第二章 第十七話 追う者と逃げる者
斜面の影に身を伏せたまま、五人は窪地の様子をもう一度確かめた。捕らわれた三人のケンタウロスは意識こそあるものの、長く拘束されていたためか動きが鈍く、人間の男と獣人の女性も疲労の濃い顔で木へ身体を預けている。見える範囲に見張りはいないが、昨日から森の中で感じていた気配を考えれば、それを安全だという意味にはできなかった。
「一気に全員を外すのは危ない」
ヴァロが声を落として言った。まず窪地へ降りる者と周囲を見る者を分け、拘束を解いたあとも同じ場所へ長く留まらない方針を決める。
「俺が行く」
ロアがすぐに申し出たが、ヴァロは一人では行かせなかった。仲間を目の前にして焦る気持ちは理解していても、ここで一人だけ動かせば、それまで守ってきた隊列そのものが崩れる。
「ネアと行け。お前は三人の状態を見ろ。ネアは人間と獣人を確認する。ミラはここから記録と周囲の監視、アレンは右側、俺は左を見る」
「見つかったら?」
「すぐ退く。助けるために全員捕まったら意味がない」
ロアは仲間が目の前にいることへの焦りを押し込めるように一度息を吐き、それから頷いた。ネアと二人で斜面を下り始めても走らず、木々の陰を使いながら音を立てない速度を保つ。
アレンは右側の森へ意識を向けた。剣へ手は掛けているがまだ抜かず、人影そのものより枝や落ち葉の変化を見る。昨日まで何度も感じた違和感を、今度こそ見落とさないつもりだった。
ロアとネアが最初の捕虜へ辿り着くと、拘束されたケンタウロスの一人がロアの顔を見て目を大きく見開いた。声を上げそうになる前にロアが口元へ指を当て、静かにするよう伝えてから脚の拘束へ手を伸ばす。
細身の刃で革紐が切られ、前脚と後脚を狭い範囲へ固定していた拘束が外れた。ケンタウロスは立ち上がろうとしたものの脚へ力が入らず身体を傾け、ロアがすぐ肩を支えて無理に立つ必要はないと低く言い聞かせる。
その隣ではネアが人間の男の手首を確認していた。革紐の下には擦れて赤くなった跡が残っていたが、指は動き、意識もはっきりしている。
「歩ける?」
「……たぶん。あの人たちは?」
「全員連れていく。声を出さないで」
獣人の女性も小さく頷き、恐怖で耳を伏せながら自分で立つために木へ手を掛けた。順番に拘束が解かれていくあいだも、アレンには森が静かすぎるように感じられ、さっきまで聞こえていた小鳥の声さえ途切れていることが気になった。
右奥の枝が、ごく僅かに沈んだ。アレンはそこを凝視せず、ミラへ小さく手を上げるだけに留めると、彼女もすぐ気づいてヴァロへ合図を送った。
「右に何かいる」
ヴァロは窪地にいる二人へ戻る準備を知らせた。ロアたちはまだ最後の一人の拘束を外している途中だったが、手元を乱さない範囲で作業の速度を上げる。
その瞬間、森の奥から短い笛の音が響いた。鳥の声とは違う鋭い音が木々の間を走り、五人の緊張が一気に現実のものへ変わった。
◇
「戻れ!」
ヴァロの声とほぼ同時に、右側の木陰から人影が飛び出した。灰色と茶色の旅装を着た人間の男で、顔の下半分を布で覆い、手には短い弓を持っている。
男が弦を引き切るより早く、アレンは剣を抜いた。直後に放たれた矢は斜面を横切り、ミラのすぐ横にある木の幹へ深く突き刺さる。狙いが外れたのか、それとも最初から動きを止めるためだったのかは分からなかった。
「伏せて!」
アレンが叫び、二本目の矢へ備えて木の陰へ身体を移した。相手はその場で続けて射たず、後ろへ下がりながらもう一度笛を鳴らし、それに応えるように左側からも枝の折れる音が響いた。
今度は二人の人間が姿を現した。一人は片手剣、もう一人は先端へ輪を作った長い縄を持っており、窪地へ降りる方向を塞ぐように位置を取る。
「三人だけじゃない!」
ミラが声を上げた。さらに奥でも人の動く音が重なり、最初から窪地の周囲に複数が散っていたことが分かる。
ヴァロは捕虜たちへ向かって斜面を下りながら、全員を森の入口側へ動かすようロアへ叫んだ。窪地へ留まれば周囲を囲まれるため、戦うことより先に捕らわれていた者たちをこの場所から離さなければならない。
