第二章 第二十二話 森の底
岩壁の隙間から前方を覗いたまま、アレンはすぐには動かなかった。白い布の目印の先では、ロアとヴァロ、ネア、ミラ、それに救い出した三人のケンタウロスと人間の男、獣人の女性が一か所に集まり、その周囲を五人ほどの人間が囲んでいる。剣、短弓、縄、短槍を持った者たちは帰路を塞ぐように散り、笛の短い音で互いの位置を確かめていた。
アレンは正面から飛び出さず、岩壁の細い迂回路と敵の配置を見比べた。射手は中央へ射線を通し、縄を持つ者は弱ったケンタウロスの脚を狙える位置にいる。ここで必要なのは敵を倒し切ることではなく、囲みを一か所だけ崩し、全員を岩壁側へ通すことだった。
背後には黒い狐が立っていた。九本の尾を静かに下ろしたまま、アレンを急かすこともなく前方へ耳を向けている。
「ここで待ってろ、って言っても分からないよな」
アレンが小さく呟いて右側の低木へ回ると、狐は追ってこなかった。その場に残ったことを確認し、アレンは岩壁の影を使って敵の右側へ回り込んだ。
◇
前方ではロアの低い声が響いており、アレンは姿を隠したまま足を止めた。言葉を聞き取れる距離まで近づいている以上、ここからは不用意な物音も出せなかった。
「もう一度言う。こいつらを渡す気はない」
「お前らに選ぶ権利はない」
顔の下半分を布で隠した男が答え、周囲の仲間へ視線を送った。その仕草だけでも、まだ交渉を続ける気が薄いことは分かった。
「逃げた三人だけならまだ話は違った。余計なものまで持ち出したから面倒になった」
獣人の女性が僅かに身を縮め、ミラがすぐ捕虜たちの前へ立った。疲れていても、彼女は誰か一人を敵の前へ出すつもりはなかった。
「何のために捕まえてた」
「聞く必要はない」
男が右手を上げた瞬間、射手と縄を持つ者が同時に動いた。アレンはその合図を待っていたように左手を開き、弓の前へ垂れた枝へ短い風を送る。枝葉が揺れて視界を塞ぎ、放たれた矢が大きく外れたところで、アレンは岩壁の脇から姿を現した。
「アレン!」
ロアの声に驚きと安堵が混じった。アレンは敵の右側を取り、岩壁へ続く細い道を背後に残した。
「右を崩す! 抜けられる道がある!」
ヴァロは一瞬だけアレンの後ろを確認し、すぐ意図を理解した。岩壁の奥まで見えなくても、アレンがそこから現れた以上、抜け道があるという言葉を疑う理由はなかった。
「ネア、ミラ! 負傷者を右へ寄せろ! ロア、後ろを守れ!」
救出した五人が動き始めると、縄を持つ男がアレンへ輪を投げた。アレンは剣先で軌道を逸らし、落ちた縄を踏んで引き戻しを止めると、近づいてきた男の手首へ柄頭を当てて縄を落とさせた。
続いて剣士が踏み込み、最初の斬撃を受け流したが、二撃目は速かった。斜面を滑り落ちたときから痛む右肩では完全に弾けず、刃が袖と皮膚を浅く掠めて薄く血が滲む。
「無理するな!」
「分かってる!」
ヴァロの声を受け、アレンは敵を押し倒そうとはせず半歩退いた。ネアとミラが三人のケンタウロスを支え、人間の男と獣人の女性を岩壁側へ通していく。
敵は剣士がアレンを止める間に、縄でロアの脚を狙い、短槍の男がネアを中央から引き離そうとしていた。アレンは一人だけを追わず、全体を見て右側の地面へ掌を向ける。落ち葉と乾いた土だけを巻き上げる程度の風を狭い範囲へ走らせると、敵の視界が一瞬崩れ、その隙にネアたちが岩壁側へ抜け、救出した五人も全員無事に通り切った。
◇
残ったアレン、ロア、ヴァロも順番に下がり始めた。射手が再び弓を構えたが、アレンは疲労の残る左腕で無理に風を使わず、近くの木を盾にして射線から外れる。
敵の一人が焦ったように前へ出ると、それまで保たれていた包囲の間隔が僅かに乱れた。アレンはその変化を見逃さず、自分たちが退くための隙だけを探した。
