第二章 第十四話 深緑の境界
出発の朝、東の空にはまだ薄い灰色が残っていた。草原を渡る風は冷たく、夜露を含んだ草の先が淡い光を受けて揺れている。アレンが広場へ着いたときには、ロアとミラ、それから森の外縁に詳しい二人のケンタウロスがすでに荷物を確認していた。
同行する二人のうち、赤茶色の馬体を持つ年上の男はヴァロ、淡い砂色の馬体と短い黒髪を持つ女性はネアと名乗った。二人とも外縁の薬草地や水場へ何度も入った経験があり、森そのものには詳しくないものの、少なくとも入口までの地形と戻るための道は知っているという。
ガレムも見送りのため広場へ来ていた。地図を広げることはせず、全員へ昨日決めた条件を改めて確認し、まずロアへ釘を刺したあと、アレンにも同じ慎重さを求める。
「森へ入ること自体が目的じゃない。まず靴跡を確認する。痕跡が続いているなら追えるところまで追うが、戻れなくなるまで進むな」
「分かってる」
「お前も同じだ、アレン。似ていると思っても、その場で一人だけ先へ行くな」
「約束します」
「なら行け。日が傾く前に、一度戻るかどうかを決めろ」
アレンは頷き、肩へ掛けた荷物を直した。腰の剣はいつでも抜ける位置にあるが、森へ入る前から手を掛けるつもりはない。昨日までと同じように、自分が知っていることと知らないことを混ぜないためにも、最初に見るべきものは敵ではなく足元の痕跡だった。
広場の端にはセイルの姿もあった。右前脚へ体重を掛けすぎないよう治療役の女性がすぐそばに立っており、本人も今日は見送るだけだと分かっているらしい。
「絶対、無茶するなよ」
「それ、お前に言われるのか?」
「俺は怪我してるから言えるんだよ」
アレンが笑うと、セイルも少しだけ口元を緩めた。けれど次に東の森へ目を向けたとき、その表情から笑みが消える。
「……帰ってきて」
「そのつもりだ」
見つけてくるとも、必ず誰かを連れ戻すとも約束しなかった。言えるのは、自分たちが戻るつもりで入るということだけだった。
◇
五人はまず、昨日安全を確認した内側の走路を使って北東へ向かった。閉鎖された外縁の道には白い布が残され、朝の光の中でも遠くからはっきり見えている。普段なら水場へ向かう者たちが走る時間だったが、迂回路へ流されたため、外側の草原は不自然なほど静かだった。
森が近づくにつれ、草の高さと地面の感触が変わっていった。乾いて硬かった走路には湿り気が増え、低い灌木が広い道の両側から少しずつ迫ってくる。さらに先では一本一本の木が太くなり、その隙間を埋めるように若い樹木と蔓が重なっていた。
「ここから先は走るな」
ヴァロが速度を落とし、全員へ声を掛けた。まだ森の中ではないが、根が地表へ現れ始めており、草に隠れた窪みも増えている。
「普段もここまで?」
「薬草採りなら、もう少し先まで行く。水場へ行くなら南へ曲がる」
ヴァロは右前方の細い道を指した。そちらには何度も蹄が通った跡が残っているが、昨日報告された靴跡はさらに東へ続く古い草道で見つかったという。
数分後、ネアが手を上げた。誰も前へ出ず、彼女が示した湿った地面へ外側から視線を向ける。
「ここ」
土の上には複数の跡が残っていた。古い蹄跡や小動物の足跡に混じり、人間の靴底らしい形が二種類、木々の方角へ続いている。
アレンはしゃがまず、跡を踏まない距離から形を見た。一つは踵の外側が僅かに欠け、体重が掛かるたびにそこだけ輪郭が途切れている。もう一つには靴底を横切る細い溝が何本かあり、柔らかい土では平行した線として残っていた。
「どうだ」
ロアが聞いたが、アレンはすぐには答えなかった。セイルの血痕を追ったときに見た形を思い出し、目の前の跡と一つずつ比べる。
「かなり似てる。特にこっちの、踵が欠けてる方」
「同じ奴か?」
「そうだとは言い切れない。でも、俺が見た跡と違う特徴は今のところ見つからない」
ミラはその言葉を木札へ記録した。『同一』とは書かず、『特徴一致』として残し、二種類の靴跡が東へ向かっていることも別に記した。
ガレムが決めた最初の確認条件は、ここで満たされた。靴跡は森の手前で消えず、少なくとも人間二人分に見える痕跡が実際に木々の間へ続いているため、ここから先は森の入口でその続きを確かめ、さらに進むかを慎重に判断する必要があった。
「入るぞ」
ロアはそう言うと、すぐにヴァロへ視線を移した。ここから先では自分より森の入口を知る相手へ先導を任せるべきだと理解しているようだった。
「順番は?」
「俺が先。ネア、アレン、ミラ。ロアは後ろを見ろ。狭くなったら変える」
草原では自然に先頭へ立つことの多かったロアも異論を挟まなかった。ここでは速さより、森の入口を知っているヴァロの判断を優先する方が安全だった。
◇
森へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。背後では朝の光を受けた草原がどこまでも広がっていたのに、数歩進んだだけで頭上の枝葉が重なり、光は細い筋になって地面へ落ちるようになった。風も完全に消えたわけではないが、木々に遮られて流れが乱れ、葉の裏を撫でる小さな音だけが複雑に重なっている。
地面には落ち葉が厚く積もり、その下から太い根が何本も隆起していた。人間のアレンなら跨げる高さでも、四本の脚を持つロアたちは前脚と後脚を順番に置く必要があり、草原のような歩幅では進めない。