ロアとネアは三人のケンタウロスを立たせた。歩ける者は自分で進ませ、脚へ力が戻っていない一人には左右から支えを付ける。人間の男と獣人の女性も互いに身体を支えながら、その後ろへ続いた。
片手剣を持った男が斜面を駆け下りようとしたため、アレンは捕虜たちとの間へ身体を入れた。人間を相手に抜いた剣の重さは訓練のときとはまるで違い、目の前にいるのが木剣を持った相手でも獣でもなく、自分と同じように考え、こちらを傷つけるために武器を振るう人間だという事実が、腕より先に胸へ重くのしかかった。
男の剣が斜め上から振り下ろされた。アレンは真正面から受け止めず、半歩だけ左へずれて自分の剣を相手の刃へ当て、その勢いを外側へ流した。
金属音が森へ鋭く響いたが、相手は一撃で止まらなかった。身体を回しながら横薙ぎへ繋げてきたため、アレンは後ろへ下がらず、剣の根元に近い部分で相手の刃を押さえながら肩で間合いを潰した。
男の身体が一瞬だけ崩れた。アレンは首や胸を狙わず、剣の柄で相手の手首を強く打ち、指が緩んだ瞬間に肩を押し込んで斜面の土へ倒す。
「アレン、戻れ!」
ヴァロの声が飛び、アレンも勝ったかどうかを確認しようとはしなかった。倒した男の後ろから、縄を持ったもう一人がすでに接近しており、ここで止まれば次の攻撃をまともに受ける。
アレンがすぐ後退すると、投げられた輪が目の前を通過し、その少し後ろにいたロアの前脚へ向かった。ロアは横へ避けようとしたものの、森の狭さのせいで身体を大きく動かせず、輪が脚へ届く前にアレンが剣を振るう。
刃は革縄へ当たり、完全には切れなかったものの軌道を大きく逸らした。輪はロアの脚を外れて地面へ落ち、縄を持つ男がすぐ引き戻そうとする。
「脚を狙ってる!」
「分かってる!」
ロアは怒鳴り返しながらも敵へ向かわず、前へ進む捕虜たちを追った。相手を倒すことよりも、動けない仲間から敵を遠ざけることを優先し、走れない森の中を必死に進んでいく。
◇
窪地を離れても、人間たちは追跡をやめなかった。ヴァロを先頭に捕虜たちを中央へ入れ、ネアとミラが左右を支え、アレンとロアは後方へ回って森の奥から近づく足音を警戒する。
捕らわれていた三人のケンタウロスは、本来なら人間より遥かに速く走れるはずだった。しかし長い拘束で脚は弱り、森では根や倒木まで進路を塞ぐため、歩く速度を大きく上げることができない。
「もっと速く行けないのか!」
ロアが前へ叫ぶと、ネアがすぐ振り返った。
「無理をさせたら転ぶ!」
その言葉にロアは歯を食いしばった。追いつかれる恐怖より、仲間を急がせて再び脚を傷める方が危険だと理解し、すぐ後ろを守る位置へ戻る。
背後でまた笛が鳴り、今度は一回ではなく短く二度続いた。その直後、右前方から枝の折れる音が聞こえ、アレンは後ろだけを追っていた意識をすぐ前方へ戻す。
「前にも来る!」
ヴァロはすぐ進路を左へ変えた。昨日残した帰路の印から大きく離れない範囲で、少し広い木々の間へ一行を移す。
人間たちはただ後ろから追っているのではなかった。森の中を複数の方向へ分かれて走り、笛で互いの位置を知らせながら、逃げる側の進路へ先回りしようとしている。
「連携してる」
ミラが息を乱しながら言った。
「見れば分かる!」
「だから一人を追わないで!」
ロアは返事の代わりに頷いた。目の前に敵が現れても、その一人を追えば隊列から切り離される可能性があることを理解し、中央の捕虜たちから離れすぎない位置を保つ。
左側の木々から一人の男が現れた。手には短い槍があり、アレンへ向かわず、中央を歩く負傷したケンタウロスへ真っ直ぐ進もうとしたため、ネアが身体を入れて進路を塞ぐ。
槍の穂先がネアの肩へ向いた。アレンは横から踏み込み、剣で柄を打ち上げて軌道を逸らすと、穂先はネアではなく頭上の枝へ突き刺さった。
男が槍を引き抜こうとした瞬間、ネアが馬体を横へ動かして肩から相手を押し倒した。アレンがその倒れた相手へ意識を残しかけたところで、ミラの声がすぐ前方へ注意を戻す。
「前を見て!」
