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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第二章 『森を越える者』
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第二章 第二十七話 『甘い誘い』

第二章が終わりました。第三章は9月16日から始まります。

焚き火の炎が少し低くなり、アレンは足元に置いていた薪を一本加えた。乾いた木がぱちりと音を立て、橙色の火の粉が夜気へ舞い上がる。森を抜けてから続いていた街道沿いの夜は思った以上に冷えていたが、向かいに座る黒髪の女は寒さを気にした様子もなく、揺れる炎を眺めていた。


「旅は楽しい。でも、楽しいだけじゃない、か」


 先ほどアレンが答えた言葉を確かめるように、女がゆっくり繰り返した。火の光を受けた長い黒髪が、動くたびに僅かな赤みを帯びて見える。


「それでも、村を出たことは後悔してない?」


「してない。まだ始まったばかりだし」


「怪我もしたのに?」


「それとこれとは別だよ」


「真面目ね」


「普通だと思う」


「あなた、よく普通って言うのね」


 女が笑う。昼間に街道沿いの水場で出会ってから、住んでいる場所も旅の目的も、名前さえまともに答えない。そのくせアレンについては細かなことまで聞きたがるため、会話を続けるほど不公平な気がしてくる。


「じゃあ、今度は答えてくれる?」


「何を?」


「名前」


「まだ秘密」


「やっぱり」


「そんなに知りたい?」


「呼びにくいから」


「黒髪の女、でいいじゃない」


「本人に向かってそう呼ぶの?」


「私は気にしないわよ」


「こっちが気にする」


 女は少しだけ肩を揺らして笑い、それ以上名前について話すつもりはないらしく、細い枝で焚き火の端を軽くつついた。アレンも無理に聞き出すのを諦め、水筒を手に取る。


「そういえば」


 女が不意に声を上げ、それまでと同じ軽い調子のまま、まるで世間話の続きを尋ねるように首を傾げた。アレンは何を聞かれるのかと水筒を持ったまま顔を上げる。


「恋人はいるの?」


 水を飲みかけていたアレンの動きが止まった。昼間から何度も唐突な質問をされたが、その中でも一番脈絡がない。


「……何で急にその話になるの」


「旅の話をしていたでしょう?」


「全然つながってない」


「長く旅をするなら、待っている相手がいるかどうかは大事じゃない?」


「いないけど」


「そう」


 女の口元が僅かに上がった。何かを確認したような表情に見え、アレンは水筒を置きながら眉を寄せる。


「その顔、何」


「別に。いないなら、少しくらい寄り道しても怒る人はいないのねと思っただけ」


「寄り道?」


「ええ。あなた、知らない場所を見るために旅を始めたのでしょう?」


 女は腰の小さな鞄へ手を伸ばし、折り畳まれた薄い紙を取り出した。何度も開閉されたのか角は柔らかくなっており、膝の上へ広げると、街道と川、幾つかの集落が細い線で描かれていた。


「今いるのは、この辺り」


 指先が街道上の一点を示す。アレンも身を乗り出し、手持ちの地図で確認した地形と照らし合わせる。大まかな形は同じだが、女の地図には小さな水場や脇道まで書き込まれていた。


