第二章 第二十三話 帰ってきた蹄音
森の出口へ向かう道は、来たときより長く感じられた。追跡者の笛はもう聞こえず、白い布と三つの石も一定の間隔で残っていたが、救い出した三人のケンタウロスは長い拘束と逃走で脚を消耗し、人間の男と獣人の女性も何度か息を整えるために歩調を落とした。ヴァロは急がせず、森の入口までの距離を何度も確かめながら、全員が同じ速度で進める範囲を守った。
アレンも隊列の中へ戻っていた。右肩には斜面を滑り落ちたときの痛みが残り、右腕の袖には剣で浅く裂かれた跡がある。ネアが巻いた布に新しい血が滲んでいないことを確かめながら歩き、後方の音へ意識を向けたが、人の足音が追いついてくる気配はなかった。
「もうすぐ外縁だ」
ヴァロが前方を見ながら告げた。木々の間から差す光は明らかに強くなり、地面を覆っていた深い影も少しずつ薄くなっている。
「走れる?」
ロアが救出された三人へ尋ねると、そのうち一人が首を横へ振った。別の一人は試すように前脚へ力を入れたが、すぐ痛みに顔を歪める。
「走らなくていい。ここまで来たんだから、最後に転ぶな」
ロアはそう言って歩調を合わせた。森へ入る前の彼なら、帰還を急ぐあまりもっと強い言葉を使っていたかもしれないとアレンは思ったが、口には出さなかった。
やがてヴァロが低い枝を押し分け、その向こうに明るい草地が見えた。森と草原の境界には、出発時に残した白い布がまだ結ばれている。誰かが切った形跡もなく、その先には開けた空と低い草が広がっていた。
それを見た瞬間、救出された三人の蹄が僅かに速くなった。しかしネアがすぐ横へ付き、無理に走らせないよう声を掛ける。
「ゆっくり。外へ出るまでが帰り道だから」
誰も反論しなかった。最後の木陰を抜けたとき、アレンは森の湿った匂いの代わりに乾いた草と風の匂いを感じた。
◇
草原へ出てから間もなく、遠くで蹄の音が聞こえた。最初は一頭か二頭に思えたが、すぐ複数へ増え、北寄りの緩い丘の向こうからケンタウロスたちが姿を現した。
先頭にいたのはガレムだった。その後ろには数人の見張りと治療を担当する者たちが続き、さらに少し遅れてセイルの姿も見えた。右前脚はまだ完全には治っておらず、歩幅も普段より狭い。それでも彼は制止されながら丘の手前まで出てきていた。
「三人いる!」
誰かの声が上がり、その言葉をきっかけに迎えに来た者たちの空気が一変した。森へ入った五人が帰ってきたことより、その中央にいる三人の姿へ視線が集中する。
ガレムは走り出しそうになる者たちを片手で止め、弱った三人を囲まないよう周囲へ視線を走らせた。喜びに任せて一斉に近づけば、立つだけで精一杯の者を転ばせかねなかった。
「近づきすぎるな! まず治療だ!」
迎える側もすぐ意味を理解し、道を空けた。喜びを抑えるためではなく、今はまず無事に治療場所まで連れていくことが最優先だった。
三人のうち一人が、集まったケンタウロスの中に知った顔を見つけたらしい。何かを言おうとして声が出ず、その場で脚を止めた。
向こう側から年配の女性が一歩前へ出た。駆け寄らず、両手を胸の前で握ったまま、震える声でその名を呼ぶ。
救出されたケンタウロスはそこで初めて大きく息を吐き、肩を落とした。再会を喜ぶ言葉より先に、立っているために使っていた力が抜けたように見え、ネアと近くの治療役が左右から身体を支える。
残る二人にも同じように知人や家族らしい者が近づいたが、ガレムの指示に従って一定の距離を保った。触れたい気持ちを抑えながら、本人が自分から手を伸ばすまで待つ。
アレンはその様子を少し離れた場所から見た。誰かを救ったという実感より、三人が本当に戻る場所へ戻ってきたことの方が強く胸に残った。
「アレン」
呼ばれて振り向くと、セイルが少し離れたところに立っていた。右前脚を庇う姿勢は変わらなかったが、その表情には森へ入る前より明らかな安堵があった。
「帰ってきたな」
「うん」
「全員?」
アレンは森から出てきた者たちを確認した。ロア、ヴァロ、ネア、ミラ。救出した三人のケンタウロス、人間の男、獣人の女性もいる。
「全員」
セイルはそれを聞いて、ようやく大きく息を吐いた。張りつめていた肩から力が抜け、その顔に小さな安堵が広がる。
「よかった」
短い言葉だったが、アレンにもそれ以上何かを足す必要はないように感じられた。森へ入った者も、森から連れ戻した者も、今は全員ここに立っていた。
◇
治療のため、救出された五人は居住地の中央へ直接連れていかず、外縁近くの広い治療場所へ移された。三人のケンタウロスには脚を自由に伸ばせる空間が用意され、人間の男と獣人の女性にも別々の寝台と水が与えられた。
