第二章 第二十話 九つの尾
流れを挟んで向かい合ったまま、アレンも黒い狐もすぐには動かなかった。浅い水が岩の隙間を縫って流れ、その音だけが二者のあいだに残された沈黙を埋めている。森の鳥や小動物は依然として姿を見せず、枝葉を揺らす風さえ先ほどより弱く感じられた。
アレンは剣を握ったまま、黒い狐の全身を改めて観察した。肩は自分の胸より高く、細長い四肢にも大型の狼とは違うしなやかさがあり、黒い毛並みは暗がりの中でも輪郭を失わない。身体の後方はいまだ低木と太い幹に隠れているため、最初に見たときと同じく全体までは確認できなかった。
「……本当に狐なのか?」
問い掛けても、言葉が返ってくることはなかった。それでも黒い狐は耳を僅かに動かし、アレンから視線を外すことなく立ち続けている。
普通の獣を相手にしている感覚とは違った。ラークホロウの近くでも狐や狼を見たことはあるが、野生の獣には必ず距離を測るような警戒があり、人間へ近づくにしても逃げるにしても、身体のどこかへ緊張が現れる。目の前の黒い狐には、それがほとんどなかった。アレンを恐れていないというだけなら巨大な身体を考えれば不思議ではないが、獲物として見ているような殺気も、縄張りへ入り込まれた獣の苛立ちも感じられない。
むしろ観察されているのはこちらではないかと、アレンは次第に思い始めた。ただ静かに見られているだけなのに、黒い狐の視線には自分の反応を待っているような落ち着きがあり、意味を持たない獣の目だと簡単に片づけることができない。
「俺を食べるつもりじゃないなら、助かるんだけど」
冗談めかして言ってみたものの、自分でも声が少し硬いことが分かった。黒い狐は口を開くことも牙を見せることもせず、ただ片方の耳をもう一度だけ動かす。
その小さな仕草さえ返事のように見えてしまい、アレンは余計に判断に困った。自分が勝手に意味を読み取っているだけかもしれないと考えながらも、目の前の存在から視線を外す気にはなれなかった。
◇
遠くで短い笛の音が一度だけ響き、アレンの意識は即座に森の奥へ戻った。黒い狐へ気を取られてはいたが、追跡者たちが完全に諦めたという証拠はなく、流れの上手から聞こえたその音は、先ほどまでヴァロたちを追っていた者たちの合図によく似ている。
黒い狐も同じ方向へ顔を向けた。尖った耳を笛の聞こえた方角へ立て、ほんの数秒だけ森の奥を見つめたあと、再びアレンへ視線を戻す。
それだけの動作なのに、偶然音へ反応しただけとは思えなかった。アレンは剣を持つ右手へ力を込めながら、自分が流れのそばで長く立ち止まりすぎていることにも気づく。
「悪いけど、俺はここでお前を見てる場合じゃないんだ」
仲間と合流しなければならなかった。ロアたちは負傷者を連れて森の入口を目指しており、自分も流れに沿って進むと約束している以上、巨大な狐の正体を考えることより先へ進むべきだった。
アレンは黒い狐から完全に背を向けないよう注意しながら、左へ一歩移動した。流れのこちら側をそのまま進めば狐と距離を保ったまま西寄りへ進めるため、相手がその場へ残るのなら、それで別れられるはずだった。ところが黒い狐は逃げることも、その場へ留まることもしなかった。アレンが一歩動くと、流れの向こうで同じ程度だけ身体の向きを変え、川沿いへ進もうとする彼の動きを追うように前脚を置き直した。
「……ついてくるのか?」
黒い狐は答えなかった。しかし、その大きな身体が横を向いたことで、これまで木々と影に隠されていた後方が少しずつ見え始める。
最初に目へ入ったのは、黒い毛に覆われた大きな尾だった。普通の狐なら一本だけでも身体に似合わないほど豊かに見えただろうが、そのすぐ後ろで別の黒い影がゆっくり動いている。
アレンは目を細めた。低木の枝が重なって見えているのかと思ったものの、その影は風とは無関係に滑らかに揺れ、一本目とは違う角度から地面近くへ垂れていた。
さらにその奥から、もう一本が姿を現した。黒い狐が身体をゆっくり横へ向けるにつれ、これまで隠れていたものが次々と見えるようになり、どれも同じ黒い毛に覆われながら、それぞれ僅かに異なる方向へ揺れている。アレンは最初に見えた数本を慎重に目で追ったが、途中で枝と重なり、自分が疲労のせいで見間違えている可能性も考えた。ところが黒い狐がさらに一歩だけ進むと、低木の陰に残っていた尾まで完全に現れ、それらがすべて狐の身体から独立して伸びていることがはっきり分かった。
今度は根元から一本ずつ確認するように、右から左へゆっくり視線を移した。三本を越え、さらにその先を数えていっても終わらず、最後の一本まで辿り着いたところで、アレンは思わず息を詰めた。
「……九本?」
