第二章 第十三話 森へ入る理由
翌朝、広場の低い机には昨日より多くの木札が並んでいた。南の走路、北東の水場、セイルが襲われた地点、向きを変えられていた道標、そして二つの失踪区域で見つかった同型の仕掛けが、それぞれ別の印として地図へ書き込まれている。どの印も線で結ばれてはいなかったが、増えた記録を前にすると、草原の外側で何かが起きているという感覚だけは昨日より強くなっていた。
アレンが広場へ着いたとき、ガレムとミラ、ロアのほかに、外縁の走路を確認していた管理役たちも集まっていた。セイルの姿はなく、治療役の判断で今朝も右前脚を休ませているらしい。ガレムは全員が揃ったことを確かめると、地図の東側に置かれた新しい木札を一枚取った。
「夜明け前、閉じた走路をもう一度見に行った者がいる。新しく見つかったものがある」
木札には、アレンには読めない短い印がいくつか刻まれていた。ミラが地図の北東側を指し、昨日向きを変えられていた道標からさらに外側へ進んだ場所に、もう一本の古い目印があることを説明する。
「こっちも向きが変えられてた。本来は草原へ戻す印なのに、東を向いてる」
「東には何がある?」
アレンが尋ねると、ロアの表情が険しくなった。地図の端へ描かれている濃い緑の部分を指し、その先に広がるものを短く答える。
「森だ」
昨日までアレンがただ色の違う区域として見ていた場所だった。草原の東側には広大な森林があり、外縁の古い走路の一部は、その手前まで続いているという。
「普段は使わない道なのか?」
「森の手前までは使う。薬草を採る場所もあるし、小さな水場もある。でも奥へ行く奴はほとんどいない」
ロアはそこで言葉を切り、森の危険を知らないアレンへ視線を向けた。獣が多いだけではなく、樹木が密集しているためケンタウロスには走りにくく、開けた草原ほど周囲を見渡せない。四本の脚で速度を出せることが彼らの強みである一方、狭い森の中ではその身体そのものが不利になる場所もあるらしい。
ガレムは、向きを変えられた二本目の目印から先へ、古い草道が東へ続いていることを説明した。ただし、その道を誰かが実際に通ったのか、失踪した三人が森へ向かったのかまでは確認できていない。
「今分かっているのは、誰かが外側の道へ罠を置いたことと、少なくとも二つの道標へ手を加えたことだ。道標の向きはどちらも、最終的には東側へ進みやすくなる」
「森へ誘導してる?」
「そう見える可能性はある。だが、まだそうだと決める材料は足りない」
ガレムの答えは昨日までと変わらなかった。何かが疑わしく見えることと、それを事実として扱うことは別であり、森へ繋がるというだけで失踪者までそこにいると決めることはできない。
◇
南の走路で最後に確認された一人は、その日のうちに草原へ戻る予定だった。北東の水場へ向かった二人も泊まりの準備はしておらず、日が落ちる前には戻る予定だったという。三人とも長期間外へ出るつもりではなく、自分から何日も姿を消す理由が確認されていないことを、ミラは一つずつ記録を確かめながら説明した。
「三人が一緒だったわけじゃないんだな」
「違う。南の一人と北東の二人は別だよ」
「最後に見た人は?」
「南は走路の分かれ目。北東の二人は水を運ぶ容器を持って、水場へ向かうところを見られてる。それより先は分からない」
アレンは地図を見下ろした。二つの失踪区域を直接結ぶ線はなく、それぞれの近くで同型の罠が見つかったからといって、失踪の原因まで同じだとは限らない。それでも、外側の道が人為的に変えられ、その先に普段あまり入らない森があるという事実は無視できなかった。
「森の手前だけ確認するなら、昨日みたいに走路を調べればいいんじゃないか?」
アレンの問いに、管理役の一人が首を横へ振った。草原の中なら道を広く迂回しながら仕掛けを探せるが、森へ近づくほど木々が増え、道の外側を大きく回ることが難しくなるという。
「それに、走れない」
ロアが続けた。危険を見つけても草原のように一気に距離を取れず、狭い場所で前後を塞がれれば、ケンタウロスにとっては逃げることさえ簡単ではない。
