第二章 第十八話 初めての実戦
前方の剣士が踏み込み、それに合わせて右側の男が縄を広げた。さらに背後では弓の弦が引かれ、アレンは目の前の一人だけを見ていては間に合わないと悟る。正面から迫る刃、横から脚や腕を絡め取ろうとする縄、姿の見えない射手から放たれる矢。そのすべてが別々の攻撃ではなく、互いの動きを利用してこちらの逃げ道を一つずつ奪うために組み合わされていた。
正面の男が先に剣を振り、肩口から胸へ向かって斜めに刃を落としてきた。アレンは半歩だけ後ろへ退いて切っ先を外しながら、右側から飛んでくる縄の輪と、そのさらに向こうにいるロアたちの位置まで視界へ入れる。
ただ横へ避ければ、その先には剣士が待っている。かといって足を止めれば、今度は背後の射手に狙われるため、アレンは剣を両手で握り直し、自分の周囲ではなく戦場全体を見るよう意識を広げた。
後方ではヴァロとネアが弱ったケンタウロスを支え、人間の男と獣人の女性も互いに離れないよう歩いている。ミラは左側から近づく敵を監視し、ロアは中央の捕虜たちへ縄を届かせないよう、後方へ身体を置いていた。
「アレン、右!」
ミラの声と同時に縄が飛んだ。アレンは横へ逃げず、右足を軸に上半身だけを引いて輪を通過させたが、その瞬間を狙って正面の剣士が一気に距離を詰めてくる。
横薙ぎの刃が迫り、アレンは剣を立てて受け止めた。重い衝撃を両腕で耐えた直後、背後から弦の鳴る音が重なり、矢を見る時間すらないまま左手を開く。
掌の前で空気が圧縮され、次の瞬間には横向きの短い風となって放たれた。木々を大きく揺らすほどの力ではなく、矢そのものを吹き飛ばすほど強くもなかったが、飛来する軌道を僅かにずらすには十分だった。
矢はアレンの背後を通り抜け、ロアから二歩ほど離れた木の幹へ突き刺さった。ロアが一瞬だけ目を見開いたものの、すぐ別の足音へ意識を戻す。
「今の……」
「あと!」
説明している余裕はなかった。アレンは正面の剣士が押し込んでくる力を横へ流し、相手の胸へ斬り込む代わりに柄頭を腕へぶつけ、剣を振るうための間合いだけを崩した。
男はすぐに後退したが、その動きに大きな迷いはなかった。アレンが風を使ったことへ驚いた様子こそ見せたものの、森の奥から別の男がすぐ声を上げ、それを聞いた周囲の配置が変わり始める。
「魔法持ちだ!」
「先に潰せ!」
捕虜へ向かっていた二人のうち一人がアレンへ進路を変え、後方の射手も狙いを中央から彼へ移した。自分が目立ったことをアレンはすぐ理解したが、それによって捕虜へ向けられる攻撃が少しでも減るなら、完全に悪い状況でもない。
「俺に寄ってる!」
「なら引きつけすぎるな!」
ヴァロが叫び、さらに続けた。
「倒そうとするな! 離れるために使え!」
「分かった!」
アレンは短く答え、自分たちの目的をもう一度意識した。ここで敵全員に勝つ必要はなく、救い出した五人を連れて森を抜けるために、追撃を止められるだけの隙を作ればいい。
◇
右から二人の男が迫った。一人は短剣、もう一人は先ほどから縄を使っている男で、短剣の男が先にアレンを動かし、その逃げ先へ縄を投げるつもりなのが二人の位置取りから読み取れた。
短剣の男が低く踏み込み、腹部へ向けて刃を突き出した。アレンは剣先を下げずに外側へ弾いたが、相手はそのまま身体を寄せ、空いた左手でアレンの腕を掴もうとしてくる。
その横から縄の輪が飛んできた。前なら避けることだけを考えたかもしれないが、今度のアレンは足を動かさず、右手で剣を支えたまま左手を縄の方向へ向ける。
掌の先に生まれた炎は、拳より大きくしなかった。頭上の枝や足元の落ち葉へ燃え移らないよう範囲を抑え、飛んでくる革縄の輪、その一点だけへ熱を集中させる。
細い炎が一瞬だけ伸び、革縄の表面を黒く焦がした。張力の掛かった部分から亀裂が走り、輪はアレンへ届く前に形を失って二本へ裂け、そのまま湿った地面へ落ちる。
「火まで使うぞ!」
縄を持っていた男が反射的に一歩下がった。その声へ短剣の男の意識が僅かに逸れたため、アレンは剣を振り下ろす代わりに肩から身体をぶつけ、相手を近くの木の幹へ押し付けて進路を塞いだ。
短剣が腹へ向けて持ち上がり、アレンは相手の手首へ剣の柄を当てて腕を外側へ押し出した。刃は服の脇を浅く裂いて通り過ぎ、ほんの少し位置が違っていれば腹を刺されていたと理解した瞬間、遅れて強い恐怖が込み上げる。
