第三章 第一話 『地図の先へ』
南東へ延びる細い街道は、本道から離れるにつれて少しずつ表情を変えていった。ラークホロウ周辺より背の低い草の間から赤茶けた土が覗き、遠くには緩やかな丘が幾重にも連なっている。朝の風はまだ涼しく、雲の影が地面をゆっくり横切っていた。
アレンは歩きながら、ときおり腰の旅用の帯へ手を伸ばした。黒髪の女から渡された地図には、この細道だけでなく水場や小さな休憩所、分岐の目印まで書き込まれている。手持ちの地図では一本の薄い線でしかなかった道にも、実際には人の生活と往来が続いていた。
それでも、紙に描かれた線だけを信じて進むつもりはなかった。石橋を渡って最初に見つけた道標は地図と同じ方角を示し、次の分岐には新しい荷車の轍が何本も残っている。道幅も馬車がすれ違える程度にはあり、日常的に使われている道だと分かった。
「少なくとも、誰も通らない道じゃないな」
返事をする者はいないが、完全な静けさでもない。少し先では小鳥が草の間を飛び回り、丘の向こうからは家畜らしい低い鳴き声が届いている。ラークホロウを出たばかりの頃なら、知らない脇道へ入ったこと自体でもっと緊張していたかもしれない。けれどセントールたちの草原と深い森を経験した今は、知らない道だからこそ確かめるべきことがあると分かっていた。水、日没までの距離、休める場所、逃げられる地形、周囲に残る足跡。母から教わったことと、この旅で覚えたことが少しずつ一つにつながっている。
昼前には、街道の左側に低い石垣が現れた。その向こうには細長い葉をつけた作物が並び、畑の端では緑灰色の鱗を持つリザードマンの男が鍬を肩へ担いでいる。隣には人間の女性が立っており、二人ともアレンへ気づくと、ごく自然に片手を上げた。
「旅か?」
「はい。南東へ」
「ならこの道で合ってる。次の水場まで一時間もかからん。夕方まで進むなら、丘を越えた先で道が二つに分かれるから、右へ行け。左は牧草地だ」
「ありがとうございます」
地図にも同じ分岐が描かれていた。アレンが旅人の数を尋ねると、男は今の季節は商人が増えると教えてくれた。
「向こうの村は夜まで人が動く。遅く着いても門を閉められるような場所じゃないが、初めてなら明るいうちに入った方がいい」
「財布もちゃんと持っておきなさいよ」
人間の女性が横から笑いながら言った。
「あそこは使おうと思えば、いくらでも使えるから」
「……昨日も似たことを言われました」
「なら、その人は親切だったのね」
誰の顔を思い浮かべたのかアレンにも分かってしまい、少しだけ複雑な気分になった。礼を言って歩き出してからも、黒髪の女が話したことと、今聞いた内容に大きな違いはない。少なくとも、存在しない場所へ誘われているわけではなさそうだった。
道はやがて細い川に沿って続くようになった。水面には陽光が細かく反射し、川辺では背の高い白い花が風に揺れている。誰かから話を聞くだけなら「川沿いに花が咲いていた」の一言で終わる景色でも、実際に歩けば水の匂いも、草の青臭さも、雲が陽を隠すたびに変わる川面の色もある。世界を見たいと思った理由の中には、きっとこういうものもあったのだとアレンは感じた。
しばらく進むと、川沿いの休憩所に辿り着いた。屋根と長椅子、それに井戸だけの簡素な造りで、すでに数人の旅人が休んでいる。長椅子の片側には濃い緑色の鱗を持つラミアの女性が座り、その隣では犬人の老人が干した果物を食べていた。
ラークホロウの季節市でもラミアや犬人は何度も見ている。それでも村へ来た客としてではなく、街道の途中で普通に足を休め、次の道について話している姿を見ると、同じ種族でも少し違って見えた。
「空いてるよ」
ラミアの女性が長椅子の端を尾先で示した。アレンは礼を言って腰を下ろし、犬人の老人から井戸の水が飲めると教えられて水筒を満たした。
戻ってくると、ラミアの女性がアレンの腰元を見ていた。
「その帯、セントールの作りだね」
「分かるんですか?」
「結び方が独特だから。北西の草原の人たち?」
アレンは傷ついた若いセントールを助け、別れ際に旅用の帯を贈られたことだけ簡単に話した。森の奥で起きたことや黒い狐についてまで話す必要はない。
「じゃあ、ただ買ったものじゃないんだ。大事にした方がいいよ。あの人たち、意味のない贈り物はあまりしないから」
犬人の老人もアレンの目的地を聞くと、干した果物を持つ手を止めた。
「南東の村か。宿も飯もあるが、夜になると昼より人が増える変わった場所だ」
「普通に、遊ぶ場所が多い村って言えばいいのに」
ラミアの女性が呆れたように笑う。
「初めてなら中央通りから外れすぎない方がいいよ。村そのものが危険ってわけじゃないけど、人が多い場所には金目当ての人もいる。財布を見せびらかさない。知らない薬を飲まない。酔った人と喧嘩しない。それくらい」