「だから、森へ入るなら理由がいる。ただ気になるから行く場所じゃない」
その言葉を聞き、アレンは何も言わず地図へ視線を戻した。自分が森に慣れているわけでもなければ、失踪者を必ず見つけられる技術を持っているわけでもない。知らない土地へ勢いだけで入り込むことが勇気ではないということは、旅に出てから何度も思い知らされていた。
しばらくして、広場の外から蹄音が近づいた。治療所にいるはずのセイルが、灰色の馬体を持つ年配の女性に付き添われ、右前脚を庇いながらゆっくりこちらへ向かってくる。
「セイル、何してる」
「歩いていいって言われた。少しだけ」
ロアがすぐに近づこうとしたが、セイルは自分で止まれる位置まで進んでから立ち止まった。治療役の女性も無理をさせるつもりはなく、話が終わればすぐ戻すという顔をしている。
「昨日、罠を見たって聞いた」
セイルは地図へ目を向けたあと、自分の右前脚を一度見下ろした。包帯の下に何が残っているのかを思い出したのか、耳が僅かに伏せる。
「俺の脚の跡と同じだった?」
ガレムはすぐに答えなかった。似ている部分はあるが、同じ仕掛けに掛かったと証明されたわけではないことを、曖昧にせず伝える。
「お前の脚には輪のような擦れが残っている。見つかった罠も脚へ輪を掛ける形だった。ただし、お前がそれに掛かったとまでは言えない」
「……分かった」
セイルは不満そうではなかった。むしろ、自分の記憶より先に周囲が答えを決めなかったことへ少し安心したように見えた。
「森の方に行くの?」
「まだ決めてない」
ロアの返事を聞き、セイルは少し黙った。やがてアレンではなくガレムへ向き直り、失踪した三人のことを尋ねる。
「まだ誰も戻ってない?」
「ああ」
「じゃあ、探さないの?」
「探す。そのために、どこを探すか決めている」
ガレムは静かに答えた。探すこと自体を迷っているのではなく、根拠のない場所へ人を送り込み、さらに戻れない者を増やさないために止まっているのだと説明する。
セイルはその言葉を聞くと、それ以上急かさなかった。自分が戻れたからこそ、まだ戻っていない者たちのことが気になるのだろうが、その気持ちだけで誰かを危険へ押し出してはいけないことも分かっているようだった。
◇
昼前、外縁を確認していた別の二人が戻ってきた。森の手前まで続く古い草道で、人間の靴跡らしいものを見つけたという報告だった。
全員の空気が変わったが、ガレムはすぐ人数や目的を尋ねることはしなかった。まず、どの程度残っているのか、いつ頃のものか判断できるのかを確認する。
「古いのも混ざってる。はっきり残ってるのは二種類だと思う。ただ、途中で土が硬くなって消える」
アレンはその説明を聞き、顔を上げた。セイルを見つけた場所にも、人間の靴跡は二種類残っていた。
「形は分かる?」
「一つは踵の外側が欠けてる。もう一つは底に横の線が何本かある」
最初の特徴に、アレンは覚えがあった。セイルの血痕を追ったとき、二種類のうち片方には踵の端が崩れたような跡があり、何度か同じ形が土へ残っていた。
「セイルのところにあった靴跡の一つも、踵の外側が欠けてました」
ロアがすぐアレンを見る。ガレムも地図から顔を上げたが、アレンは続けて言葉を足した。
「同じ人だとはまだ言えません。似た傷の靴もあるかもしれない。でも、俺が見た跡なら、並べれば違いくらいは分かると思います」
「覚えているのか?」
「全部じゃないです。でも、自分で追った跡だから、普通の靴跡よりは覚えてます」
ガレムはしばらく考え込んだ。セイルの事件地点から直接森まで足跡が続いているわけではなく、途中には記録できていない区間がある。それでも、森へ続く古い道に似た特徴の靴跡が残っているなら、確認する理由としては昨日までより強くなっていた。
「午後は入らない」
ガレムがそう告げると、ロアが反論しかけた。しかし、その理由を聞く前に口を閉じる。
「森の中で日が落ちれば、戻る方が危険になる。入るなら明日の朝だ」
