第三章 第三話 夜を楽しむ者たち
宿の二階へ戻ってからも、窓の外の音はなかなか弱まらなかった。昼間なら遠くまで聞こえそうな笛の音も、今は別の通りから流れてくる弦楽器や笑い声に重なり、ひとつの大きなざわめきになっている。アレンは寝台へ腰を下ろしたまま少しだけ耳を澄ませていたが、眠るにはまだ早く、食事を済ませたばかりで身体にも余力があった。
初めて訪れた場所を夜に歩き回るのは、本来なら避けた方がいい。だが中央通りと宿通りの位置はすでに確認してあり、入口でも宿でも何度も注意点を聞いている。赤い灯りの奥へ行かなければ、村の表側を見る程度なら危険は少ないはずだった。
「少しだけなら」
誰に言うでもなく呟き、アレンは剣を腰へ戻した。荷物の大半は部屋へ置き、金も必要な分だけ分けて持つ。鍵を確かめ、宿の主人へ夜間の出入りについて聞いてから外へ出ると、通りは先ほどよりさらに賑わっていた。
青い宿通りには旅装の者が多く、湯上がりらしい人々が薄い上着のまま歩いている。角のある悪魔族の男と犬人の女性が宿の値段を比べ、人間の商人が荷物を抱えて受付へ駆け込んでいた。少し先では大きな籠を背負ったゴブリンの老人が、泊まる場所を間違えたらしく案内板と鍵を交互に見比べている。
アレンは中央通りへ戻り、まず黄色い市場通りを歩いた。昼間は食材や日用品を売っていた店の半分ほどが閉まり、その代わりに夜向けの屋台が増えている。焼いた魚、香辛料をまぶした肉、蜂蜜を絡めた木の実、果実を煮た菓子。匂いだけで足を止めそうになる店が続き、通りの中央では小柄なドワーフの女性が大鍋をかき混ぜていた。
「兄ちゃん、食ったばかりって顔してるね」
「分かるんですか?」
「腹が減ってる奴は鍋を見る目が違う」
女性はそう言って笑い、試食用の小さな木皿を差し出した。断ろうとしたが「味見は無料」と言われ、アレンは一口だけ受け取る。豆と肉を煮込んだ料理は見た目より辛く、飲み込んだ瞬間に喉の奥まで熱くなった。
「辛っ」
「いい反応だ。もう一杯?」
「いらないです」
「正直でよろしい」
周囲の客が笑い、アレンもつられて笑った。赤い通りの印象が強すぎただけで、この村にも普通の食事と普通の商売がある。当たり前のことなのに、黒髪の女の説明を聞いたせいで、来る前は村全体が夜の店ばかりなのではないかと想像していた。
市場通りを抜けると、小さな広場へ出た。夕食のときに演奏していた者たちとは別の一団が中央に集まり、今度は踊りまで加わっている。羽を持つハーピーの女性が地面すれすれを舞い、その下でエルフの青年が弦を弾く。観客の中には子供もおり、肩車された猫人の幼児が手を叩いていた。
広場の端では、年配の人間の男が木製の札を並べていた。演奏者へ渡すための小さな投げ銭札らしく、客は銅貨と交換し、気に入った演目の箱へ入れていく。直接金を投げるより安全で、盗難も減るのだという。
「旅人かい?」
「はい。今日着きました」
「なら見ていきな。ここの夜は店だけじゃない。芸を見せに来る奴もいれば、見るためだけに何日も泊まる奴もいる」
男の言葉通り、観客の服装も種族もばらばらだった。仕事着のまま立っている者もいれば、明らかに旅の途中らしい者もいる。誰かが踊り終えるたびに歓声が上がり、演奏者たちは次の曲へ入る前に短い休憩を挟んだ。
アレンは一曲分だけ見てから広場を離れた。長居をすれば楽しいだろうが、村の構造を知るという目的を忘れるつもりはない。紫の遊戯通りへ向かうと、こちらは広場より騒がしく、店の中から歓声と落胆の声が交互に漏れていた。