「昨日もほとんど同じことを言われました」
「じゃあ、その人の言うことはちゃんと聞いていいかもね」
「……そこはまだ分からないです」
女性が笑い、老人も髭の下で口元を緩めた。
「誰の言葉を信じるか決めるのも旅のうちだ」
母なら似たようなことを言うだろうかと考えたが、エララならまず「知らない相手から地図をもらったなら、道を何度も確認しなさい」と言いそうだった。すでに二度は確かめている。もう一度くらい確認しても悪くない。
休憩を終えて街道へ戻ると、昼を過ぎた頃から人の往来が目に見えて増え始めた。荷車を引く人間の商人、背に籠を負った猫人の女性、長い耳を布で軽く覆ったエルフの青年とすれ違う。誰も互いを珍しそうに見ない。道幅が狭ければ自然に譲り合い、荷車が通れば端へ寄り、追い越す者は一声掛ける。
ラークホロウの季節市では「外から来た人」として見ていた者たちが、ここではただ街道を使う人々として存在していた。
猫人の女性の籠から赤い実が一つ落ち、アレンが拾って声を掛けると、彼女は尖った耳をぴくりと動かして振り返った。
「ありがとう。村まで行くの?」
「はい」
「今日なら夕方前には着くよ。初めてなら入口の案内板を読んだ方がいい。通りごとに色が違うから、夜でも迷いにくいの」
「そんなに大きいんですか?」
「村って呼ばれてるけど、下手な町より人は多いよ」
女性はそう言って手を振り、人の流れへ戻っていった。
午後の陽が傾き始めた頃、地図に描かれていた小さな石造りの祠が見えた。月根の森で見つけた古い祠とは違い、街道の安全を願うための簡素な石柱と屋根だけの造りだ。七つの印も、傷だらけの八つ目の壁龕もない。
それでも「祠」というだけで、アレンの視線は自然に細部へ向かった。石柱には旅人が結んだ色布が揺れ、足元には花と小さな木片が供えられている。何の異常もないと分かると、胸の奥に僅かに入っていた力が抜けた。
過去に一度、不思議な祠を見つけたからといって、世界中の祠に秘密が隠されているわけではない。確かめるまで気にしていたことがおかしくて、アレンは小さく笑った。
祠の脇には日除けの布を張った露店があり、若いエルフの男が乾燥した果物と薄焼きのパンを売っていた。アレンが少しだけ買うと、男は村の方角へ顎を向ける。
「初めてなら、入口の案内板をちゃんと読んだ方がいい。宿、食事、湯屋、酒場、遊戯場で通りの色が違うから」
「さっきも同じことを言われました」
「なら忘れないだろ。向こうは住んでる人より、出入りする人の方が多いくらいだからな」
「変わった場所なんですね」
「まだ見てもないのに決めるなよ。合うかどうかは、入ってから考えればいい」
その言葉にアレンは素直に頷き、果物を荷物へ収めて露店を離れた。
道はそこから緩やかな上り坂へ変わった。人の数もさらに増え、二台の馬車とすれ違ったあとには、翼を背に畳んだハーピーの女性たちが街道の上を低く飛んでいく。風の中には焼いた肉や甘い香辛料、果物を煮詰めたような香りが混じり始め、その奥から弦楽器と太鼓の音まで聞こえてきた。まだ陽は沈んでいないが、向こうではもう夜の準備が始まっているらしい。
丘の頂上へ近づくにつれ、音楽は少しずつはっきりしていった。アレンが最後の坂を上りきると、視界の先に広い谷が開けた。
谷の中央を街道が真っ直ぐ伸び、その奥には夕方の光を受けて数え切れない屋根を並べる大きな集落がある。赤、青、金、紫の布が建物の軒で揺れ、通り沿いではすでに幾つもの灯りが点き始めていた。周囲には畑や牧草地もあるが、中心部だけは下手な町より建物が密集している。街道を進む旅人も荷車も、ほとんどがそこを目指していた。
「……本当に大きいな」
黒髪の女の話を疑っていたわけではない。農夫も、休憩所の旅人も、道ですれ違った人々も、同じ場所について話していた。それでも地図の先にこれほど大きな集落が広がっているのを見ると、初めて実感が湧いた。
彼女はこの場所をよく知っていた。道だけではなく、宿を取る時間や気をつけることまで具体的に話していた。それでも、なぜアレンへここを勧めたのかは分からない。ただ反応を見て楽しみたかったのか、本当に旅人への親切だったのか、それともまだ話していない理由があるのか。今考えても答えは出なかった。
アレンは谷へ下りる街道へ視線を戻した。日没までは十分に時間があり、村の入口まではもう遠くない。知らないものを前にして、全部の答えを見つけてから進むことはできない。確かめられることを一つずつ確かめ、そのうえで次を決めればいい。
荷物の位置を直し、アレンは丘を下り始めた。夕方の風に乗って、音楽と食べ物の匂いが少しずつ強くなる。その向こうでは、これまで歩いてきたどの場所とも違う灯りが、一つ、また一つと目を覚まし始めていた。
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