第二章 第二十四話 旅人への贈り物
翌朝、アレンが目を覚ましたとき、草原には薄い朝霧が残っていた。右肩にはまだ鈍い痛みがあり、腕の浅い傷も引きつるが、森から戻った直後ほど身体は重くない。治療役から今日は長く荷物を背負うなと言われていたため、剣を腰へ戻すだけにして外へ出た。
居住地では見張りの交代が進み、閉じた走路を確認する者たちが草原を行き来していた。救出された三人のケンタウロスも夜を越えて状態は安定し、人間の男と獣人の女性も水と食事を取れるまで回復しているが、ガレムは詳しい聞き取りをまだ始めていなかった。
「起きたか」
声を掛けてきたロアにも疲労は残っていたが、森の中にいたときほど身体を強張らせてはいなかった。アレンの右肩へ一度視線を落としてから、いつもの調子で短く問いかける。
「肩は?」
「痛いけど動く。今日は無理するなって言われた」
「なら聞け。外の道はまだ閉じたままだ。ガレムが全部見直す」
「罠は?」
「今朝は新しいのは見つかってない。でも安全だとは言わないってさ」
アレンは頷いた。森から三人を連れ戻しても、奪われた道がすぐ元通りになるわけではなかった。
◇
朝食のあと、アレンはガレムとミラに呼ばれた。黒い狐について、推測を混ぜず見たことだけを残したいという話だった。
ミラは木札を膝へ置き、場所、大きさ、尾の数、行動を順番に尋ねた。アレンも分からない部分を埋めず、確認できた事実だけを答える。
「黒。肩は俺の胸より高かった。尾は九本。数え直した」
「鳴いた?」
「一度も。牙も見せてない」
「触った?」
「触ってない。向こうから近づいてもこなかった」
続いてアレンは、流れ沿いに人間の足跡があり、狐が別方向へ進んだこと、浅瀬を通って白い布と三つの石へ戻ったこと、分岐でも結果として安全な道へ導かれたことを説明した。ミラは途中で口を挟まず、事実と推測が混ざらないよう順番だけを確かめていく。
「狐が安全な道を知っていたと断定はできない」
「うん。でも俺は仲間の道へ戻れた」
ガレムは腕を組み、しばらく森の方角を見た。知らないものを無理に知っている形へ押し込める気はないらしく、やがてアレンへ視線を戻す。
「この周辺で九尾の黒い狐を見た話は、少なくとも俺は知らない。だが今は名前を付ける必要もない。見たものを、そのまま残せ」
アレンもそれでいいと思った。分からないものに先に答えを付ければ、次に何かを見たときまでその答えへ合わせてしまうかもしれない。
◇
昼前、セイルが治療場所からゆっくり歩いてきた。右前脚にはまだ包帯が巻かれているが、昨日より歩き方は安定している。その後ろにはロアとガレムがおり、ロアは細長い包みを持っていた。
「アレン。渡したいものがある」
包みの中に入っていたのは、革と編み紐を組み合わせた丈夫な帯だった。肩へ掛ける部分は柔らかく処理され、両端には荷物を固定する輪があり、使い込まれた革も丁寧に補修されている。
「外を走る奴らが荷物を留める形を、人間用に直した」
ロアが帯をアレンの肩から腰へ斜めに当てた。ケンタウロスが上半身へ荷を固定する帯を元に、昨夜のうちに長さと輪の位置を変えたらしい。
「荷袋をここへ留めれば肩だけに重さが掛からない。全部外せば長い紐にもなる」
ガレムは端の編み紐を示した。荷を縛るだけでなく、枝を束ねたり、怪我をした腕や脚を固定したりする程度には使えるという。
豪華な品ではなかった。旅を続ければ泥や雨で汚れる道具だったからこそ、アレンには受け取りやすかった。
「俺が貰っていいの?」
「いらないなら返せ」
ロアが即座に言い、セイルが呆れた顔をした。贈り物を渡す場面なのに、ロアだけは最後まで妙に素っ気ない。
「そういう言い方しなくていいだろ」
「欲しいって言わせた方が早い」
「欲しいけど」
「なら終わりだ」
アレンは笑いながら帯を受け取った。手にすると見た目より軽く、長く使われた編み紐には柔らかさがあった。