それでも立ち止まることはできなかった。ラークホロウでの訓練で何度も聞かされた「攻撃が終わる前に自分の失敗を考えるな」という言葉を思い出し、一度だけ深く息を吐いて短剣の男の腕を押し退け、距離を作る。
「動ける! 今!」
ネアの声が前方から飛んだ。ヴァロたちは少しずつ進路を開いており、捕虜の三人も完全に歩けないわけではなく、一人を支えながらなら先ほどより僅かに速度を上げられている。
「ロア、後ろ!」
「見てる!」
後方から剣士が追いつこうとした瞬間、ロアは身体を半分だけ回した。森が狭いため草原のように大きく蹴り上げることはできなかったが、後脚を短く突き出して近づきすぎた男の太腿へ強く当てる。
男は呻きながら膝をついたものの、ロアは追撃しなかった。倒れた相手より仲間を選び、そのまま隊列へ戻る姿を見て、アレンもすぐ後へ続いた。
◇
五人と捕虜たちは、帰路の印を確認しながら森を進んだ。だが、敵の笛は後ろだけから聞こえるわけではなく、右、左、ときには進行方向の遠くからも響き、追う者たちが複数に分かれて位置を伝えながら先回りしていることが分かった。
「次の印までどれくらい?」
ミラが尋ねると、ヴァロは前方の根と木々を確認しながら答えた。
「そう遠くない。その先に細い流れがある」
「昨日渡ったところ?」
「もっと浅い。石が多い場所だ」
アレンはその説明を聞き、頭の中で地形を組み立てた。水と石が多い場所なら柔らかい土より足跡は残りにくく、縄を投げる側にとっても木や根ほど固定しやすい場所ではない。
「そこで一回、形を立て直せない?」
「俺もそう考えてる。ただし、着ければだ」
ヴァロが返した直後、前方の枝が揺れた。五人が速度を落とすと、木々の間から二人の男が現れ、一人は剣、もう一人は弓を持ったまま、中央の狭い通路を塞ぐように位置を取る。
その背後からも笛が聞こえ、ロアの表情が険しくなった。前方だけでなく後ろからも追跡者が近づいている以上、一行は完全に挟まれつつあった。
「挟まれた」
ヴァロは周囲を素早く見た。左には太い根と倒木、右には密集した低木があり、捕虜を連れて通れるのは中央だけだった。
「止まるな。中央を抜く」
「捕虜は?」
「ネアとミラが連れていけ。ロアは後ろ。アレン、前を俺と開ける」
アレンは頷き、ヴァロと並んで前へ出た。弓を持つ男が矢を番える一方で、剣士はその射線を塞がない位置へ身体をずらし、二人が明確に役割を分けていることが見て取れる。
今度は矢が飛んでから風を使うのでは遅い。そう判断したアレンは左手を開き、敵そのものではなく、弓を構える男の前に垂れ下がった葉と細い枝へ向けて短い風を押し出した。
枝葉が大きく揺れ、射手の視界へ緑が重なった。その一瞬だけで十分だった。
「今!」
ヴァロが踏み込み、アレンも同時に走った。剣士がヴァロへ向かったためアレンが横へ入り、互いの刃が激しくぶつかる。
最初の一撃を弾くと、相手はすぐ角度を変えて二撃目を繋げた。アレンも受け続けるだけでは押されると判断し、三度目に下から斬り上げられた瞬間だけ剣を引いて半歩横へずれ、そのまま相手の刃へ自分の剣を当てて身体ごと外側へ押し出した。
相手を斬り倒すためではなく、中央を空けるための動きだった。生まれた隙へヴァロが入り、捕虜たちが通れる道を確保する。
「通れ!」
ネアが捕虜たちを進ませた。弓の男も揺れる枝を避けて再び狙いを付け、アレンはもう一度風を使おうと左手を上げたが、掌の前で空気が震えた瞬間、腕へ重い疲労が走った。
続けて使えば、同じ精度を維持できない。そこでアレンは風を強くするのではなく範囲を狭め、矢そのものではなく射手の弓を持つ腕の周囲だけへ空気を集中させた。
男の袖が跳ね、腕が僅かに揺れた瞬間に矢が放たれた。狙いは外れ、ミラたちから遠く離れた地面へ突き刺さる。
「抜けた!」
後方からロアの声が響き、アレンは捕虜全員が二人の敵を越えたことを確認した。剣士へ追撃することなく、もう一度だけ刃を弾いて距離を作ると、ヴァロとともにすぐ後退した。
◇
細い流れへ着いたときには、全員の呼吸が乱れていた。水深は足首ほどしかないが大小の石が広く並び、その上を不規則に水が流れているため、疲れた脚で急げば簡単に足を取られそうだった。
「ここを渡る!」
ヴァロが先へ入り、滑りやすい場所を避けるよう進路を示した。ネアとミラは捕虜たちを支え、一人ずつ水へ入れていく。
三人のケンタウロスにとって、弱った脚で濡れた石を踏むのは簡単ではなかった。速度を求めれば転倒する危険があるため、ロアも今度は急かさず、最後尾で周囲を確認しながら一人ずつ渡るのを待った。
