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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第三章 『欲望の村と銀の狐』
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第三章 第二話 『夜を迎える村』

丘を下るにつれて、谷の奥に広がる集落の輪郭が少しずつはっきりしていった。遠くでは一つの灯りに見えていたものも、近づけば別々の店先や街灯で、赤、青、金、紫と色の違う明かりが街道沿いへ続いている。夕方の風に混じっていた音楽も、今では弦を弾く音と笛の旋律、太鼓の低い響きまで聞き分けられるほど近かった。


 アレンは街道を行き交う人々の流れに沿って谷へ下った。荷車を引く商人、旅装の人間、羽を畳んで歩くハーピー、色鮮やかな布を肩へ掛けた猫人、二人連れのエルフ。ラークホロウの季節市でも様々な種族を見てきたが、ここでは誰も祭りの日だけ集まった客ではない。仕事を終えて帰る者もいれば、これから村へ入る者もいて、生活の一部として同じ道を使っていた。


 村の入口に大きな門はなく、低い石柱の間へ木製の案内板が立っていた。街道で聞いた通り、通りごとの色と役割が記されている。青は宿と浴場、黄は食事と市場、赤は酒場と夜の店、紫は遊戯場と劇場、緑は住民区画と診療所。さらに喧嘩、盗み、強引な客引き、許可のない薬の販売を禁じる決まりまで書かれていた。


「思ったより、ちゃんとしてるな」


 黒髪の女から聞いた話だけなら、もっと無秩序な場所を想像していた。だが入口には二人の警備員がおり、一人は人間、もう一人は赤褐色の鱗を持つリザードマンだった。旅人を威圧する様子はなく、人の流れを見ながら必要な者に声を掛けている。


「初めてか?」


「はい」


「なら案内板は読んどけ。宿を決める前に赤通りへ行くと、帰る頃には青通りがどこか分からなくなる奴がいる」


「そんなに迷うんですか?」


「酒を飲めばな」


 隣のリザードマンが喉の奥で笑い、人の流れへ視線を向ける。そのまま、何度も同じ失敗を見てきたような口調で続けた。


「飲まなくても、初めて来た奴は灯りを見てるうちに迷う。先に部屋を取った方がいい」


「分かりました」


 警備員たちはそれ以上からかわず、アレンを中へ通した。村へ一歩入った瞬間、丘の上から見ていたときより多くの音と匂いが押し寄せてくる。焼いた肉、香辛料、甘い菓子、香木。どこかの店から笑い声が上がり、その奥では違う楽器の音が重なっていた。


 中央通りは石畳で、両側に二階建ての建物が並んでいる。黄色い札を掲げた食堂では角の小さな悪魔族の女性が串焼きを焼き、その向かいではラミアの女性が果物酒を売っていた。人間と犬人が同じ卓で食事をし、少し先では蜘蛛人の女性が装飾品を並べている。


 見慣れないものは多い。それでも、誰も珍しい存在としてそこに立っているわけではない。食べ物を焼き、客へ声を掛け、代金を受け取り、隣の店と笑い合っている。ラークホロウで遠い土地の話を聞いていた頃より、世界はずっと当たり前の顔をして広かった。


 中央通りを少し進むと、軒から垂れる布に赤色が増え始めた。店先に立つ男女の服装も華やかになり、通りを歩く旅人へ笑顔で声を掛けている。


「お兄さん、一人?」


 突然呼ばれ、アレンはそちらを向いた。赤い髪飾りをつけた猫人の女性が柱へ寄りかかり、楽しそうに笑っている。声を掛けられた理由は、宿の案内ではなさそうだった。


「宿ならまだ決めてないけど」


「宿の話じゃないよ」


「……ああ」


「今、分かった顔した」


「分かってない」


「じゃあ入ってみる?」


「入らない」


 アレンが即答すると、女性は怒るどころか声を上げて笑った。断られることまで含めて、この通りの日常なのだろう。


「真面目だね。青通りは一本戻ったところ。初めてなら先に部屋を取った方がいいよ」


「それ、今日何回も言われました」


「みんな同じ失敗を見てるからね」


 最後は普通に道を教えてくれたため、アレンは礼を言ってその場を離れた。背後から「気が変わったらおいで」と聞こえたが、振り返らない。


 青い札の並ぶ通りへ戻り、馬車置き場と共同浴場に近い三階建ての宿を選んだ。入口には「水鐘亭」と書かれた木札が吊るされ、受付には栗色の髪を結んだ人間の女性が座っていた。


「一人?」


「はい。一泊で」


「朝食付きなら銀貨一枚と銅貨六枚。湯屋は裏手。宿泊客は夜と朝に一回ずつ使えるよ」


 料金はサルダより少し高いが、予想していた範囲だった。アレンは代金を払い、帳面へ名前を書くと、受付の女性から真鍮の小さな鍵を受け取った。


「アレン・ヴェイレン、と。二階の十二号室ね。鍵をなくしたら追加料金。あと、知らない相手から飲み物をもらったら気をつけること。店で出されたものなら店員の前で受け取る。裏通りへ誘われても、場所を知らないうちはついていかない」