入口の札には賭け金の上限、借金の禁止、未成年への賭博禁止が大きく書かれている。受付では客の年齢を確かめ、酔いすぎた者には入店を断っていた。外から見れば賑やかで無秩序にも思えるが、問題が起きないよう細かな決まりが積み重ねられているらしい。
「兄ちゃん、やるか?」
盤上遊戯の店先で、人間の老人に声を掛けられた。駒を動かして相手の陣地を奪う遊びらしく、老人の前には空いた椅子が一つある。
「ルールを知らないです」
「なら金は賭けない。教えてやるよ」
「それなら少しだけ」
アレンが座ると、老人は本当に賭け金を要求せず、駒の動かし方から説明した。十数分後にはアレンの駒がほとんど動けなくなり、老人が満足そうに笑う。
「剣より頭の方はまだ修行が必要だな」
「剣を持ってるだけでそこまで分かるんですか?」
「腰の下がり方を見れば、多少やってるのは分かる」
負けたことより、知らない老人に姿勢を見抜かれたことの方が悔しかった。もう一度挑みたくなったが、始めれば長くなると分かっていたため、礼を言って席を立った。
紫の通りを出る頃には、夜の空気にも少し慣れていた。賑やかではあるが、誰もが何か特別な目的で来ているわけではない。仕事を終えて食事をする者、芸を見る者、遊戯をする者、湯へ向かう者。村が夜に活気づくのは事実でも、その活気の形は一つではなかった。
問題は赤い通りだった。中央通りへ戻る途中、深い紅色の灯りが並ぶ道が目に入り、アレンは無意識に歩調を落とした。宿へ帰るなら通る必要はない。それでも昨夜から何度も話題にされ、村へ着いてからも避けるように意識していることに気づくと、逆に気になってしまう。
入口付近だけなら、先ほども歩いた。強引な客引きは禁止されているし、警備員も巡回している。そう考えて、アレンは赤い灯りの下へ数歩だけ進んだ。
昼間より人は増えていた。華やかな服を着た男女が店先に立ち、客と笑いながら話している。人間だけではなく、猫人、エルフ、ラミア、角を持つ悪魔族もいた。店によって雰囲気も違い、酒を出す店、音楽を聞かせる店、個室へ案内するらしい店が並んでいる。
「こんばんは。迷子?」
声を掛けてきたのは、淡い紫色の髪を持つ女性だった。頭には短い角があり、背中から伸びる小さな翼は飾りではなく、本物らしい。服装は華やかだが、通りを歩く者へ無理に近づく様子はなかった。
「違います」
「そう? さっきから同じ看板を三回見てるけど」
指摘され、アレンは言葉に詰まった。周囲を確認しているつもりだったが、確かに同じ場所を行き来していたらしい。
「初めて来たから、通りを見てただけです」
「なるほど。じゃあ本当に迷子じゃなくて、見学中ね」
「見学って言い方も変じゃないですか?」
「ここではよくあることよ」
女性は楽しそうに笑った。声や仕草にはどこか人を惹きつける柔らかさがあるが、アレンが一歩距離を取っても追ってこない。
「私はミレイ。ここの店で働いてるの」
「アレンです」
「素直に名前を教えるのね」
「名前くらい普通じゃないですか?」
「この通りだと、名乗りたくない人も多いから」
その言葉で、ここが他の通りとは少し違う場所なのだと改めて感じる。ミレイは近くの建物を顎で示したが、入るよう勧めることはしなかった。
「怖い?」
「少し警戒はしてます」
「それでいいと思う。楽しむ場所だからって、何も考えなくていい場所じゃないもの」
昨日、黒髪の女からも似た言葉を聞いた。アレンが一瞬黙ると、ミレイは首を傾げ、その反応を確かめるように少しだけ顔を覗き込んだ。
「誰かにも同じこと言われた?」
「はい」
「なら、その人はまともね」
まとも、と言われてすぐ黒髪の女の笑顔を思い出し、アレンは判断に迷った。少なくとも注意だけは正しかったのかもしれない。