「明日も東へ進むなら、このまま本道を行けばいい。でも半日くらい歩くと古い石橋がある。その手前から南東へ分かれる道があるわ」


「そこ、僕の地図にはほとんど載ってない」


「細い道だから。でも馬車も通れるし、今の季節なら危険な場所も少ない。その先に村があるの」


「どんな村?」


 女は一度だけアレンを見て、意味ありげに微笑んだ。何かを言う前から、その表情だけで普通の宿場を説明するつもりではないことが伝わってくる。


「宿がある。温かい食事もある。大きな湯屋もあるし、夜遅くまで音楽が聞こえる店もある。旅人向けの洗濯場もあるわ」


「普通の村じゃない?」


「まだ全部言ってないもの」


 その笑い方を見た瞬間、アレンは聞き返したことを少し後悔した。女はそんな反応まで見越していたように、わざと少し間を置いてから続きを口にする。


「酒場も賭け事もあるし、夜を一人で過ごしたくない旅人のための店もある」


「……ああ」


「分かった?」


「詳しく説明しなくていい」


「まだ何も詳しく言ってないでしょう?」


「それで十分」


 女が声を抑えて笑った。アレンは火へ視線を戻し、頬が少し熱くなった気がしたが、焚き火のせいだと考えることにする。


「顔、赤いわよ」


「火の近くにいるから」


「私も同じくらい近いけれど?」


「知らない」


「可愛い反応ね」


「からかってるでしょ」


「少しだけ」


「少しじゃないと思う」


 女は否定せず、地図の南東にある小さな印を指先で示した。からかうこと自体を楽しんでいるらしいが、その村について説明するときの声には、先ほどより真面目な響きが混じっている。


「行くなら、明るいうちに宿を取った方がいいわ。お金を見せびらかさない。知らない薬は飲まない。賭け事で負けても取り返そうとしない。荷物から目を離さない。それだけ守れば、普通の旅人が怖がるような場所ではないわ」


「急に真面目」


「勧めるなら、危ないことも言っておくべきでしょう?」


「行くって決めてないけど」


「決めるのはあなたよ」


 その言葉には、からかいがなかった。アレンはもう一度地図を見る。南東へ伸びる道は翌日には別の街道へつながり、本道へ戻れるらしい。大きく遠回りするわけではなく、食料にも余裕はある。


「あなたは行ったことあるの?」


「あるわ」


 あっさり返されたことが意外で、アレンは顔を上げた。昼間からはぐらかされ続けたせいで、素直な返事の方が珍しく感じられる。


「普通に答えられるんだ」


「何でも隠すほど意地悪じゃないもの」


「名前は隠してる」


「それは特別」


「何が特別なの」


「秘密」


「結局それじゃん」


 女は楽しそうに笑い、地図を折り始めた。昼間から何度も同じようにはぐらかされているため、アレンもそれ以上追及しない。


「で、その村に僕を行かせてどうしたいの?」


「別に何も。ただ、あなたなら面白がるかと思って」


「そういう店を?」


「村を、よ」


「今、間があった」


「あったかしら?」


「絶対あった」


「気のせいよ」


 女の表情には、明らかに面白がっている色がある。アレンが呆れて息を吐くと、今度は隠しもせずに笑った。


「でも、本当に嫌なら行かなければいい。旅先で誰かに勧められたからって、その通りにする必要はないでしょう?」


「それは分かってる」


「ならいいわ」


 女は折り畳んだ地図を腰の鞄へ戻そうとした。アレンの視線がつられるように紙を追ったことに気づいたのか、その手が途中で止まる。


「見る?」


「地図を?」


「他に何があるの?」


「今の言い方だと何か言いそうだから確認しただけ」


「随分警戒されるようになったわね」


「今日一日で学んだ」


 女が地図を差し出し、アレンは受け取った。火のそばで改めて見ると、古い紙には水場や橋、宿のある集落まで細かく記されている。旅を始めたばかりのアレンにとっては、かなり役に立ちそうな地図だった。


「これ、明日の朝に返せばいい?」


「返さなくていいわ」


「え?」


「あなたにあげる」


 思わず女を見る。冗談を言っている様子はなく、彼女は何でもないことのように火を見つめている。


「使ってたんじゃないの?」


「もう道は覚えているから」


「それでも地図はあった方が便利でしょ」


「私は困らないわ」


「何で僕にくれるの」


「旅人への親切」


「今日会ったばかりなのに?」


「今日会ったばかりの相手に親切にしたら駄目?」


「駄目じゃないけど……」


「なら受け取って」


 素性も名前も分からない相手から突然渡されたものだ。警戒する理由は十分にあるが、地図そのものに妙な仕掛けがあるようには見えない。アレンが迷っていると、女は面白そうに首を傾げた。