「分かりました」


「楽しむ場所ではあるけど、何をするか決めるのは客だから」


 最後の言葉は、昨夜の黒髪の女が言ったことと少し似ていた。誰かに勧められたからといって、その通りにする必要はない。道も、店も、誰と話すかも、最後に選ぶのは本人だ。


 部屋は一人で使うには十分な広さだった。寝台と小さな机、荷物棚、窓際に椅子が一脚ある。窓を開けると青通りの向こうに黄色い市場通りが見え、そのさらに先で赤い灯りが少しずつ増えていた。


 アレンは荷物を棚へ置き、剣だけはすぐ手に取れる位置へ立てかけた。セントールたちから贈られた旅用の帯も外さず、黒髪の女からもらった地図が入っていることを確かめる。地図の役目はここまで来ればほとんど終わっているが、捨てる気にはならなかった。


「本当に、何でここを教えたんだろ」


 当然、答えはない。昨夜の女なら「来たかったから来たのでしょう?」と笑い、理由を聞いてもまたはぐらかしそうだった。


 夕陽が谷の向こうへ沈み始めると、軒に吊るされた灯りが次々と点いた。音楽も一つではなくなり、遠くでは弦楽器、近くでは笛、その間から手拍子と笑い声が聞こえる。夕食を取る必要もあり、村がどんな場所なのかは実際に歩かなければ分からない。


 アレンは鍵を持って宿を出た。夕暮れの中央通りは、入ってきたときとは別の場所のようだった。青い宿通りには水色の灯り、黄色い市場通りには金色の提灯が並び、赤通りの方向では深い紅色の明かりが連なっている。紫の遊戯場からは賑やかな歓声が上がっていた。


 市場通りで肉と野菜を煮込んだ料理を買い、通り沿いの長椅子へ座る。少し先の広場では、人間の男性、エルフの女性、犬人の青年、小柄なゴブリンの老人が違う楽器を合わせて演奏していた。子供たちまで曲に合わせて跳ね、大人たちは笑いながら道を空けている。


 食事をしながら人の流れを眺めていると、この村へ来る理由が少し分かる気がした。仕事帰りの者も、旅の途中で休む者も、騒ぎたい若者も、一人で静かに食事をする老人もいる。赤い通りだけを見れば特殊な場所に思えるが、村全体がそれだけで成り立っているわけではない。


 食事を終えたアレンは、主要な通りの位置だけ確かめることにした。紫の通りでは札や盤を使った遊戯が行われ、入口には賭け金の上限と借金で遊ぶことを禁じる札が出ている。少し先では酔った人間の男が警備員に止められていたが、連れらしいドワーフの女性が引き取ると、騒ぎはすぐ収まった。


 表側だけを見る限り、秩序は保たれている。だからといって何も警戒しなくていいわけではないのだろう。入口の注意書きや宿の女性の忠告がある以上、問題が起きることもあるはずだった。


 赤通りへ近づくにつれ、香木と甘い香水の匂いが強くなった。華やかな服装の男女が店先に立ち、旅人と笑顔で話している。無理に腕を掴む者はいないが、声だけで足を止めさせるのが上手かった。


 昨夜の黒髪の女が言った「夜を一人で過ごしたくない旅人のための店」という表現を思い出し、アレンは歩調を少し速めた。


「そんなに急がなくても、通りは逃げないわよ」


 背後から女性の声がして、アレンの足が止まった。振り返るまでの一瞬だけ、昨夜の黒髪の女の顔が頭をよぎり、思わず呼吸まで僅かに浅くなる。


 だが、立っていたのは見知らぬ悪魔族の女性だった。長い角を持ち、店の看板を片手に抱えている。アレンの表情に気づいたのか、女性は少し不思議そうに眉を上げた。


「宿通りへ戻るなら、そこの角を左よ。真っ直ぐ行くと赤通りの奥だから」


「あ……ありがとうございます」


「初めて来た人は、だいたい迷うのよね」


 女性はそれだけ言うと、近くの店へ看板を運んでいった。アレンは小さく息を吐き、思っていた以上に黒髪の女が突然現れるのではないかと考えていたことに気づく。けれど彼女がこの村にいるとは一言も聞いておらず、地図を渡したからといって待っていると約束したわけでもない。それなのに村へ入ってから、黒い髪が視界へ入るたびに何度か目で追っていた。


「……何やってるんだろ」


 初日から村全体を見て回る必要はない。宿を確保し、食事を取り、主要な通りの位置も覚えた。今日としてはそれで十分だった。


 青い灯りが並ぶ宿通りへ戻る頃には、空は完全に暗くなっていた。谷の上には星が見えているのに、村の中心部だけは昼間より明るく感じる。赤、金、紫、青の光が石畳へ重なり、人々の声と音楽は弱まるどころかさらに増していた。


 宿へ入る前、アレンは一度だけ振り返った。丘の上からは色鮮やかな灯りの集まりにしか見えなかった場所も、中へ入れば働く者がいて、遊ぶ者がいて、旅の途中で休む者がいる一つの生活圏だった。それでも、この村について分かったのはまだ表側だけであり、黒髪の女がわざわざこの場所を教えた理由も分からないままだ。


 アレンは鍵を握り直して宿の扉を開いた。外では新しい曲が始まり、夜の村はこれからが本番だと言わんばかりに、さらに賑やかさを増していた。

ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。

もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。

皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。

いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!

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