口に出した数字が、自分でも信じられなかった。黒い狐の背後には、確かに九本の尾があった。一本一本が人間の胴ほど太く見えるほど豊かで、扇を閉じたように重なりながら背後へ広がっている。すべてが同じ方向へ動くわけではなく、低く垂れるものもあれば、ゆっくり左右へ揺れるものや、わずかに持ち上がるものもあった。
その数を認識した瞬間、アレンの脳裏へ幼い頃から何度も聞かされてきた創世の物語が蘇った。世界へ自然をもたらした七聖獣の一体――キツネ。エララが読み聞かせてくれた古い物語でも、幼い頃にその姿を思い描いたときも、聖獣を象徴する特徴の一つが九つの尾だった。
「……七聖獣の、キツネ?」
思わず零れた言葉に、アレンはすぐ眉を寄せた。
九本の尾を見たからといって、目の前の存在が七聖獣のキツネだと決まったわけではない。七聖獣以外に九尾の狐が存在しないと教わったこともなければ、世界にはラークホロウを出るまで知らなかった生き物や種族がいくらでもいる。神話と同じ特徴を一つ備えているというだけで、目の前の巨大な狐を聖獣だと決めつけるには根拠が足りなかった。
それでも、幼い頃から七聖獣すべてに会ってみたいと願い続けてきたアレンにとって、その可能性を何も考えず切り捨てることもできない。剣を握る右手の力を緩めないまま、彼は改めて黒い狐を見つめた。
もし本当に七聖獣の一体なら、こんな森の中で突然出会うものなのだろうか。そもそも創世の物語に描かれていたキツネについて、アレンが知っているのは九つの尾を持ち、世界へ自然をもたらしたという昔話程度しかない。毛並みが黒かったかどうかさえ、物語の中では語られていなかった。
黒い狐はアレンの驚きにも、口にした言葉にも目立った反応を示さなかった。九本の尾を大きく広げて威嚇することもなく、ただ自然な姿勢のまま互いに重ね、流れの向こう側から静かにこちらを見ている。
その落ち着きは答えを与えるどころか、かえって疑問を増やしていた。七聖獣なのか。それとも神話と同じ特徴を持つ、自分の知らない別の生き物なのか。少なくとも今のアレンには確かめる方法がなく、異常な姿そのものよりも、自分が九本の尾へ気づいたあとでさえ何一つ態度を変えない狐の静けさの方が、次第に不可解なものとして感じられていた。
◇
笛がもう一度聞こえ、今度は先ほどより僅かに近く感じられた。アレンは九本の尾から意識を引き剥がして森の奥へ耳を澄ませたが、追跡者が自分を探しているのか、ヴァロたちの方を追っているのかまでは判断できない。
「本当に悪いけど、俺は行く」
そう告げてから、アレンは流れ沿いへ歩き出した。黒い狐へわざわざ言葉を掛ける必要があるのか自分でも分からなかったが、黙って背を向ける方がなぜか不自然に感じられた。
数歩進んで振り返ると、黒い狐も同じ場所を離れていた。ただし流れを渡ってアレンへ近づくのではなく、反対側の岸をほぼ並行するように歩いている。
九本の尾が木々の間を滑るように動いていた。巨大な身体でありながら枝を激しく折ることもなく、足音さえ流水へ紛れてほとんど聞こえない。
「やっぱり、ついてくるのか?」
アレンは歩きながら問い掛けた。黒い狐は顔をこちらへ向けず、まるで彼の存在など気にしていないように前を見たまま進んでいる。
それなら偶然同じ方向へ向かっているだけなのかもしれないと考え、アレンは試すように歩調を落とした。すると狐も少し進んだところで自然に速度を緩め、二者の距離はほとんど変わらなかった。
今度はアレンが僅かに速度を上げたが、黒い狐も遅れず、九本の尾を揺らしながら同じ距離を保って進んでいく。その様子に眉を寄せたアレンは、偶然という説明が少しずつ苦しくなっていることを認めざるを得なかった。
「……絶対、分かってるだろ」
思わず呟いたものの、狐は相変わらず明確な反応を返さなかった。相手が自分を観察しているのか、本当に同じ方向へ進みたいだけなのか分からない以上、妙な駆け引きを続けて時間を失う方が危険だと判断し、それ以上試すことはやめた。
アレンは流れと太陽の位置を確かめ、先ほど決めた通り西寄りの方向を保った。途中で水が二つの岩の間を通って少し南へ曲がったため、その地点にも布と石の二重の印を残す。
目印を作っているあいだ、黒い狐は流れの向こうで立ち止まっていた。アレンが作業を終えて立ち上がるまで先へ進まなかったことで、偶然同じ方向へ向かっているだけだという考えはさらに弱くなる。
「お前、本当に何なんだ?」
アレンが尋ねると、黒い狐は数秒だけこちらを見たあと、ゆっくり顔を前へ戻した。それ以上の答えはなかったが、アレンには無視されたというより、答える必要がないと判断されたような妙な印象が残る。