「この村って、ずっとこんな感じなんですか?」
「夜はね。朝になると驚くくらい静かになるわよ。働いてる人も寝るし、旅人も出ていくし」
「ここで働いてる人は、みんな村の人?」
「そんなことないわ。生まれたときから住んでる人もいれば、旅の途中で残った人もいる。お金を貯めて別の土地へ行く人もいるし、ここが好きでずっといる人もいる」
アレンは少し意外に思った。黒髪の女の説明では、旅人が遊ぶための場所という印象が強かったが、当然ここにも働いて暮らしている人間がいる。
「変な顔」
「思ってた場所と少し違っただけです」
「悪い意味?」
「まだ分からないです」
「それでいいんじゃない? 一晩見ただけで全部分かった顔をされるより好きよ」
ミレイは店から呼ばれ、振り返った。戻る前に、宿へ向かう道を指で示し、初めて来た旅人へするような手慣れた口調で最後の注意を付け加えた。
「青通りへ帰るなら、中央広場を抜けた方が近い。奥の裏道は初めてなら使わない方がいいよ」
「危ないんですか?」
「暗いし、店の裏口と倉庫ばかりだから迷うの。危険かどうか以前に、楽しくない」
「分かりました。ありがとうございます」
「どういたしまして。気が向いたら、今度は迷子じゃなく客で来てね」
「考えておきます」
「それ、来ない人の言い方」
笑いながら店へ戻っていく姿を見送り、アレンも赤い通りを離れた。中央広場へ戻ると、先ほどの演奏は終わり、別の曲が始まっていた。人々はまだ楽しそうに歩いているが、昼間から働いていた店の中には片づけを始めているところもある。華やかな夜の裏側で、食器を洗い、床を掃き、荷物を運ぶ人の姿も見えた。
村が眠らないように見えるのは、誰かが夜中まで働いているからだ。灯りも音楽も、自然に生まれているわけではない。
アレンは宿へ向かいながら、来る前に抱いていた印象が少しずつ崩れていることを感じていた。夜を楽しむための村。それは間違ってはいない。ただ、その一言だけでは足りない。ここで暮らす者がいて、働く者がいて、客を守るための決まりがあり、楽しみ方を選ぶ者がいる。
水鐘亭へ戻ると、受付の女性が帳面へ何かを書き込んでいた。アレンを見るなり時刻を確認し、少し笑う。
「ちゃんと戻ってきたね」
「戻らないと思ってたんですか?」
「初めて来た若い旅人は、赤通りで時間を忘れることがあるから」
「少し見ただけです」
「その顔なら本当に少しみたいね」
「顔に出てます?」
「出てる」
これ以上何を言ってもからかわれそうで、アレンは鍵を見せて階段へ向かった。受付の女性も追いかけてからかうことはせず、帳面へ視線を戻しながら声だけを投げる。
「おやすみ。明日の朝食は日が昇って二時間くらいまでだからね」
「分かりました。おやすみなさい」
二階へ上がり、部屋へ入る。扉を閉めると外の音は少し遠くなったが、それでも窓越しに音楽が聞こえていた。
アレンは剣を外し、椅子へ腰を下ろした。今日一日で見たものを思い返しても、まだ村のほんの一部しか知らない。黒髪の女がここを教えた理由も分からず、彼女自身の姿も見ていない。それでも、村について一つだけ分かったことがある。
ここは、誰かが一言で説明できるほど単純な場所ではなかった。窓の外では赤と金の灯りが夜道を照らし、遠くで歓声が上がった。アレンは明日になれば昼の村も見てみようと考えながら、旅用の地図を机の上へ置いた。そこに描かれた小さな丸印の中には、地図からは決して分からない人々の暮らしが広がっていた。
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