第二章 第二十六話 『黒髪の女』
古い街道へ戻ってから一刻ほど歩いた頃、アレンは道端の低い石標の前で足を止めた。東へ続く道は緩やかな丘の向こうへ消え、人通りもほとんどない。右肩の痛みは歩けないほどではなかったが、昨日までの疲労が完全に抜けたわけではなく、日が傾く前に休める場所を見つけた方がよさそうだった。
石標には二つの地名と距離が刻まれていたものの、どちらも地図には載っていなかった。近い方でも今日中に着くのは難しそうで、少し先に水場か休憩地がなければ、今夜も街道脇で野営することになる。
再び歩き始めてしばらくすると、道の右側に古い石造りの水場が見えてきた。低い壁の中央から細い水が流れ、横には旅人が腰掛けられる長い石が置かれている。馬も荷車もなかったが、一人だけ先客がいた。
黒い髪の女だった。腰を越えるほど長い髪は日の傾き始めた光を受けて柔らかな艶を浮かべ、黒と深い赤を基調にした旅装も、街道脇の古い水場には少し似つかわしくないほど整っている。
何より目を引いたのは、その容姿だった。整っているという言葉だけでは足りないほど顔立ちが美しく、暗い瞳も長い睫毛も、笑っていない口元さえ不自然なほど完成されて見える。それでも冷たい印象はなく、アレンが近づいたことへ気づくと、女は自然に顔を上げた。
「こんにちは、旅人さん」
先に声を掛けられ、アレンは一瞬だけ返事が遅れた。見惚れたことを悟られた気がして少し気まずくなりながらも、水場から距離を取った位置で足を止める。
「……こんにちは」
女の視線が荷物から腰の剣、右腕の包帯へ順番に移った。露骨に探るような目ではなかったが、短い時間で必要なものを全部見たような気がして、アレンは無意識に姿勢を正した。
「ずいぶん疲れてるみたいね。水を飲みに来たんでしょう?」
「そのつもり。でも、先に使ってるなら待つ」
「水場を一人占めする趣味はないわ」
女は少し笑い、場所を空けるように身体をずらした。アレンは礼を言って水へ近づき、流れと匂いを確かめてから口へ運ぶ。
「慎重なのね」
「最近、慎重にした方がいいことが多かったから」
「それは大変」
女は驚いた様子もなく、アレンが革袋へ水を補充するのを眺めていた。女は一人で、荷物も少なく、近くに馬もない。人通りの少ない街道をどうやって来たのか、アレンには分からなかった。
「一人?」
「あなたも一人でしょう?」
「今は」
「じゃあ、お互い同じね」
同じと言われても、アレンにはあまりそう思えなかった。自分は荷物も剣も傷も抱えているのに、女の服や靴には長く歩いたような汚れがほとんどない。
「この辺の人?」
「どう見える?」
「質問に質問で返された」
「答えを考える方が楽しいでしょう?」
女は悪びれず笑った。声も話し方も穏やかだが、相手へ答えを渡しすぎない癖があるように感じられ、アレンはそれ以上追及しなかった。
◇
水場で少し休んだあと、アレンは右肩を軽く動かした。歩ける状態ではあるが、ここで無理をして次の町まで進む理由はない。
別れの挨拶をしようとしたところで、女の方が先に口を開いた。アレンは立ち上がりかけた身体を止め、相手の言葉を待つ。
「この先へ行くの?」
「東へ。次に泊まれる場所があるところまで」
「今日中には着かないと思うわ。その肩ならなおさらね」
「肩まで分かる?」
「右側だけ少し動かし方が固いもの。剣を下げてる人なら、もっと自然に腕が動くでしょう?」
言われてみれば筋は通っていた。よく見ているだけなのだと分かり、アレンは少しだけ警戒を解いた。
「この先、野営できる場所はある?」
「半刻くらい先に大きな楡の木があるわ。その近くなら地面も乾いてる。水はここで持っていった方がいいけれど」
「詳しいんだな」
「通ったことがあるから」
女はそれ以上説明しなかった。アレンも地図へ水場の位置だけを書き足し、聞いた情報はまだ確定ではないものとして覚えておく。
「教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
アレンが荷袋を背負うと、女も石から立ち上がった。長い黒髪が背中を滑り、その動作には旅の疲れを感じさせる重さがほとんどない。
「あなた、名前は?」
不意に尋ねられ、アレンは少し迷った。会ったばかりの人物へ何でも話す必要はないが、名前だけなら隠す理由もなかった。
「アレン」
「アレン、ね」
女は一度だけ名前を確かめるように繰り返した。懐かしむようでも驚くようでもなく、ただ響きを覚えたような自然な言い方だった。
「あなたは?」
「まだ秘密」
「名前くらい普通に教えるだろ」