「本当に走れないな」
「だから嫌なんだよ、森は」
ロアは苛立ったように答えたが、速度を上げようとはしなかった。すぐ横には倒木があり、その反対側には低い枝が張り出している。身体の向きを変えるだけでも、人間より広い空間が必要だった。
アレンは前にいるネアとの距離を一定に保ちながら進んだ。自分の方が木々の隙間を通りやすいからといって、勝手に先行すれば同行している意味がなくなる。枝を避けやすい場所を見つけたときも、まず前の二人へ伝え、全員が通れるかを確認してから進路を変えた。
「右の方が広い。でも根が多い」
アレンが言うと、ヴァロは両方を確かめた。少し考えたあと、根の少ない左側を選び、その代わり低い枝を一本だけ持ち上げてロアたちが身体を通せるようにする。その様子を見ていたネアは、自分も枝を避けながら僅かに口元を緩めた。
「人間がいると、こういう時は便利だな」
「褒められてる?」
「今のところは」
短いやり取りのあと、すぐ全員の注意は足元へ戻った。冗談を続けられるほど道は楽ではなく、少し進むたびに木の根、柔らかい泥、倒れた枝のどれかが進路を狭めていた。
◇
森へ入ってから、人間の靴跡は何度も途切れた。乾いた落ち葉の上では形が残らず、硬い根の周囲では何も見えないため、そのたびに五人は立ち止まり、少し広い範囲を確認して次の跡を探した。
最初のうちは二種類とも同じ方向へ進んでいた。片方だけが大きく逸れた形跡はなく、少なくとも入口付近では二人が近い経路を通ったように見える。
「こっち」
ミラが低い声で呼んだ。湿った土の小さな窪みに、踵の欠けた靴跡が半分だけ残っている。
その数歩先にはもう一方の横線を持つ跡もあった。完全な形ではないが、二種類とも森の奥へ向かっていることは確認できる。
ヴァロは近くの幹へ細い布を結んだ。元の草道へ戻れるよう一定の間隔で目印を残すことになっており、結び目の向きまで統一して、帰路から見たときに分かるようにしてある。
「これを見失ったら戻る」
「足跡が続いてても?」
「戻る。追うことと帰れることは別だ」
ヴァロの答えに、アレンは素直に頷いた。痕跡を見つけたからといって、どこまでも進んでいい理由にはならない。
さらに奥へ進むと、初めて人間以外の大きな跡が見つかった。細い流れを横切る泥の中に、蹄の形が一つ深く残っている。
ロアが前へ出かけたが、すぐ足を止めた。誰のものか分からない以上、近づいて崩すべきではないと自分で判断したようだった。
「ケンタウロスの跡だな」
「大きさはそう見える」
ネアが答え、周囲を確認した。少し離れた場所にも浅い跡が二つあるが、落ち葉に崩されており、一人分なのか複数なのかまでは分からない。アレンが失踪した三人の誰かではないかと尋ねると、ミラはすぐに首を横へ振った。
「まだ分からない。森の手前まで来る者はいるから」
「でも、ここは普段来る場所?」
「入口からは少し深い。薬草を探して入り込むことが絶対ないとは言えないけど、普通に通る道ではないよ」
ミラは蹄跡の位置だけを記録し、失踪者とは結びつけなかった。人間の靴跡と近い場所にあるという事実は残せるが、その二つが同じ時間に付いたものかさえ分からない。
◇
昼近くになる頃には、草原の光はほとんど見えなくなっていた。振り返れば木々の隙間から白く明るい方向が分かるものの、どこから森へ入ったのかを目だけで正確に探すことは難しくなっている。
五人は比較的開けた場所で一度立ち止まり、水を飲んだ。ヴァロはここまでに残した布の数を確認し、戻る時間を考えれば、今日さらに進める距離はそれほど長くないと判断する。
「あと少しだけ見る。次の目印を付けるところで一度決める」
「分かった」
ロアも今度は急かさなかった。失踪した仲間を思えば進みたい気持ちはあるはずだが、森に入ってから、自分たちの身体が草原ほど自由に動かないことを誰より強く感じているのだろう。
休憩を終えて歩き始めると、道らしい形はさらに薄くなった。木々の間隔が狭まり、根と岩が入り混じる地面では、ヴァロも何度か進路を選び直さなければならない。
その先で、アレンは地面へ残る僅かな違和感に気づいた。落ち葉が細長く押し分けられ、その中央だけ湿った土が見えている。
「待って」
全員が止まった。アレンは近づかず、少し横へ位置を変えてから形を確かめる。
そこには踵の外側が欠けた靴跡が残っていた。入口で見たものより輪郭は薄いが、同じ位置だけ形が途切れている。
「まだ続いてる」
ロアが言うと、アレンは頷いた。ただし、その先に誰がいるかまで分かったわけではない。
ヴァロは少し先へ目を向け、次の布を結べる太い木を探した。そこから先は、入口付近よりさらに木々が密集し、昼間にもかかわらず地面へ届く光が急に少なくなっている。
草原と森の境界は、もう背後へ遠ざかっていた。けれどアレンには、目の前にもう一つ別の境界があるように感じられた。ここまでは外から来た者でも注意すれば戻れる森だったが、その先には、草原の速さも広さもほとんど役に立たない深い緑が続いている。
足跡は、その暗さの中へ消えずに続いていた。五人は帰るための印を一本ずつ残しながら、草原では得られなかった答えがあるかもしれない森の奥へ、慎重に歩みを進めていった。
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