第二章 第十五話 見えない狩人
深い緑の中へ進むにつれ、五人の歩みはさらに遅くなっていった。前の目印で一度立ち止まった際、踵の欠けた靴跡がなお森の奥へ続き、帰路の布もすべて確認できていたため、ヴァロたちは「次の区切りまで」という条件で探索を続けると決めていた。昼を過ぎても頭上の枝葉は厚く重なったままで、光は森の底まで届かず、湿った落ち葉と黒い土の境目さえ見分けにくい。
踵の外側が欠けた靴跡は完全には消えていなかった。柔らかい土や細い流れの縁では断片的に残り、もう一種類の横線を持つ靴跡も、ときどき少し離れた場所から見つかる。二人が同じ道を進んだのか、時間をずらして通ったのかまでは分からないが、少なくともどちらも森の奥へ向かっていることだけは変わらなかった。
「次の布で一度止まる」
ヴァロが低い声で告げ、前方の太い木へ視線を向けた。帰路を考えれば、ここから先へ進む距離をもう一度決め直す必要がある。
そのとき、アレンは足を止めた。前を歩いていたネアもすぐに気づき、振り返って何も言わず彼を見る。
「どうした?」
「……分からない」
自分でも答えが曖昧だった。何かを見たわけでも、明確な音を聞いたわけでもない。ただ、少し前から森の音の重なり方が変わっている気がした。
アレンはすぐに周囲を見回さず、その場で呼吸を整えた。ラークホロウで剣を習っていた頃、視界へ何かを探そうと焦るほど一つの方向しか見えなくなると何度も教えられている。先に足元を確かめ、次に自分たちの位置、そのあとで音と風を分けて拾うよう意識した。
「止まって」
声を大きくせず伝えると、ロアもミラも動きを止めた。誰も理由を急かさず、ヴァロだけが僅かに身体を低くして森の奥へ耳を向ける。
最初に聞こえたのは、葉から水滴が落ちる音だった。次に遠くで小さな鳥が鳴き、そのさらに奥では枝同士が風に擦れている。どれも森へ入ってから何度も聞いてきた音だったが、右後方だけ妙に静かだった。
「右の後ろ」
アレンが囁くと、ロアが反射的に振り返ろうとした。アレンはすぐにそれを止め、まだ気づいたことを相手へ悟らせる段階ではないと小声で続ける。
「見ないで」
「何でだ」
「まだ何も見つけてない。こっちが気づいたって分からせたくない」
ロアは不満そうに口を閉じたものの、身体は動かさなかった。ミラも木札へ手を伸ばさず、そのまま耳だけを澄ませる。
数秒後、右後方で何かが擦れた。大きな音ではなく、乾きかけた葉が一枚だけ引かれたような短い音だった。ヴァロの耳が鋭く動き、隣のロアも同じ方向へ意識だけを向ける。
「今のは聞こえた」
「俺も」
ロアの声から冗談が消えた。アレンはようやく視線だけを少し横へ動かしたが、木々の間には暗い幹と蔓しか見えなかった。
◇
五人はその場からすぐには動かなかった。森の中で何かに気づいたからといって、正体も方向も分からないまま逃げ出せば、自分たちから足場の悪い場所へ飛び込むことになる。
「獣かもしれない」
ネアが言った。
「人かもしれない」
ロアも返したが、ヴァロはどちらにも頷かなかった。今聞こえたものだけでは判断できず、どちらかを前提に動けば逆に危険だという。
「戻る?」
ミラが尋ねると、ヴァロは少し考えた。来た道をそのまま引き返すこともできるが、背後に何かがいるなら、自分たちからその方向へ近づくことになる。
「まず位置を変える。帰り道は捨てない」
ヴァロは前方左側の、木々の間隔が少し広い場所を示した。そこなら五人が一か所へ固まりすぎず、ケンタウロスたちも身体の向きを変えられる。
アレンは前へ出なかった。自分の方が狭い場所を通りやすいからといって、今の状況で一人だけ先へ進めば、森へ入る前にガレムと交わした約束を自分から破ることになる。
「ネア、先を見られる?」
「見られる。ヴァロと行く」
「俺は?」
ロアが聞くと、ヴァロは後方を任せた。ミラは中央、アレンはその少し前に置き、全員が互いを視界から外さない形でゆっくり移動を始める。