「逃がすな!」
その声に合わせて二人が踏み込んだ。アレンは足元の細い枝を蹴り上げて剣士の歩幅を乱し、その隙にロアが馬体を横へ入れて押し返した。
「行け!」
ロアに促され、アレンは岩壁の隙間へ入り、すぐ振り返って二人が続くのを確認した。ヴァロは最後まで敵を見ながら後退し、接近してきた剣士を前脚の踏み込みで牽制してから身体を斜めにし、狭い岩場へ滑り込む。
岩壁の間はケンタウロスには狭かったが、縄や槍を持った追跡者にも動きにくい場所だった。そこで初めて明確な距離が生まれ、アレンたちは振り返って戦い直すことなく、その僅かな余裕を逃走へ使った。
岩壁を抜けた先ではネアたちが待っていた。全員が揃ったことを確認すると、ヴァロは立ち止まらず前を指した。
「ここを離れる。追ってくる前に進むぞ」
アレンは一度だけ黒い狐を探した。先ほどまでいた場所に姿はなく、九本の尾も見えなかったため、少し胸がざわついた。
それでも探しに戻る理由はなかった。狐が自分を仲間のもとへ導いたことだけは事実であり、それ以上を確かめるのは森を出てからでも遅くない。
◇
一行は岩壁の裏側からさらに低い斜面へ下った。白い布と三つの石はその先にも続き、帰路そのものは失われていなかった。
追跡者の足音はしばらく後方に残っていたが、やがて笛が短く三度鳴ると近づいていた気配が止まった。さらに進んでも追ってくる音は戻らず、少なくとも今の追跡は打ち切られたらしい。
森の底に近い平らな場所へ出たところで、ヴァロは初めて足を緩めた。大きく盛り上がった根の間を細い水が幾筋も流れ、救出した三人のケンタウロスは疲労で脚を震わせながらも立っている。人間の男と獣人の女性にも、新しい大きな怪我はなかった。
「アレン、お前は?」
「右肩が少し痛い。袖は切れたけど、深くはない」
ネアが傷を確認すると、刃は浅く皮膚を掠めただけだった。布を当てれば歩ける程度だったため、ここでは最低限の手当だけに留める。
「後でちゃんと見る。今は止まらない」
「分かった」
少し離れたところからロアがアレンを見ていたが、先に口を開いたのはミラだった。彼女も息を整えながら、アレンがどこから戻ってきたのか気になっていたらしい。
「どうやって戻ったの?」
アレンは一瞬だけ森の奥へ視線を向け、もう見えなくなった黒い巨体を思い出した。説明しても簡単には信じてもらえそうにないが、隠す理由もなかった。
「黒い狐がいた」
「狐?」
「すごく大きい。尾が九本あった」
ロアとミラの表情が同時に変わり、ヴァロも黙ってアレンを見た。三人ともすぐ言葉を返さなかったことで、その姿が普通ではないことだけは伝わったらしい。
「それで?」
「道を示された。たぶん」
自分で言っても奇妙だったが、危険な足跡を避け、浅瀬を渡り、白い布と三つの石へ戻されたことを考えれば、他にうまい説明はなかった。アレン自身もまだ狐の意図を断定するつもりはなかった。
ヴァロは短く考えたあと、前方へ視線を戻した。今ここで問いを重ねるより、救出した者たちを森の外へ連れ出す方が優先だと判断したようだった。
「話は森を出てからだ。今は全員で帰る」
誰も反対しなかった。アレンも頷き、今度こそ仲間たちの間へ戻った。
捕縛の理由も、その背後に誰がいるのかも分からないままだった。それでも森の中で続いていた直接の追跡はひとまず止まり、救い出した五人とアレンは同じ隊列へ戻っている。
前方にはまだ深い木々が続いていたが、白い布と三つの石は確かに帰る方向を示していた。ヴァロを先頭に一行が再び歩き始めると、アレンも剣を握ったままその後へ続き、今度は誰一人欠けていないことを確かめながら森の出口を目指した。
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