第三章 第四話 笑わない猫人
朝になると、昨夜あれほど賑やかだった村は、同じ場所とは思えないほど静かになっていた。水鐘亭の窓から見える青通りには、まだ閉じたままの店も多く、夜通し灯っていた色付きの灯りは消されている。代わりに聞こえるのは、箒で石畳を掃く音と、荷車の車輪がゆっくり転がる音だった。
アレンは朝食を済ませると、剣と必要な金だけを持って宿を出た。昨夜は人の多さと灯りに目を奪われ、村の位置関係を覚えるだけで精一杯だった。今日は明るいうちに市場や生活区画を見ておきたい。黒髪の女の姿を探すつもりはない――そう考えながら通りへ出たものの、長い黒髪の女性が前を横切るたびに、一瞬だけ視線が向いてしまうことには気づいていた。
夜には香水と酒の匂いが強かった中央通りも、朝は焼きたてのパンと煮出した茶の香りに変わっている。赤通りでは店先の飾りを片づける者がいて、紫通りでは昨夜使われた遊戯盤を外へ出して磨いていた。人目を引く華やかな時間が終わったあとにも、村を維持するための仕事は続いている。
黄色い市場通りへ入ると、昨夜より店の数は多かった。野菜、干し肉、布、薬草、靴、旅道具。生活に必要なものが並び、客も旅人より住民らしい者の方が目立つ。大きな籠を抱えた犬人の女性が店主と値段を交渉し、リザードマンの親子が朝食用の魚を選んでいる。少し先では、猫人の青年が腰ほどの高さまで荷物を積んだ手押し車を止め、帳面と木札を見比べていた。
灰褐色の耳と同じ色の短い髪を持ち、細身だが肩と腕には荷運びに慣れた筋肉がついている。尾は邪魔にならないよう腰の後ろへ緩く巻かれ、深い緑の目だけが忙しく周囲を動いていた。旅人というより、この村で働く者に見える。
「十二番、十二番……どこだよ」
小さく呟きながら建物の札を確認しているが、表情はほとんど変わらない。困っているようには見えないのに、同じ場所を三度見ていることだけは分かった。
アレンは声を掛けるべきか迷ったが、その直後、坂の上から空の手押し車が勢いよく下ってきた。荷下ろしの途中で留め具が外れたらしく、近くの商人が慌てて追いかけている。
「危ない!」
声に反応した猫人の青年が振り返る。すぐに荷車を引こうとしたが、荷物が重くて間に合わない。アレンは脇へ回り込み、肩を押して手押し車ごと進路から外した。
空の車は二人の横を通り過ぎ、道路脇の木箱へぶつかってようやく止まった。乾いた音が通りへ響き、周囲の人々が一斉に振り返る。
「悪い! 留め具が外れた!」
追いついた商人が何度も頭を下げた。怪我人がいないことを確認すると、近くの店主たちも怒鳴るより先に壊れた箱を起こし始める。猫人の青年は倒れかけた荷物を押さえ、ひとつずつ縄を確認してからアレンを見た。
「……助かった」
「怪我は?」
「ない。荷物も平気」
短い返事だった。礼を言っているのに表情がほとんど変わらず、怒っているのかと思うほど声も平坦だ。
「笑わない人なんだね」
口にしてから、初対面の相手へ言うことではなかったと気づいた。だが青年は気を悪くした様子もなく、片耳だけを僅かに動かした。
「笑う必要がある場面だった?」
「いや……ないけど」
「ならいいだろ」
そう言って荷物の縄を締め直す。愛想がないというより、必要のない表情を作らないだけらしい。アレンもそれ以上気にせず、まずは名乗ることにした。
「アレン。旅の途中」
「カイ。運び屋」
名乗り方まで短かった。カイは腰の帳面を開き、先ほど探していた木札をもう一度確認する。アレンが十二番を探しているのかと聞くと、今度は少しだけ眉間に皺が寄った。
「昨日まで十一番の隣だった」
「番号が動くの?」
「店が夜と昼で場所を入れ替える。案内板も朝に変わる。初めて来た奴より、慣れてる奴の方が引っかかる」
昨夜、通りごとに色が分かれている理由が少し分かった。人の出入りが多いだけではなく、時間帯によって店の配置まで変わるらしい。
「一緒に探そうか?」
「旅人に荷物の配達を手伝わせるほど困ってない」
「でも同じ場所三回見てた」
カイの耳がぴくりと動いた。反論するかと思ったが、数秒黙ったあと、ため息のように息を吐いた。どうやら完全に断るほどではなかったらしい。
「……十二番を見つけるまでなら勝手にしろ」
二人で市場通りを歩くことになった。カイは荷物を押しながら、店の番号が固定ではなく、朝の市場、昼の露店、夜の屋台で割り当てが変わることを説明した。村の住民なら誰でも知っているが、数日外へ出て戻るだけで配置が変わることもあるらしい。
「運び屋なのに外へ出るんだ?」
「村の中だけじゃ仕事にならない。近くの農家、宿場、街道の休憩所まで運ぶ。たまに王都方面も行く」
「王都まで?」
「依頼があれば」
王都という言葉にアレンが少し興味を見せると、カイはその反応を見逃さず、荷物を押したまま横目だけを向けた。
「王都に行く予定?」
「いずれは。その前に、この辺を見て回るつもり」
「旅を始めたばかりか」
「分かる?」
「荷物が真面目すぎる」
「どういう意味?」
「必要な物が全部決まった場所に入ってる。長く旅してる奴は、だいたい途中から適当になる」
「それ褒めてる?」
