第二章 第十九話 黒い狐
森の入口へ近づいているはずなのに、アレンには木々の密度がなかなか薄くならないように感じられた。前方から差し込む光は先ほどより明るくなっているものの、根と倒木に刻まれた道は複雑なままで、救い出した者たちの速度に合わせれば、一つの障害を越えるだけでも時間が掛かる。
ヴァロは先頭から何度も後ろを確認し、ネアとミラは拘束されていた三人のケンタウロスを交互に支えていた。人間の男と獣人の女性も疲労を隠せてはいなかったが、自分で歩ける者同士で肩を貸し合い、隊列から遅れないよう懸命に進んでいる。
最後尾のアレンは剣を抜いたままだった。風を何度も使った左腕にはまだ鈍い痺れがあり、指先にも疲労が残っているため、もう一度戦闘になったとしても先ほどと同じ精度で魔法を使える保証はなかった。
「笛、聞こえる?」
少し前を歩くロアが振り返らずに尋ねた。
「今は聞こえない」
「俺もだ」
「だから終わったとは思わない方がいい」
「分かってる」
ロアは短く答え、そのまま後方へ耳を向け続けた。数日前ならその警戒の大半は人間であるアレンへ向けられていたはずだが、今は同じ森の奥を警戒しながら言葉を交わしていることに、アレンは少しだけ不思議な感覚を覚えた。
前方でヴァロが手を上げ、一行が止まった。森を横切るように太い倒木が一本横たわり、その根元では地面そのものが崩れて低い斜面を作っている。
「昨日はここを通ってない」
「敵を避けた時に少し西へずれたからだ」
ミラが木札の記録を確認すると、ヴァロも周囲の木々と陽の方向を見比べた。帰路そのものを失ったわけではないが、戦闘の途中で元の目印から少し離れたため、ここから森の入口へ戻るには地形を見ながら補正する必要がある。
「右から回れる?」
ネアの問いに、ヴァロは倒木の先を確認した。右側は枝が密集してケンタウロスが通れる幅がほとんどなく、左側には緩やかな下りが続いている。
「左だ。下に細い流れがあるはずだ。それに沿えば、入口側へ戻れる」
ヴァロが進路を変え、一行は斜面をゆっくり下り始めた。弱ったケンタウロスが足を滑らせないよう、ロアも後ろから間隔を詰めすぎずに付き添う。
そのとき、遠くから笛が一度だけ聞こえた。先ほどまでの連続した合図より遥かに遠かったが、全員の身体が同時に強張り、森の静けさが再び緊張へ変わった。
◇
「止まるな。追いつかれる前に下まで行く」
ヴァロは声を荒らげず、それでも歩調を少しだけ上げた。ここで無理に走れば救い出した者たちが転ぶため、速さではなく途切れず進み続けることを優先する。
斜面は下へ行くほど急になっていた。地面には湿った苔が増え、土の上へ露出した根が横向きに何本も走っているため、人間のアレンでさえ足場を確かめなければ滑りそうになる。
先頭のヴァロが下へ降り、ネアとミラが一人ずつ捕虜を通していった。アレンは最後尾で後ろを警戒しながら、自分の前にいるロアが足を置いた位置を参考にして慎重に下る。
背後の森で枝が折れ、その音は先ほどの笛よりも近く感じられた。ロアが振り返り、アレンも木々の間へ目を向けると、斜面の上で低い枝が不自然に揺れている。
「来てる」
「先に下りて」
「お前は?」
「俺も行く。ここで戦うつもりはない」
アレンはそう答え、ロアを先へ行かせた。敵を食い止めるために一人で残るのではなく、最後尾の位置を維持したまま全員と一緒に斜面を下りるつもりだった。
ロアが数歩進んだ直後、上から一本の矢が飛んだ。狙いはアレンではなく、その少し下にいたロアの進路だったらしく、矢は前方の根へ突き刺さる。
「またか!」
ロアが声を上げたが、アレンは矢の来た方向を追わなかった。敵の目的がこちらを斜面の上へ引き戻すことなら、射手を探しに戻ること自体が相手の望む動きになる。
「下へ!」
アレンも斜面を降り始めたが、三歩目を踏み出した瞬間、右足の下にあった土が大きく崩れた。身体が急に沈み、反射的に左手で根を掴んだものの、湿った土ごと根が抜けて支えにはならない。
「アレン!」
