると、カイは今度こそ市場の人混みへ消えていった。


 アレンはしばらくその場に立ったあと、緑通りへ向かった。相談所を見つけること自体に深い意味はない。ただ場所を知っておけば、必要になったとき動ける。そう考えながら歩く。


 診療所の裏手には、小さな二階建ての建物があった。入口の札には、賃金、契約、住居、暴力、借金について相談を受けると書かれている。料金は原則不要。相談しただけで雇用主へ内容を伝えることもないらしい。


 きちんとした仕組みは存在していた。それでも、仕組みがあることと、誰も困らないことは同じではない。十五番倉庫の女性がここを知っているのか、知っていても来られないのか、それさえアレンには分からなかった。


 建物の前で立ち止まっていると、中から人間の中年女性が出てきた。腕には書類を抱え、アレンを見ると少しだけ首を傾げる。


「相談?」


「いえ。場所を確認してただけです」


「旅人?」


「はい」


「なら、困ったときは覚えておいて。旅人でも使えるから」


「ここって、よく人が来るんですか?」


「来るわよ。夜の店だけじゃない。宿、倉庫、商人、運び屋。人が集まれば、お金の揉め事も集まるもの」


「解決しますか?」


 女性はすぐには答えず、抱えていた書類を少し持ち直した。


「解決することもある。できないこともある。でも、記録を残すだけでも意味はあるわ」


「記録?」


「一人だけなら偶然でも、同じ店や同じ雇い主の相談が十人続けば偶然とは言えないでしょう?」


 その言葉に、アレンは十五番倉庫の入口を思い出した。


「最近、そういう場所があるんですか?」


「それを旅人に話すことはできないわ」


「そうですよね」


「でも、興味本位で聞いてる顔ではないわね」


 女性は少しだけ表情を和らげた。


「だったら一つだけ。誰かが困っているのを見ても、すぐに一人で解決しようとしないこと。事情を知らずに動けば、助けるつもりで逃げ道を塞ぐこともあるから」


 言葉が胸へ残った。エララにも、似たことを何度も教えられてきた。善意があれば何をしても正しいわけではない。助けたい相手が何を望んでいるのかを確かめること。セントールのセイルと出会ったときも、それを忘れないようにしていた。


「分かりました」


「それならいいわ」


 女性は軽く手を上げ、書類を抱えたまま通りへ出ていった。


 アレンも宿へ戻る方向へ歩き始めた。昨日までは、この村を夜の灯りと音楽の場所として見ていた。今日、カイと歩いた倉庫街には、その灯りを支える仕事があり、その仕事の中には簡単には抜け出せない金の仕組みもあった。


 村が悪い場所だと決めつけるつもりはない。親切な者もいれば、きちんとした店もあり、困った人のための相談所まである。それでも、表から見えるものだけで全部を知った気になるのは違うのだろう。


 水鐘亭へ戻る途中、赤通りの建物が見えた。昼間は多くの扉が閉まり、昨夜の華やかさは影を潜めている。その脇道を、荷物を抱えた若い女性が一人歩いていった。


 一瞬だけ、十五番倉庫で見たハーピーかと思ったが、違う人物だった。


 アレンは足を止めずに歩き続けた。まだ何も分かっていない。だからこそ、今は勝手に答えを決めるべきではない。


 ただ、黒髪の女から渡された地図の先にあった村が、楽しいだけの場所ではないことだけは、少しずつ見え始めていた。

ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。

もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。

皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。

いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!

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