十歩も進まないうちに、アレンはもう一度違和感を覚えた。先ほど静かだった右後方とは反対に、今度は左側で小さな枝が揺れている。
「止まらないで」
アレンは歩きながら小声で告げた。全員が同じ速度を保ったまま、誰も左を見なかった。
「左にもいるのか?」
ロアが低く聞く。
「分からない。でも、さっき右で音がしたあと、今は左が動いた」
「回ってる?」
「そうかもしれない。でも、決めない」
口にした瞬間、自分でも少し奇妙に感じた。ここ数日ずっと、見たことと推測を分け続けてきたせいで、危険な森の中でも同じ言葉が自然に出ている。ミラも歩調を崩さず、小さく息を吐いてからその判断に同意した。
「今はそれでいい。分からないものを一人で決めない方がいい」
五人は少し開けた場所へ移動すると、背後を太い木々で狭め、正面と左右を見渡せる位置へ止まった。完全な安全地帯ではないが、少なくとも四方すべてを同時に警戒する必要は減る。
◇
そこで初めて、アレンは周囲をじっくり観察した。木の幹、根元、低い枝、落ち葉の色、草の向き、光の切れ目を順番に見ていき、最初から人影だけを探さないようにする。
訓練では、相手の身体より先に「相手がいたことで変わったもの」を見ろと教えられていた。足跡、折れた枝、踏まれた草、呼吸で揺れた葉、地面へ落ちた小さな土。それらは剣を持った相手より先に存在を教えることがある。
木の根元で、アレンは一枚だけ裏返った葉を見つけた。周囲は湿って色が暗いのに、その葉の裏だけ薄く白っぽく見えている。
「ミラ。あそこ」
「近づかないで見よう」
ミラは位置だけを確認し、ヴァロにも示した。葉のすぐ横には浅い窪みがあり、人間の靴跡のようにも見えるが、輪郭は崩れていて断定できない。
「新しい?」
「土はまだ湿ってる。でも、この森なら乾くのが遅い」
ネアの答えに、アレンは頷いた。新しく見えることと、本当に自分たちのすぐ前についたことは同じではない。
さらに木の幹を見ていくと、地面から肩ほどの高さに細い擦れが残っていた。樹皮が新しく剥がれたように明るく、その下には細かな木屑がまだ落ちている。
「動物?」
「角ならもっと深く削れる」
ヴァロはそう言ったあと、自分の言葉も断定ではないと付け加えた。荷物や武器が触れただけでも同じような痕は残る可能性がある。
ロアは森の暗がりを睨んだまま、短く息を吐いた。ここまで複数の違和感が重なれば、何かが近くを通った可能性までは否定しにくかった。
「何かいるだろ、これ」
「何かが通ったのは確かだと思う」
アレンはそう答えながら、木々の奥へ視線を移した。痕跡があることと、今この瞬間にも誰かがこちらを見ていることは別だと、自分に言い聞かせる。
「でも、今もいるかはまだ分からない」
その直後、遠くで鳥が一斉に飛び立った。羽音が重なって枝葉が大きく揺れ、五人全員が反射的にそちらへ意識を向ける。
「何か動いた」
ネアが囁いた。
「大きさは?」
「見えてない」
誰も追わなかった。森の中で一瞬の音だけを頼りに横道へ入れば、戻るための布から離れることになる。
◇
ヴァロはそこで今日の進み方を変えた。足跡を一直線に追うのではなく、帰路の目印を失わない範囲だけを確認し、次の布を結ぶたびに周囲を一度止まって調べることにする。
アレンも自分から前へ出るのをやめ、少し後ろへ下がった。先頭にいれば足跡は見つけやすいが、今は自分たちの後方や左右で起きる変化を見た方が役に立つかもしれない。
「珍しいな」
ロアが小さく言った。
「何が?」
「前に出ないの」
「出るなって何回も言われたから」
「やっと覚えたか」
「最初から聞いてたよ」
短いやり取りをしても、ロアの目は笑っていなかった。会話で緊張を散らしながらも、耳は森の音を拾い続けている。