ロアの声が聞こえた次の瞬間、アレンの身体は斜面を横へ滑り落ちた。剣を握ったままでは自分を傷つけると判断し、刃を身体から外側へ向けながら腕と肩で衝撃を受ける。
途中で低い灌木へぶつかり、さらに数歩分滑ったところでようやく身体が止まった。強く打った右肩と腰に痛みはあったものの、息を吸えないほどではなく、脚にも力は入る。
「アレン! 返事しろ!」
「大丈夫!」
上からロアの声が届いた。アレンは身体を起こし、崩れた斜面を見上げる。
高さそのものは絶望的なものではなかった。しかし土が大きく剥がれ、残った部分も踏めば崩れそうな状態になっているうえ、ロアたちの大きな身体で降りてくればさらに斜面を壊す可能性が高い。
「そこから上がれるか!」
ヴァロの声も聞こえた。
「無理に登るとまた崩れる!」
「下はどうなってる!」
アレンは周囲を確認した。斜面の下には予想していた細い流れがあり、水は左から右へ緩やかに流れている。右側の先は木々が密集して見通せないが、左へ行けばヴァロたちが向かっていた方向とほぼ同じだった。
「流れがある! 左へ行けばそっちと合流できると思う!」
少しの沈黙のあと、ヴァロが答えた。
「思うだけで動くな! 流れの向きを確認しろ!」
アレンは水面へ目を向け、落ち葉の流れる方向と空から差し込む光を確かめた。森へ入ったときの位置、太陽の方向、ヴァロが説明していた入口側との関係を頭の中で重ねる。
「左が西寄りだ! 入口の方向と合ってる!」
「なら流れから離れるな! 俺たちは上から同じ方向へ進む!」
「分かった!」
ロアが下りようとする気配がしたが、すぐネアの声が止めた。斜面を無理に降りれば救出した者たちを置いていくことになるうえ、敵の笛も完全には消えていない。
「アレン! 勝手に森の奥へ行くなよ!」
「行かない!」
「絶対だぞ!」
「分かってるって!」
アレンは答えながら、少しだけ苦笑した。以前なら同じ注意を何度も受けることに窮屈さを感じたかもしれないが、今はそれが自分を置いていくための言葉ではなく、再び会うための約束なのだと分かっていた。
◇
アレンは流れの左岸を歩き始めた。幅は人が二、三歩で跨げるほどしかなく、水深も浅いが、岸には大小の岩と根が重なっているため、急ぐことはできない。
上の斜面からは、ときどきロアたちの蹄音が聞こえた。完全に並行して進めているわけではないものの、同じ方向へ動いていることが分かるだけでも安心できる。
それでも、しばらくすると音は少しずつ遠くなった。流れが岩を避けて南へ曲がり始めた一方、斜面の上では木々が密集しているのか、蹄音そのものが聞き取りにくくなっている。
「ロア!」
アレンは一度だけ声を上げたが、返事はなかった。もう一度呼ぼうとして口を開きかけたものの、森の中にはまだ追跡者がいる可能性があり、大声を出し続ければ自分の位置だけでなく、上を進む仲間たちの位置まで知らせかねないと考えてやめた。
アレンは立ち止まり、流れの向きを確かめた。先ほどまで西寄りに進んでいた水が大きな岩を境に曲がり、今は南西へ流れている。
そのまま沿えば入口へ近づくはずだったが、森の中では真っ直ぐ進めるとは限らない。だからといって流れを捨てれば、自分が確実に確認できる目印まで失う。
アレンは腰の袋から細い布を一枚取り出した。ヴァロたちが使っていた帰路の印ほど数はないため、分岐や大きく方向が変わる場所だけに残すことにし、近くの低い枝へ結ぶ。
その下には小石を三つ並べた。前日の報告を受けてガレムが決めた二重の目印を、自分一人でも同じように使えば、布と石のどちらか一方に異常が起きても気づける。
布が失われても石が残り、石が動かされても布を確認できる。二つを別々に残す意味を思い返しながら、アレンは位置と流れの向きをもう一度記憶してから歩き始めた。
◇
森は、五人で歩いていたときより遥かに広く感じられた。誰かの蹄音も、ミラの記録を確認する声も、ヴァロが進路を選ぶ言葉もないだけで、同じ木々の間がまるで別の場所のように見える。