その途中で笛が再び鳴り、しかも先ほどより近い位置から響いた。アレンが振り返ると、木々の間には複数の人影が現れ始めている。
「来る!」
最初の男が流れへ入り、その手に持った縄を大きく広げた。ここまで追ってきても狙いは変わらず、弱ったケンタウロスの脚を再び止めようとしている。
アレンは剣を構えながら左手を縄へ向けた。火を使えば切れる可能性は高いが、足元に水があっても向こう岸には乾いた枝が積もっており、炎を大きくすれば風に煽られて森へ移る危険がある。
必要なのは強さではなく、縄の一点だけを焦がす熱だった。アレンは指先ほどの小さな火を生み、投げられた輪に最も強い張力が掛かった瞬間、その部分だけへ細く炎を走らせる。
革が黒く焦げたところで、アレンはすぐ火を消した。脆くなった箇所へ剣を当てると縄は簡単に裂け、輪を投げた男が驚いて手元を見た隙に、ロアが最後の捕虜を流れの向こうへ渡す。
「アレン、来い!」
アレンは後ろへ下がり、そのまま自分も流れへ入った。敵の一人が追って水へ踏み込んだ瞬間、濡れた石が僅かに動いて相手の姿勢が崩れる。
そこで斬りかかることはせず、アレンは水面へ低く風を放った。浅い水と細かな小石が跳ねて男の足元へ飛び、反射的に目を閉じたことで追跡がさらに一歩遅れる。
その短い時間だけで十分だった。アレンは残りの流れを渡り切り、向こう岸で待つ仲間たちへ追いつく。
「走れるところまで行く!」
ヴァロが叫び、全員が再び進み始めた。森はまだ深く草原までは遠かったが、細い流れを越えたことで追う者たちとの距離だけは僅かに開いていた。
◇
しばらく進むと、笛の音は少しずつ遠くなり始めた。完全に消えたわけではないが、先ほどまでのように左右と前後から同時に響くことはなくなり、敵との距離が広がっていることだけは分かった。
ヴァロは足を止めず、全員の状態を順番に確認した。捕虜の一人は脚を震わせながらも歩けており、人間の男と獣人の女性も遅れず付いてきている。
「怪我は?」
「大きいのはない。擦り傷と、元からの拘束跡。それより長くは歩かせられない」
ネアの返答を聞き、ヴァロは森の入口まで戻る方針を変えなかった。敵が追いつけばまた距離を作るが、今は立ち止まって戦う理由がない。
「敵は?」
「追ってくるなら、また止める。今は進む」
ロアは一度だけ後ろを振り返ったが、反対はしなかった。仲間が全員ここにいる以上、敵を追うより草原へ帰すことの方が優先されている。
アレンも剣を握ったまま、自分の左手へ視線を落とした。風を続けて使ったときの痺れと、火を極端に小さく保ち続けた集中による疲れが、指先から腕へ薄く残っている。
力を大きくするだけなら、もっと簡単だったかもしれない。強い風で相手ごと吹き飛ばし、大きな炎で道そのものを塞げば、一時的にはもっと大きな効果を得られただろう。
しかし森の中でそれをすれば、敵だけではなく味方や捕虜まで巻き込み、炎ならこの森そのものを燃やしかねない。初めての実戦で必要だったのは、自分がどれほど強い力を出せるかではなく、誰へ向け、どこまで使い、何を守るために止めるのかを選び続けることだった。
「アレン」
ロアに呼ばれ、アレンは顔を上げた。
「何?」
「さっきの火。縄だけ焼いたよな」
「そのつもりだった」
「失敗してたら?」
「森が燃えてたかも」
「平然と言うなよ」
アレンは少しだけ苦笑した。実際には平然としているわけではなく、失敗した場合を考えれば今でも背中が冷える。
「だから小さくしたんだよ」
ロアはしばらく何も言わず、やがて前へ視線を戻した。
「……助かった」
「どういたしまして」
それ以上の会話は続かなかった。二人とも息が上がっており、まだ完全に安全な場所へ出たわけでもない。
やがて前方の木々の隙間が少しずつ明るくなり、ヴァロとネアの歩調にも僅かな余裕が戻り始めた。草原そのものはまだ見えていないが、森の入口に近い区域へ戻りつつあることだけは分かる。
アレンは最後にもう一度後方を確認した。追う者たちの姿は見えず、笛の音も今は聞こえないが、戦いが終わったのか、それとも相手が距離を取っただけなのかまでは分からない。
だからこそ剣を鞘へ戻すことはせず、アレンは救い出した人々と仲間たちの歩みに合わせた。初めての実戦で得た疲労と恐怖を身体の奥へ残したまま、それでも全員が生きて帰れる道を守るため、森の出口へ向かって進み続けた。
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