しばらく進むと、踵の欠けた靴跡が再び見つかった。そこから数歩先には、横線の靴底も残っている。二種類の跡は今までと同じように森の奥へ続いていたが、その近くに三つ目の人間らしい足跡が一つだけあった。
「これ、前からあった?」
アレンが尋ねると、ミラは首を横へ振った。形が浅すぎて靴底の特徴までは分からず、同じ人物が違う角度で踏んだ可能性もあるため、三人目だと決めることはできない。
「数は増やさない」
「分かった」
アレンはその場で結論を止めた。見つけたものが増えるほど、何かを理解した気になりやすいが、実際には分からないことも増えている。
次の布を結んだところで、ヴァロが立ち止まった。日が傾くまでにはまだ時間があるものの、前の目印で決めた確認範囲はすでに越え始めており、帰路を考えればここが今日の限界だった。
「ここで戻る」
ロアは即座に顔を上げ、まだ続いている足跡へ視線を向けた。進みたい気持ちは隠していなかったが、ヴァロの判断を遮るほどではない。
「跡は続いてる」
「だからこそ戻る。今日は、森の中に痕跡が続いてることを確認した。これ以上は別の判断になる」
ロアは何か言いかけたが、ガレムと決めた条件を思い出したのか口を閉じた。ミラも地図へ現在位置を記録し、帰る方向を確認する。
◇
帰路へ向きを変えてから、森は行きより静かに感じられた。自分たちが警戒しているせいでそう思うだけなのか、本当に周囲の音が減ったのか、アレンには分からない。
最初の布を確認すると、結び目の向きも位置も合っており、誰かが触れた様子はなかった。二つ目も同じ状態で残っていたため、ヴァロは歩調を変えず、次の目印へ向かう。
三つ目へ近づいたところで、ネアが突然速度を落とした。視線の先にあるはずの白い布が見当たらず、全員の動きもすぐに止まる。
「……布がない」
ヴァロはすぐ木の幹を確認し、結んだはずの高さへ視線を走らせた。場所を間違えた可能性を考え、周囲の根と幹の位置まで見比べる。
「ここで合ってる?」
「合ってる。俺が結んだ」
枝にも地面にも布は見当たらなかった。風で外れた可能性もあるため、アレンたちは周囲を狭い範囲だけ確認したが、白い布はどこにも落ちていない。
「動物が持っていった?」
ロアが聞く。
「あり得る」
ヴァロは答えたが、その声は硬かった。結び方は簡単に外れないよう統一しており、枝へ引っ掛けただけではない。
アレンは木の幹へ近づかず、少し離れた位置から結び目があった場所を見た。樹皮には細い擦れが残り、そのすぐ下に短い糸が一本だけ引っ掛かっている。
「切れたんじゃない」
ミラが糸を見て言った。
「ほどかれた?」
「それもまだ分からない」
アレンは答えながら、背中へ冷たい感覚が走るのを抑えた。誰かが外したと決める証拠はない。それでも、自分たちが帰路のために残した目印が一つだけ消えているという事実は、無視できなかった。
ヴァロは予備の布を同じ場所へ結び直し、今度は全員に位置を覚えさせた。帰る順番も変え、ネアとヴァロを前、ミラを中央、アレンとロアを後方へ置く。
歩き始めてから、アレンは何度も振り返りたくなった。しかし、闇雲に後ろばかり見れば足元がおろそかになるため、決めた間隔でだけ確認する。
最初の確認では何も見えず、二度目に振り返ったときも木々の間には誰もいなかった。それでも三度目に視線を戻した瞬間、遠くの枝が僅かに揺れ、すぐに元の位置へ戻る。
風かもしれなかった。獣かもしれなかったし、自分たちとは関係のない何かだった可能性もある。だが、ここまで重なった違和感を前にして、アレンはもう「何もいない」と決めることもしなかった。
何者かの姿を一度も見ることができないまま、五人は帰路の印を一つずつ確かめた。背後の森から聞こえる小さな音を互いに伝えながら、誰も単独で確認へ向かわず、深緑の中を慎重に戻り始めた。
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