「普通じゃない旅人もいるのよ」
女は楽しそうに笑った。アレンが呆れた顔をすると、さらに面白そうに目を細める。
「そのうち教えるかもしれないわ」
「次に会う前提なんだ」
「同じ道を歩いていたら、会うこともあるでしょう?」
◇
予想に反して、黒髪の女も東へ歩き始めた。アレンの少し後ろを一定の距離で進んでいたため、何度か振り返ってしまう。
「東へ行くの?」
「今のところは」
「目的地は?」
「それも秘密?」
「真似しないで」
女が笑い、アレンも小さく息を吐いた。警戒すべき相手かどうか判断できないままなのに、会話だけは妙に続けやすかった。
街道は緩やかな上りへ変わり、左右の草地に長い影が伸び始めていた。アレンは歩きながら轍や靴跡を確認し、女も急かすことなく同じ速度で付いてくる。
「ずっとそうやって足元を見るの?」
「必要なときは」
「何かあったのね」
「最近、危ない道を通った」
「だから傷があるの?」
「それも少し」
女は意味ありげに繰り返したが、それ以上踏み込まなかった。その距離の取り方が意外で、アレンは横目で彼女を見る。
旅の途中で偶然出会った人物としては、あまりにも目立つ女だった。黒い髪も暗い瞳も珍しいものではないのに、彼女自身がそこにいるだけで周囲の景色まで薄く見えるほど印象が強い。
「そんなに見られると、少し照れるわ」
「見てない」
「今、目が合ったでしょう?」
「周りを確認してただけ」
「じゃあ私も周りの一部なのね」
否定しても相手を楽しませるだけだと気づき、アレンは黙って前を向いた。女は満足そうに笑い、それ以上追及しなかった。
◇
半刻ほど進むと、女の言った通り街道脇に大きな楡の木が見えてきた。根元には古い焚き火跡があり、少し離れた場所には平らな地面もあるため、一晩休むには十分だった。
アレンは周囲を確認してから荷を下ろした。右肩への負担が消れると、疲労が一気に表へ出てくる。
「本当にここだった」
「疑ってたの?」
「会ったばかりの人の話を全部信じる方がおかしいだろ」
「それは正しいわ」
黒髪の女は気を悪くするどころか、むしろ嬉しそうに答えた。疑われることへ慣れているというより、その判断を評価しているように見える。
「あなた、思ったよりちゃんとしてるのね」
「思ったよりって何だよ」
「もっと無茶をする人かと思った」
「会って一刻も経ってないのに?」
「第一印象ってあるでしょう?」
アレンは焚き火を起こす準備をしながら首を傾げた。自分のどこを見てそう思ったのか聞きたかったが、女は楡の幹へ背を預ける。
「今夜、ここで休むの?」
「そのつもり。暗くなってから次を探したくない」
「賢い選択ね」
「あなたは?」
女は西へ傾いた空を一度見上げ、少し考えるような間を置いてからアレンを見る。その表情からは、本当に予定がないのか、何かを隠しているのかまでは読み取れなかった。
「どうしようかしら」
「決めてなかったの?」
「予定を決めすぎると退屈でしょう?」
「俺とは合わなそうだな」
「そう? 私は案外、合うと思うけど」
さらりと言われ、アレンは返事に詰まった。女はその反応を見て小さく笑い、それ以上からかうことはしなかった。
火が安定すると、女は少し離れた場所へ腰を下ろした。何者なのか、どこから来たのか、なぜ一人でこの街道にいるのかは何一つ分からないが、今のところ敵意はなく、教えられた野営地も実際に使える場所だった。
「ねえ、アレン」
「何?」
「旅って、楽しい?」
思っていなかった質問に、アレンはすぐ答えられなかった。ラークホロウを出てからまだ長い時間が経ったわけではないのに、怪我も、罠も、戦いも、知らない誰かとの出会いもあった。
「楽しいだけじゃない」
「でも、やめたいわけでもない?」
「今は」
「そう」
女はそれだけ答え、焚き火へ視線を落とした。いつものからかうような笑みは少し薄れ、何かを考えているようにも見えたが、アレンにはその意味までは分からない。
日が完全に沈む前、街道を通る旅人の姿はもうなくなっていた。アレンは目の前の女について、まだ名前さえ知らなかった。分かっているのは、長い黒髪と暗い瞳を持ち、一人で旅をしているらしいこと、妙に人を見るのが上手く、答えを簡単には渡さないことだけだった。
明日になれば別々の道へ行くのか、それとも同じ街道をもう少し進むことになるのかも分からない。アレンは結論を急がず、旅の途中で出会った一人の奇妙な女として、今夜はその存在を覚えておくことにした。
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