その感覚を自分で認めることには、少し怖さもあった。狐が人の言葉を理解しているという前提で考え始めれば、九本の尾以上に説明できないことが増えてしまう。
◇
流れは次第に細くなり、代わりに周囲の岩が増えていった。森の天井も少し開き始め、薄い光がところどころ地面まで届くようになったが、ヴァロたちの蹄音は依然として聞こえない。
アレンは何度か声を上げることを考えたものの、遠くで笛が聞こえるたびに思い直した。自分の位置を知らせればロアたちに届く可能性もあるが、それ以上に追跡者へ場所を教える危険がある。
右肩には斜面を滑り落ちたときの痛みが残り、腰にも鈍い重さがあった。そこへ魔法を続けて使った疲労まで重なっているため、もし再び複数の敵へ囲まれれば、先ほどまでと同じようには身体を動かせない可能性が高い。
だからこそ、巨大な黒い狐が近くにいることを安心材料へ変えるわけにもいかなかった。今のところ襲われてはいないが、相手が何を考えているのか分からない以上、敵ではないと決めつけることも同じくらい危険だった。
アレンが歩みを止めると、流れの反対側にいた黒い狐も止まった。九本の尾は背後へ緩やかに広がり、木漏れ日の中へ入った部分だけが僅かに艶を帯びて見える。
「俺は仲間を探してる」
アレンはしばらく迷ってから口を開いた。
「この森の外に戻りたいんだ。お前に言っても仕方ないかもしれないけど」
黒い狐は静かにこちらを見た。言葉を理解しているという確信は得られなかったが、少なくとも声そのものへ反応しているようには見える。
「だから、もし縄張りを邪魔してるなら悪かった。別に何か取りに来たわけじゃない」
そこまで言ってから、アレンは自分が九尾の巨大な狐へ真面目に事情を説明していることに気づき、困ったように息を吐いた。自分でも妙なことをしているという自覚はあったが、途中で話すのをやめる方がかえって落ち着かなかった。
「……何してるんだ、俺」
黒い狐の片方の耳が僅かに動いた。その小さな反応を見ていると狐に笑われたような気さえして、もちろん獣がそんなことをするはずがないと自分へ言い聞かせても、最初に感じた「観察されている」という印象は少しも薄れなかった。
そのとき、森の奥で枝が折れる音が響いた。アレンは即座に剣を構え、黒い狐も同じ方向へ耳を向ける。
音は一度で止まらず、続いて落ち葉を踏む小さな気配が聞こえた。大型の獣が進んでいるような重さではなく、人間程度の何者かが木々の間を移動している可能性が高い。追跡者かもしれないと考え、アレンは流れから離れないまま近くの太い木を盾にできる位置へ移った。魔法を使うにしても無理はせず、まず人数と方向を確認するつもりで森の奥へ意識を集中させる。
その直後、黒い狐の九本の尾が一斉に動いた。それまで緩やかに垂れていた尾が音もなく持ち上がり、巨大な身体の背後へ大きな弧を描きながら、互いに重ならないよう扇状に広がっていく。
暗い森の中へ黒い壁が生まれたような光景に、アレンは思わず息を呑んだ。先ほど数えた九本を見間違えていなかったことが、その姿ではっきりと分かる。
一本一本の尾はそれぞれ確かな重さを持ちながら、狐の身体の後方から独立して伸びていた。黒い狐自身は牙を剥くことも唸り声を上げることもなく、ただ音のした森の奥へ身体を向けている。
威嚇しているのか、警戒しているだけなのか、それともアレンには分からない別の意味があるのかは判断できなかった。それでも九本の尾を広げた姿には先ほどまでとは比べものにならない存在感があり、アレンは剣を握ったまま目を逸らせない。
やがて木々の奥から聞こえていた足音が止まり、数秒後には遠ざかるような枝の揺れる音へ変わった。誰がそこにいたのか姿を見ることはできず、黒い狐を見て退いたのか、最初から別の方向へ向かっただけなのかも確かめようがない。
黒い狐はその気配を追わず、しばらく森の奥へ視線を向けたまま動かなかった。やがて警戒を解くように九本の尾を一本ずつ下ろし、再び元の静かな姿へ戻っていく。
アレンはその様子を見届けながら、剣先を僅かに下げた。なぜ九本もの尾を持っているのか、なぜ人間を恐れず、なぜ自分の歩調へ合わせるように動くのか、そのどれにもまだ答えはない。
「……九本か」
もう一度数え直す必要はなかった。巨大なだけではないこの狐が九本の尾を持っていることだけは、今や疑いようのない事実だった。
黒い狐は最後の尾を静かに下ろすと、再び流れの向こうからアレンを見た。その視線には相変わらず威嚇も恐怖もなく、アレンもまた自分が何に出会ったのか分からないまま、黒い九本の尾を持つ狐と森の静けさの中で向かい合った。
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