「じゃあ、行くんだな」
「森の入口から、靴跡が続くかを確認する。痕跡がなければ無理に奥へ進まない。失踪者のものだと分かる痕跡があれば、その時点で次を決める」
それは救出のために闇雲に森へ飛び込む決定ではなかった。確かめる範囲を決め、戻る条件まで先に定めたうえでの捜索だった。
アレンは地図の森を見つめたあと、ガレムへ声を掛けた。
「俺も行かせてください」
ロアがすぐに眉を寄せたが、ガレムは理由を聞くだけだった。
「なぜだ」
「セイルのところで靴跡を実際に見たのは俺です。森の手前にある跡が同じか違うか、確認する役には立てると思います」
「それだけか?」
アレンは少し考えた。格好のいい理由を作ろうと思えば作れたが、自分でも信じていないことを口にする必要はなかった。
「三人を俺が助けなきゃいけないとは思ってません。俺が行けば見つかるとも思ってないです」
ロアは黙ったままアレンを見ている。アレンは視線を逸らさず、今の自分が選んでいる理由だけを続けた。
「でも、セイルを見つけて、途中までこのことに関わった。俺が知ってる情報が役に立つなら、ここで知らないふりをして先へ行くより、確認するところまでは手伝いたい。それに、俺一人で勝手に森へ入るつもりもありません」
ガレムはすぐには返事をしなかった。アレンが責任感だけで自分を危険へ押し込もうとしているのか、それとも自分のできる範囲を理解したうえで言っているのかを見極めるように、しばらくその顔を見ていた。
「途中で戻れと言ったら戻るか」
「戻ります」
「失踪者を見つけても、お前一人で追わないか」
「追いません」
「ロアたちの判断を無視して動かないか」
「約束します」
アレンの返事を聞いたガレムは、最後まで表情を変えずに彼を見つめた。しばらくして、その答えに迷いがないと確かめたように、小さく頷いた。
「なら同行を認める」
◇
午後は森へ入るための準備に使われた。ガレム自身は草原へ残り、外側の走路と捜索全体の連絡をまとめることになり、森へ向かう者にはロア、ミラ、道に詳しい二人のケンタウロス、そしてアレンが選ばれた。
誰も長期の探索を前提にはしていなかった。水と食料は一日分より少し多めに持ち、印を残すための布、傷を負った場合の手当て道具、地図を書くための木札を分けて携帯する。森の中ではケンタウロスが一斉に走れないため、先頭と後方を固定せず、地形に応じて順番を変えることも決められた。
「火は?」
アレンが尋ねると、ミラが首を横へ振った。森の中で煙を上げれば遠くから位置が分かるうえ、乾いた場所では火を広げる危険もあるため、緊急時以外は使わないという。
「剣は抜いていいんだな」
「必要ならな」
ロアはそう答えたあと、少し間を置いた。
「ただし、一人で前へ出るな」
「分かってる」
「昨日から何回も言ってるけど、本当に分かってるんだろうな」
「たぶん今は、お前より俺の方が聞き慣れてる」
ロアは一瞬だけ何か言い返そうとしたが、結局鼻を鳴らして荷物の確認へ戻った。最初に会ったときの刺すような敵意はまだ完全には消えていない。それでも、今はアレンをただの不審な人間ではなく、明日同じ場所へ入る一人として扱い始めていた。
準備が終わる頃には、東の空が夕暮れの色へ変わっていた。草原の向こうには、遠くからでも分かるほど濃い森林の影が横たわり、開けた土地との境目を黒い壁のように塞いでいる。
アレンはその森を見ながら、自分が明日そこへ入る理由をもう一度確かめた。勇者だからでも、知らない誰かの命をすべて背負うと決めたからでもない。自分が見た痕跡があり、自分に確認できることがあり、それを必要としている者たちがいるから、今はそこまで手を貸すと選んだだけだった。
それ以上のことは、まだ決めていない。森の中に何が残っているのかも、戻ってこない三人が本当にその先へいるのかも分からないまま、アレンは翌朝の出発に備えて東の暗い境界から目を離した。
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