「別に」
昨夜から何度か似た返事を聞いた気がして、アレンは少しだけ眉を寄せた。カイはその反応に気づいても笑わない。
市場の中央まで進んだところで、十二番の札を見つけた。朝だけ開く布屋の裏側に、小さな薬草店が移動していたらしい。カイは荷物を下ろし、受取人の老女と木札を交換する。仕事が終わるまで待つつもりはなかったが、老女がアレンにも礼として乾燥果実をひとつ渡したため、結局店先に残ることになった。
「手伝ったのは荷物じゃなくて、探す方だけです」
「この子が迷ってたんだろ?」
老女は当然のようにカイを指し、からかう気を隠そうともしていなかった。カイの耳がわずかに伏せられる。
「迷ってない」
「三回同じ角を曲がったくせに」
「見られてたのかよ」
「店番は暇なんだよ」
初めてカイの表情が少し崩れた。笑ったわけではないが、明らかに不満そうに耳が後ろへ倒れる。老女は楽しそうに笑い、次の荷物まで預けようとしたが、カイは時間がないと言って断った。
店を離れると、アレンは受け取った乾燥果実を半分に割って差し出した。カイは一度見てから受け取り、歩きながら口へ入れる。
「昼まで仕事?」
「夕方まで。夜はやらない」
「夜の方が人多いのに」
「だからやらない。酔った客、急に行き先を変える店、通りを塞ぐ馬車。荷物を運ぶには最悪だ」
村を楽しむ側ではなく、働く側から見た夜の姿だった。昨夜ミレイから聞いた話ともつながる。灯りや音楽が自然に生まれているわけではなく、その裏側で働く者がいる。
「昨日、赤通りを見てた」
「そう」
「反応薄いね」
「見たい奴は見ればいいだろ」
「カイは行かないの?」
「仕事でなら行く。遊びでは行かない」
「理由は?」
「高い」
あまりに現実的な答えで、アレンは思わず笑った。カイは相変わらず表情を変えないが、尾の先だけが一度小さく揺れた。
二人は中央広場まで戻った。昼の広場には夜の演奏者はおらず、代わりに市場の荷物を運ぶ者や、飲食店へ食材を届ける者が行き交っている。カイは次の配達先を確認しながら、アレンの腰にある旅用の帯へ目を向けた。
「それ、セントールの結び方だな」
「やっぱり分かる人には分かるんだ」
「街道仕事してれば見る。もらった?」
「うん」
「珍しい」
「そんなに?」
「人間の旅人に渡すのは、少なくとも俺はあまり見ない」
それ以上は聞かれなかった。アレンも詳しい事情を話すつもりはなく、短く頷くだけにする。カイも無理に聞き出そうとはせず、次の配達先を確認してから別の話へ移った。
「この村、初めてなら昼のうちに緑通りも見とけ」
「住民区画?」
「診療所、洗濯場、修理屋、郵便所。旅人が困ったとき使う場所はだいたいあっちにある。夜の店だけ見て帰る奴は多いけど、何日かいるならそっちの方が大事だ」
「何日いるかはまだ決めてない」
「なら余計に見とけ」
「親切なんだね」
「違う。同じ質問されるのが面倒だから先に言ってる」
そう言ってカイは次の通りへ向かおうとした。別れるつもりなのだと分かり、アレンも手を上げた。短い時間だったが、村を歩くうえで役立つことをいくつも教えてもらった。
「さっきはありがとう。村のことも」
「最初に助けられたのはこっち」
「じゃあ、お互い様」
カイは数歩進んだところで立ち止まり、振り返った。深い緑の目が一度だけアレンの荷物と剣を見て、それから顔へ戻る。
「明日もこの辺にいる?」
「たぶん」
「朝、市場の入口にいる。王都方面の道を聞きたいなら教える」
「仕事中じゃないの?」
「出発前なら暇」
「分かった」
「じゃあ」
今度こそカイは荷物を押して人の流れへ紛れていった。灰褐色の耳だけがしばらく人々の頭の間から見えていたが、やがてそれも消える。
アレンはその場に少しだけ立ち、朝まで名前すら知らなかった相手と、明日また会う約束をしたことに気づいた。旅へ出てから人とは何度も出会っている。サルダの宿の主人、セントールたち、街道の旅人。それでも多くは、その場所を離れれば別々の道へ戻っていった。
カイも同じかもしれない。明日道を聞いて、それで終わる可能性はある。それでも、偶然ぶつかっただけの一日が次の日へ続くことが、少しだけ新鮮だった。
昼の村を歩きながら、アレンは緑通りへ向かった。そこには共同洗濯場、診療所、道具の修理屋、郵便所が並び、夜には見えなかった生活の形がさらに広がっている。華やかな灯りの裏に普通の暮らしがあることは昨日知ったつもりだったが、明るい時間に歩けば、まだ見えていなかったものはいくらでもあった。
黒髪の女がこの村の何を見せたかったのかは、今も分からない。ただ、地図を受け取らなければ、カイという無愛想な猫人と出会うこともなかっただろう。その事実だけは、少しだけ面白いと思えた。
アレンは診療所の場所を確認し、次に修理屋の看板へ目を向けた。旅はまだ始まったばかりで、ここにどれほど留まることになるのかも決めていない。それでも、知らない土地で増えていくものは景色だけではないのだと、少しずつ分かり始めていた。
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