森へ入った五人もそこで簡単な確認を受けた。アレンの右肩は打撲、腕の傷は浅く、今すぐ縫う必要はないと判断されたが、ネアから今日は剣を振るなと念を押された。
「振る予定はないよ」
「森に入る前にも似たようなこと言ってなかった?」
「言ってないと思う」
「じゃあ今から言ったことにして覚えて」
アレンが返事に困っていると、少し離れたところでロアが笑った。森の中ではほとんど見なかった表情だった。
一方、ガレムとミラは救出された者たちへの聞き取りを急がなかった。水と食事、傷の確認を先に済ませ、誰が何を話せる状態なのかを見極めてからにする。
「今日のうちに全部聞く必要はない」
ガレムは集まった者たちを見回し、急いで事情を聞こうとする者がいないことを確かめた。疲労と傷を抱えた者へ、帰還した直後から説明を求めるつもりはなかった。
「帰ってきた。それが先だ」
その判断に、三人のケンタウロスの周囲にいた者たちも頷いた。聞きたいことを抱えていても、今は水と休息を優先し、それぞれが少しずつ距離を取った。
人間の男と獣人の女性についても、捕縛者との関係を疑って拘束するような動きはなかった。二人が同じ場所で縛られていたこと、逃走中にもこちらへ敵対する行動を取らなかったことだけを確認し、詳しい事情は体力が戻ってから聞くことになった。
アレンは水を受け取り、ようやく腰を下ろした。身体を止めた途端、右肩や脚の疲労が一度に戻ってきたところへ、ロアがゆっくり近づいてくる。森の中で最後尾を守っていたときとは違い、今は武器へ手を掛けていなかった。
「森で離れたとき、本当に戻ってこないかと思った」
「戻るって言っただろ」
「お前、言ったこと守るんだな」
「どういう意味だよ」
ロアは答えず、少しだけ口元を上げた。最初に会ったときの疑いは完全に消えたとは言えなくても、人間だからという理由だけで距離を置いていた頃とは明らかに違っていた。
「狐の話、あとでちゃんと聞く」
「俺も何だったのか知りたい」
「九本は普通じゃない」
「それは見れば分かる」
二人の会話を聞いていたミラが、記録用の木札を手に近づいてきた。しかしすぐ記録を始めることはせず、アレンの顔色と傷の具合を一度確かめる。
「だから今は書かない。アレンが落ち着いてから、見たことだけ順番に聞く」
「助かる」
「推測と事実を分けるんでしょ?」
その言葉にアレンは少し笑った。森へ入る前から何度も繰り返してきたやり方が、九本の尾を持つ黒い狐にまで必要になるとは思っていなかった。
◇
夕方が近づく頃、居住地の外からもう一度蹄音が聞こえた。今度は警戒のためではなく、森側の見張りを交代する者たちが戻ってきた音だった。
追跡者が草原まで出てきた形跡はなく、閉鎖した道や森の入口にも新しい罠は見つかっていない。それでもガレムは警戒を解かず、今夜は外縁の見張りを増やすことを決めた。
救出された三人の周囲には、まだ家族や知人たちが残っていた。大声で喜ぶ者はいなかったが、誰かが水を渡し、誰かが毛布を運び、本人が眠れば静かに距離を取る。その一つ一つが、十日近く続いた不在を少しずつ埋めているように見えた。
セイルも治療場所の端からその様子を見ていた。自分と同じように脚へ傷を負った三人が戻ってきたことに安心している一方、何か考えているような顔でもあった。
「セイル」
アレンが呼ぶと、彼は治療場所の方から顔を向けた。右前脚へ無理な力を掛けないよう身体の向きを少しずつ変え、それからアレンを見る。
「何?」
「脚、まだ痛い?」
「痛い。でも前より歩ける」
「なら無理するなよ」
「アレンに言われたくない」
即座に返され、アレンは言葉に詰まった。近くにいたロアが今度こそ声を出して笑い、セイルも小さく笑う。
その笑い声の向こうで、救出された一人のケンタウロスが家族らしい者へ身体を寄せた。別の一人はまだ誰にも触れさせず、それでも戻ってきた者たちの声を聞きながら目を閉じている。
戻り方は同じではなかった。それでも三人とも森の中にはいない。
アレンは草原の向こうに立つ深い森を見た。あの中には、まだ捕縛者たちの目的も、彼らが誰の指示で動いていたのかも残されている。九本の尾を持つ黒い狐についても、分からないことばかりだった。
それでも今は、解けていない謎を追うより先に確かめられるものがあった。森へ入った者たちは全員戻り、奪われていた三人の蹄も再びこの草原の上にある。
日が傾き始めた風の中で、いくつもの蹄音が居住地の道を行き交っていた。十日近く欠けていた音がそこへ戻り、アレンはその響きを聞きながら、ようやく今回の帰還が終わったのだと静かに息を吐いた。
ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!