アレンは不安を押し込めるために速く歩くことをしなかった。ラークホロウで教えられた通り、焦ったときほど足元と呼吸を確かめ、自分がどの方向から来たのかを定期的に振り返る。
しばらく進むと、流れの幅が少し広がった。岸の片側には大きな岩壁が迫り、反対側には低い木々が密集しているため、そのまま進める道は細くなっている。
そこでアレンは足を止め、水辺の泥へ残された大きな跡に気づいた。人間の靴ともケンタウロスの蹄とも違い、丸みのある肉球と、その前方に四つの指がはっきり残っている。
形だけなら犬や狼に似ていたが、大きさがまるで違った。アレンが手を開いて重ねても足りないほど大きく、同じ跡が水際から木々の奥へ二つ、三つと続いていることから、かなり大きな身体を持つ獣がここを歩いたことだけは分かった。
「……何だ、これ」
思わず声に出したあと、アレンはすぐ周囲を確認した。歩幅も普通の狼より遥かに広く、これほどの獣がいるなら森の外縁を知るロアやヴァロが何も知らないことにも違和感が残る。
それでも、足跡を追う理由はなかった。自分の目的は仲間と合流して森を出ることであり、正体の分からない獣を一人で追うことではないため、アレンは剣を鞘へ戻さず、足跡から距離を取って流れ沿いへ進もうとした。
そのとき、それまで重なっていた森の音が急に薄れた。完全な無音ではなく水は流れ、頭上では葉も擦れていたが、鳥や小動物の気配、遠くで続いていた虫の声まで同時に息を潜めたように感じられる。
アレンは動かず、先ほど見つけた足跡へすぐ視線を戻すこともしなかった。前方、左右、背後の順にゆっくりと森を見渡し、音が消えた原因を一つの方向へ決めつけないよう注意する。
左側の木々の奥で、黒いものが動いた。最初は木々の間へ落ちた影に見えたが、影にしては位置が高く、幹と幹のあいだをゆっくり横切りながら確かな輪郭を持っている。
やがて低い枝が押し分けられ、その向こうから尖った耳と細長い鼻先を持つ頭が現れた。形だけなら狐に見えたものの、アレンがラークホロウの周辺で見た狐とは比べものにならないほど大きく、頭だけでも大型の狼に近い。
さらに一歩前へ出ると、その肩はアレンの胸を軽く越える高さにあった。全身を覆う毛は光を吸い込むような黒で、森の暗がりへ溶け込んでいるにもかかわらず、輪郭だけは不思議なほど見失わない。
大きな身体の後方は木々と影に隠れ、アレンの位置からは全身を完全には見通せなかった。それでも、目の前にいるものが普通の狐ではないほど巨大であることだけは疑いようがない。
黒い狐は吠えず、牙を見せることも、すぐ逃げることもしなかった。ただ流れの向こう側に立ったまま、静かな視線をアレンへ向けている。
アレンも剣を構えなかった。いつでも動けるよう柄を握ったままではあったが、襲う様子のない相手へ先に刃を向ける理由はなく、互いの距離を保ったまま動きを見守る。
「……お前、この森の獣か?」
返事などあるはずがないと思いながら尋ねた。黒い狐はそれでも動かず、視線だけをまるで言葉の意味を聞いているかのようにアレンへ向けたままだった。
その巨大さ以上に、アレンには静けさの方が奇妙に感じられた。野生の獣なら人間を見て逃げるか、警戒するか、少なくとも何らかの反応を示しそうなものだが、目の前の狐には怯えも露骨な威嚇もない。
流れる水だけが二者の間を横切っていた。アレンは仲間とはぐれていることも、森の出口を探している途中であることも忘れてはいなかったが、この巨大な黒い狐を何も見なかったことにして通り過ぎることもできなかった。
やがて黒い狐がゆっくり一歩だけ前へ出し、その大きな足を湿った土へ沈めた。そこに残された跡は、先ほどアレンが水辺で見つけた巨大な足跡と同じ形をしている。
狐はそこで再び止まり、襲うことも逃げることもなくアレンを見つめた。アレンも剣を抜いたまま距離を崩さず、深い森の中で初めて現れた巨大な黒い狐と、流れを挟んで静かに向かい合った。
ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!