「そんなに疑うなら捨ててもいいわよ」


「もらってすぐ捨てるのは嫌だよ」


「じゃあ持っていけば?」


「簡単に言うね」


「紙一枚でしょう?」


「そういう問題じゃない気がする」


「本当に真面目ね」


「それ今日何回目?」


「数えていたの?」


「数えてない」


「ならまだ余裕があるわね」


 昼間と同じ言葉を返され、アレンはとうとう笑ってしまった。女も満足そうに目を細める。


「もし村へ行くなら、その地図を見れば迷わないわ。食事だけして本道へ戻ってもいいし、湯に入って一晩休んでもいい。もっと楽しいことを探したっていい」


「最後はいらない」


「そう?」


「そう」


「残念」


「何が残念なの」


「あなたの困った顔、結構好きなの」


「やっぱりからかってるだけじゃん」


「全部とは言ってないでしょう?」


 アレンが返事に困ると、女はそれ以上追い込まず、火へ視線を戻した。冗談ばかり口にしているのに、ときどき言葉の一部だけ妙に真っ直ぐになる。その境目が分からないことも、この女を掴みにくく感じる理由だった。


「……明日はどっちへ行くの?」


 アレンが尋ねると、女は少し考えるように夜空を見上げた。答えを探しているというより、どこまで話すか決めているようにも見えた。


「朝になったら決める」


「決めてないの?」


「決めていても、朝になれば変わるかもしれないでしょう?」


「旅ってそんな適当でいいの?」


「目的がなければね」


「目的、ないの?」


「今夜はここで眠る。それで十分」


 答えているようで、やはり知りたい部分だけ残される。アレンが「本当に変な人」と呟くと、女は楽しそうに笑った。


「ようやく普通以外の感想が出たわね」


「褒めてないよ」


「分かってる」


 女は外套を肩へ掛け直し、荷物を枕代わりにできる位置へ移した。話を終えるつもりらしい。


「もう寝るの?」


「明日も歩くのでしょう? 夜更かしすると朝に後悔するわよ」


「子供扱いしてない?」


「してないわ。むしろ逆」


「逆?」


「大人だから誘ってるの」


「何に――」


 尋ね終える前に、女は目を閉じた。口元にはまだ小さな笑みが残っている。


「おやすみ、旅人さん」


「……名前くらい教えてから寝てよ」


「まだ秘密」


「やっぱり」


 それきり返事はなくなった。眠ったのか、会話を終わらせただけなのかは分からない。アレンはしばらく向かい側を見ていたが、やがて受け取った地図へ視線を落とした。


 南東へ伸びる細い道の先には小さな村が記され、温かい食事や湯、音楽、酒、賭け事、それから女がわざと詳しく説明しなかった店まであるという。行く理由があると言い切れるほど興味を持ったわけではないが、避けなければならない理由もなかった。


 地図を畳み、セントールたちから贈られた旅用の帯へ収める。旅立ちの日にエララから渡された金属の羽根とは別の場所を選び、紙が折れないよう位置を確かめた。


 見知らぬ相手と同じ野営地で眠る以上、完全に気を抜くつもりはない。アレンは剣と荷物を手の届く場所へ置き、弱くなった焚き火へ最後の薪を足してから外套を引き寄せた。火の向こうでは、名前さえ教えない黒髪の女が静かに目を閉じている。


 今日会ったばかりの相手だった。それなのに、明日には存在しなかったはずの道が、地図の中に一本増えていた。


     ◇


 翌朝、アレンが目を覚ましたとき、東の空は薄い金色へ変わり始めていた。消えかけた焚き火から細い煙が昇り、夜露を含んだ草が朝の光を受けている。剣へ手を伸ばしたあと、向かい側へ視線を向けると、昨夜まで女が横になっていた場所にはもう誰もいなかった。


