第二章 第二十一話 道を示す獣
黒い狐は、森の奥から遠ざかった気配をしばらく見送っていた。九本の尾はすでに静かに下り、先ほどまでの圧迫感が嘘のように落ち着いているが、アレンは剣を鞘へ戻さず、狐と木々の奥を交互に確かめた。
「……俺は行くからな」
誰に断る必要があるのかと自分でも思ったが、黒い狐は返事をしなかった。アレンが流れ沿いへ身体を向けると、狐は数歩進んだところで足を止め、流れではなく右手の木立へ顔を向けて振り返った。
「そっちへ来いってことか?」
アレンはすぐには動かなかった。ヴァロたちとは流れから離れず、西寄りへ進むと決めており、正体の分からない獣だけを信じて道を変えるつもりはなかった。
そこで流れの先を確認すると、曲がり角の泥に靴跡らしい窪みが残っていた。膝を折って見ると、一つには踵の外側が欠けたような形があり、セイルの事件地点から森へ続いていた足跡の特徴とよく似ている。
同じ人物だと断定はできない。だが、進もうとしていた方向へ人間の痕跡が続き、黒い狐はそこから外れる道を選んでいる。
「……これを知ってたのか?」
狐は木々の手前で待っていた。アレンは流れの位置を覚え、低い枝へ白い布を結び、その下へ三つの石を置いてから木立へ向かった。
「少しだけだ。変な場所へ行くなら戻るからな」
黒い狐は静かに歩き始めた。アレンも距離を取りながら後を追い、九本の尾を見失わないよう進んだ。
◇
流れから離れると、地面には土より細かな石が増え、森の起伏も少しずつ大きくなった。黒い狐は巨大な身体に似合わずほとんど音を立てず、低い枝さえ折らずに身体をずらして抜けていく。
アレンは狐だけを見ず、太陽の位置や斜面の傾き、目立つ岩を確かめながら進んだ。自分が流れを離れた以上、狐を見失っても戻れるようにしておく必要があった。
やがて前方に二本の倒木が重なって現れた。人間なら間を抜けられそうだったが、黒い狐はそこへ近づかず、手前から左へ曲がる。
アレンが倒木の隙間を確認すると、樹皮には新しい擦れ跡があり、石の間には薄い泥が残っていた。誰かが最近通った可能性はあるものの、正体までは分からないため、アレンは追跡せず狐の選んだ道へ戻る。
「本当に待ってるよな、お前」
黒い狐は十歩ほど先で立ち止まり、アレンが近づくと再び歩き始めた。偶然同じ方向へ進んでいるだけとは、もう考えにくくなっていた。
それでもアレンは、狐の行動そのものを理由にはしなかった。流れ沿いには人間の足跡があり、この迂回路には新しい靴跡が見えず、後方から笛の音も聞こえてこない。その三つの事実だけを、進む根拠にした。
◇
しばらく下ると、水の音が聞こえ始めた。木々の向こうには先ほどの流れより広い浅瀬があり、灰色の岩の間を透明な水が何本にも分かれて流れている。
黒い狐は斜面の途中で止まり、浅瀬の向こう側を見た。アレンも木の陰から周囲を確認すると、右端の泥に古い靴跡が一つあり、下へ続く石には蹄が擦れたような新しい傷が残っている。
ヴァロたちが通った証拠とは言い切れない。それでも、ケンタウロスの一団が近くを通った可能性は十分にあった。
「こっちなのか?」
黒い狐は浅瀬へ下り、振り返ってアレンを待った。水は浅く、狐が踏んだ石を選べば滑りにくかったため、アレンも同じ場所から慎重に渡る。
向こう岸へ上がった直後、アレンは低い枝に結ばれた白い布を見つけた。その根元には三つの石が揃っており、結び目の向きもヴァロたちが使っていたものと同じだった。
「……戻れた」
胸の奥に張りつめていたものが少しだけ緩んだ。完全に合流したわけではないが、自分が仲間たちの帰路へ戻れた可能性は高い。
アレンは狐を見ると、小さく息を吐いた。ここまで導かれた流れを思い返すほど、偶然だと片づけるのは難しくなっていた。
「お前、これを知ってたのか?」
黒い狐は答えなかったが、アレンが白い布の続く方向へ身体を向けると、同じ方向へ歩き始めた。危険な足跡から離れ、最後には仲間の目印へ戻された以上、ここまでを偶然だけで説明するのは難しかった。
「……ありがとう、でいいのか?」
狐の耳が僅かに動いた。アレンはそれ以上の答えを求めず、白い布と三つの石を辿って進んだ。
◇
目印へ戻ってからは進路を確認しやすくなった。一定の間隔で白い布と石が残され、地面には新しい蹄の擦れ跡も見つかるが、救出した者たちが弱っている以上、ヴァロたちとの距離が近いとは限らない。
黒い狐はアレンの少し前を歩き、分岐へ来ると迷わず進路を選んだ。最初の分岐では左へ進み、その先で白い布が見つかり、次の分岐でも右の斜面を下ると三つの石が残されていた。
三度目の分岐で、アレンは一度狐を止めた。右側には薄い蹄の擦れ跡があり、一見すればそちらを選びたくなるが、低木の下には人間の靴跡らしい浅い窪みがある。
左側へ数歩進むと、木の裏に白い布と三つの石が見つかった。アレンは右へ行かなかったことに安堵しながら、黒い狐へ視線を戻す。
「……本当に道を見てるのか?」
九本の尾が静かに揺れた。なぜ自分を助けるのかは分からないが、黒い狐が危険を避け、進むべき方向を示しているという事実だけは積み重なっていた。
◇
さらに進んだところで、黒い狐が突然速度を落とした。アレンも足を止めると、前方から石や根を踏む重い音と、小さな金属音が聞こえてくる。
白い布はその方向へ続いていた。ヴァロたちが先にいる可能性は高いが、聞こえる音が仲間だけのものとは限らない。
数秒後、低く短い声と複数の蹄音が重なった。アレンの胸に期待が浮かんだ直後、追跡者たちが使っていたものとよく似た鋭い笛が一度だけ響く。
アレンは剣を抜き、木の陰へ身体を寄せた。正面から出れば早く合流できるかもしれないが、敵が混じっていれば自分の位置を晒すことになる。
黒い狐は前へ進まず、少し右へ顔を向けた。そこには岩壁の下を抜ける細い隙間があり、人間なら身をかがめて通れそうだが、低木に隠されて正面からはほとんど見えない。
アレンは正面と隙間を見比べた。狐の意図を言葉で確かめることはできないが、姿を隠したまま前方を確認できるなら、自分で考えてもそちらの方が安全だった。
「……分かった。まず見る」
アレンは剣を身体へ寄せ、岩壁の隙間へ慎重に入った。数歩進んで低木の陰から前を覗くと、木々の向こうで白い布が揺れ、そのさらに先で複数の影が動いている。
まだ誰の姿かまでは見えなかった。だが、蹄音と人間の足音が同じ場所で重なり、笛が再び森へ響いたことで、ヴァロたちの帰路の先で何かが起きていることだけは確かだった。
アレンは飛び出さず、呼吸を整えた。振り返ると、岩壁の入口には黒い狐が立ち、九本の尾を静かに揺らしながら、これ以上先へ進むことなくこちらを見ている。
正体も目的も分からないままだった。それでも、森で迷っていた自分を仲間たちの道へ戻し、危険を避ける進路まで示したことだけは、もう疑いようがなかった。
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