さらに二人が木々の間にいた。一人は剣、もう一人は縄を持ち、後方からも別の足音が近づいている。
追う者たちは一か所へ集まらなかった。互いに距離を取ったまま、五人と捕虜たちが安全に使える道だけを少しずつ狭めていた。
◇
「あいつら、俺たちを捕まえ直したいんじゃない」
アレンは呼吸を整えながら周囲を見た。前の二人も後ろから来る者たちも武器を持っているが、捕虜へ無差別に刃を振るうのではなく、脚や進路を狙って動きを止めようとしている。
「脚を止めようとしてる」
「また連れていくつもりか」
ロアの声に怒りが滲んだ。ヴァロは立ち止まらず、帰路を示す三つの石を確認し、布もまだ残っていることから方向そのものは失っていないと判断する。
「入口までこの速度じゃ追いつかれる」
「じゃあ戦う?」
ミラの問いに、ヴァロはすぐには答えなかった。全員で止まれば捕虜が戦闘の中へ巻き込まれ、逃げ続ければ敵は左右から数を増やしてくるため、どちらを選んでも危険は避けられない。
その迷いを狙ったように、前方の男たちが同時に動いた。剣を持つ男がアレンへ向かい、縄を持つ男はロアではなく、後ろから支えられている負傷したケンタウロスへ狙いを定める。
さらに後方から矢が飛んだ。攻撃の方向が重なった瞬間、ヴァロが全員へ隊列を崩さないよう声を張り上げる。
「散るな!」
アレンは矢そのものを目で追わず、弦の音を聞いた瞬間に木の陰へ身体を入れた。矢は肩の横を通り抜けて前方の幹へ突き刺さり、その隙を逃さず正面の剣士が距離を詰めてくる。
最初の突きは腹を狙っていた。アレンは自分の剣を斜めに当てて刃を右へ逸らし、相手が手首を返して二撃目へ移るより先に前へ踏み込んで肩をぶつける。
男は下がらず、逆に膝を上げてアレンの腹を狙った。アレンは腰を引いて避けたものの、そのわずかな間に相手は剣を戻し、再び振れる位置まで立て直している。
その動きは、これまで訓練で向き合った相手より明らかに速かった。しかも目の前の剣士だけを見ていればいい一対一ではなく、右側では別の男がすでに縄を投げるため腕を広げている。
輪が横から飛び、アレンは反射的に避けようとした。しかし横へ動けば、正面の剣士が最も刃を振りやすい位置へ自分から入ることになると気づき、寸前で足を止めた。
革の輪が左腕のすぐ横を抜けた直後、正面から剣が迫った。今度は流すだけの余裕がなく、アレンは剣を両手で構えて真正面から刃を受け止める。
激しい金属音とともに両腕へ重い衝撃が走った。相手の力は訓練相手より強く、受けただけで足元の土が僅かに滑ったが、それでもアレンは剣を離さず、身体を沈めて刃を押し返す。
「こいつら、合わせてる!」
叫んだ直後、後方でもロアが別の男とぶつかった。ヴァロとネアは捕虜たちを守りながら進路を確保し、ミラは自分も動き続けながら敵の位置を声で伝える。
「右に二人! 後ろ三人! 前は今二人!」
見えているだけで七人おり、それだけでも五人より数が多かった。さらに森の奥では別の足音が続き、今見えている者だけがすべてではない可能性まで高くなっている。
アレンは自分の呼吸が速くなっていることに気づいた。獣を相手にしたときとは違い、人間たちは互いの動きを見て、こちらが避ける方向まで利用しながら攻撃を重ねてくる。
だからこそ、一人の剣だけを見てはいけなかった。一本の縄を避けることだけに意識を奪われてもならず、目の前の相手ではなく、自分たちを囲もうとしている全体の動きを見る必要がある。
ラークホロウで何度も教えられたことを思い出しながら、アレンは剣を構え直した。前方の男がもう一度踏み込み、それに合わせて右の男が縄を広げ、背後からは弓の弦が引かれる音まで重なる。
逃げる者たちの道を塞ぐように、追う者たちは初めから一つの群れのように動いていた。アレンは初めて対峙する本物の人間同士の戦いの中で、ただ目の前の一人に勝つだけでは誰も守れないことを理解しながら、次の攻撃を迎えるために足を踏み締めた。
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