セイルは帯の一部へ指を向けた。そこには小さな結び目が三つ並び、その少し先に一つだけ離れた結び目がある。
「三つは戻れる場所。一つは、まだ知らない道。外を走る奴らが使う目印」
「絶対その意味で使うの?」
「ほどいてもいい」
「じゃあ、ほどかない」
セイルは小さく笑った。ガレムはそれを見てから、これは救出の代金ではないと念を押した。
「お前は旅人で、これからも荷を持って道を歩く。使えるものを渡す。それだけだ」
「……ありがとう」
アレンは迷わず礼を言った。ロアは右肩の傷へ当たらない位置に帯を直し、荷袋を固定する輪の使い方を簡単に教えた。
◇
午後も危険な走路は閉じられたまま、古い目印をすべて確認し直す作業が続いた。人間が関わっていることは確かでも、見た人数がすべてかは分からず、誰の指示で動いていたのかも、捕らえられていた人間の男と獣人の女性がなぜ同じ場所にいたのかもまだ不明だった。
「面倒だな」
作業へ向かう者たちを見てアレンが言うと、隣のミラが肩をすくめた。彼女の手には新しい記録用の木札があり、今日も走路の確認へ加わるらしい。
「もう同じ罠に掛かる方がもっと面倒。それに、道は使う人が信じられなくなったら道じゃなくなる」
その言葉に、森へ入る前に見つけた歪められた目印を思い出した。罠だけでなく、どこを走れば安全なのかという信頼まで奪われていたのだと、今なら以前より分かる。
アレンは肩へ掛けた帯へ触れた。三つの結び目と、その先の一つが指へ当たり、戻る場所と知らない道というセイルの説明を思い出す。
明日には、ここを出るつもりだった。身体は完全ではないが、一日休めば歩けるし、この場所へ長く残る理由もない。
◇
夕方、アレンは借りていた寝床へ戻り、翌日のために荷物を整理した。新しい帯へ荷袋を固定すると、片方の肩へ寄っていた重さが腰へ分散され、数歩歩くだけでも違いが分かる。
最後に金属の羽根が入っている場所も確かめた。森でどれほど奇妙なことが起きても、母から渡された羽根について分かったことは何も増えておらず、黒い狐と関係があると考える理由もなかった。
入口から小さな蹄音が聞こえ、セイルが顔を覗かせた。右前脚を庇いながらも、自分でここまで歩いてきたらしい。
「明日、行くの?」
「そのつもり」
「そっか」
セイルは肩へ掛けた帯を見て、きちんと使えていることを確認すると満足そうに頷いた。昨日までの緊張が抜けたぶん、その表情には年相応の柔らかさが戻っている。
「途中で捨てるなよ」
「ロアみたいなこと言うな」
「ロアが言ってた」
「やっぱりか」
二人は少し笑った。森で最初に会ったとき、セイルはアレンへ前から来るなと警告し、身体へ触れることすら簡単には許さなかった。その彼が今は一人でここまで来て、明日の出発について話している。
「アレン」
「何?」
「見つけてくれて、ありがとう」
アレンはすぐ答えず、血の跡と蹄跡を追った日のことを思い出した。自分が何か特別なことをしたという感覚は薄かったが、セイルにとってはあの場所で誰かが立ち止まったこと自体に意味があったのかもしれない。
「俺も、帰る場所まで一緒に行けてよかった」
セイルは小さく頷いた。正式な別れは明日の朝になるが、旅が再び動き出す時間が近づいていることだけは二人とも分かっていた。
外では夕暮れの草原を蹄音が行き交い、その向こうに深い森が黒い帯のように横たわっていた。あの森にはまだ多くの答えが残り、九本の尾を持つ黒い狐のことも何一つ分かっていない。
それでもアレンは今すぐ森へ戻ろうとは思わなかった。肩の帯へ触れると、三つの結び目と、その先に離れた一つが指へ当たる。戻れる場所と、まだ知らない道。その両方を確かめるように一度握り、アレンは明日から再び続く旅のため、今夜は身体を休めることにした。
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