 荷物も外套も残っていない。草には人が横になっていた跡があり、街道へ続く踏み跡も普通に残っている。どうやらアレンより先に起き、そのまま旅立っただけらしい。


「……挨拶くらいしていけばいいのに」


 文句を言っても返事はない。昨夜の女なら、起こしたら悪いと思った、と笑うかもしれないし、別れの挨拶なんて必要なの、と平然と言うかもしれない。短い時間しか一緒にいなかったのに、返ってきそうな言葉を想像できることが少し腹立たしかった。


 アレンは寝床を片づけ、焚き火へ水をかけて完全に消火した。簡単な朝食を済ませながら、昨夜もらった地図と手持ちの地図を並べる。本道を進めば予定通りの旅を続けられ、南東の道へ入っても翌日には別の街道から本道へ戻れる。食料にもまだ余裕があり、大きな危険があるという話も聞いていない。


 森へ入ってからは、予定通りに進んだことの方が少なかった。傷ついたセントールと出会い、知らない草原へ入り、罠を追い、捕らわれた者たちを見つけ、人間と戦い、仲間とはぐれた。その途中では、巨大な黒い狐と九本の尾という、今も説明できないものまで目にしている。


 それでも、旅を始めたことを後悔してはいなかった。分からないことをすべて解いてからでなければ進めないわけでもない。ラークホロウを出たときには知らなかった道を選ぶことも、旅の一部なのだと少しずつ分かり始めていた。


 名前も知らない相手から受け取った地図を頼りに道を変えることには、当然ためらいもあった。けれど、昨夜の説明と手持ちの地図を照らし合わせても方角に不自然な点はなく、一本道の奥へ誘い込まれるような形でもない。だからこそ、最後は誰かの言葉ではなく、目で確かめた情報をもとに判断することにした。


 地図を畳んで旅用の帯へ戻し、荷物を背負う。肩の傷は歩くぶんには問題なく、身体にも昨日までの疲労が僅かに残る程度だった。準備を終えたアレンは東へ続く街道を歩き始め、朝の静かな道を昨夜教えられた目印を確かめながら進んでいく。


 昼が近づく頃、前方に古い石橋が見えてきた。小さな川を跨ぐ灰色の橋の手前には、長年使われて角の丸くなった道標が立っている。正面には予定していた広い街道が続き、その右側から、草原を斜めに横切る細い道が南東へ伸びていた。


 それは昨夜、地図で何度も見た分岐だった。アレンは道標の前で足を止め、二つの道を見比べた。真っ直ぐ進めば予定通りで、右へ曲がれば名前も知らない女が教えた村へ向かう。どちらを選ぶか決めるのはアレンだった。


 その事実を確かめるように、旅用の帯の上から地図へ触れる。ラークホロウを出たのは、決められた道だけを歩くためではない。まだ知らない土地を見て、知らない人と出会い、世界がどれほど広いのか確かめるためだった。


「……行ってみるか」


 口にすると、答えは思っていたより簡単だった。アレンは本道から右へ向きを変え、南東へ伸びる細い道へ一歩を踏み出した。背後には越えてきた森があり、前にはまだ名前も知らない場所がある。腰の旅用の帯には、セントールたちから贈られた道具と、名前を教えなかった黒髪の女から渡された古い地図が収まっていた。


 地図の先に何が待っているのかは分からない。それでも、ラークホロウを出たときより、世界には選べる道がずっと多いことだけは分かるようになっていた。アレンは振り返らず、自ら選んだ新しい道の先へ歩いていった。

第二章「森を越える者」を最後まで読んでくださり、ありがとうございます!


第二章が完結し、アレンの物語はいよいよ第二章へ進みます。


第二章で一番好きな場面や印象に残ったシーンがあれば、ぜひ教えてください。


また「面白かった」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、ブックマークと★5評価をいただけると励みになります。


ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。


これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします。


それでは、第三章でお会いしましょう!

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