第二章 第十二話 残された罠
翌朝、アレンが広場へ出ると、外縁へ続く二本の走路には昨日までなかった白い布が結ばれていた。危険区間へ入らないよう一時的に閉じた印で、遠くからでも分かるよう低い柱へ三枚ずつ重ねてある。普段なら朝から水場や放牧地へ向かう者が使う道だけに、行き先を変えるケンタウロスたちの姿は多く、誰も大声で不満を言わない代わりに、草原全体へ落ち着かない空気が広がっていた。
ガレムは昨日の地図を広場の端へ置き、アレンが来ると北東の水場へ向かう走路の一点を指した。昨夜、道を閉じるために確認へ出た管理役が、昨日見つけたものより形の残った仕掛けを見つけたという。誰も触れず、その周囲だけを避けて印を置いてあるため、今日は構造を確かめることになった。
「昨日の杭と同じものですか?」
「似ているらしい。だが、残り方が違う。何のためのものか判断できるかもしれない」
「セイルは?」
「治療所だ。今日は立つ時間も減らしてる」
ロアが答えた声には不満より安堵が混じっていた。右前脚の傷は悪化していないものの、戻ってきたからといってすぐ以前と同じように動けるわけではなく、年配の治療役から休むよう強く言われているらしい。
一行は昨日より少ない五人で出た。ガレム、ミラ、ロア、走路管理を任されている年配の男、そしてアレンである。アレンは今回も自分から同行を求めたわけではなく、昨日の現場を見た者として、見つかった仕掛けとセイルの事件地点に共通するものがないか確認するため呼ばれていた。
◇
北東の水場へ続く走路は朝露を残したまま静まり返っていた。普段なら蹄で踏まれて乾き始める時間だが、閉鎖の印より先には新しい足跡がほとんどなく、昨日まで繰り返し使われていた古い蹄跡だけが土へ重なっている。ガレムたちは印の位置から道の外側へ回り、草を踏み荒らさないよう一列になって進んだ。
仕掛けは、走路が僅かに狭くなる場所に残されていた。一見すると倒れた草と小さな枝しか見えないが、管理役の男が細い棒で位置を示すと、草の根元に暗褐色の革紐が一本、地面とほとんど同じ高さで伏せられていることが分かった。革紐の両端は道の外へ伸び、片側は低い杭へ結ばれ、もう片側は土の中へ隠されている。
「踏むな。中央にも何かある」
管理役の男は道へ入らず、外側から土の表面を確かめた。革紐の少し手前には薄い板のようなものが埋められ、その上だけ土が新しかった。板は人間の足裏よりかなり小さく、細長い楕円に近い形で、走路に残る蹄跡とほぼ同じ幅だった。
「これを踏むと?」
アレンが尋ねると、男はすぐ答えず、長い棒の先へ石を縛った。人が直接触れなくてもいいよう十分に離れた位置から棒を伸ばし、石だけを埋められた板の上へ静かに載せる。
最初は何も起こらなかった。ところが石へ少しずつ力を掛けると板が僅かに沈み、土の中から乾いた音がした。その瞬間、地面へ伏せられていた革紐が跳ね上がり、輪になって石の横を締める。勢いは強くなかったが、輪の一端は低い杭へ繋がったままで、前へ進もうとすればするほど締まる向きになっていた。
ロアの表情が変わった。アレンも、ただ転ばせるために道へ縄を張ったものではないことを理解した。歩いている人間なら足元の異常へ気づいて止まれる可能性があるが、速度を出したケンタウロスの前脚がここへ入れば、身体は止まらないまま一本の脚だけを強く引かれる。
「これ……走ってるときに掛かったら」
「前へ持っていかれる」
管理役の男は短く答え、仕掛けへ近づかないまま走路に残る蹄跡を示した。ケンタウロスが速度を上げると、前脚が地面を捉えた直後にも後脚は身体を押し続ける。一本だけが固定されれば、単に足を取られるのではなく、自分の勢いそのものが脚へ負担を掛ける。
「人間を捕まえる形じゃない」
ミラが低く言った。板の幅、輪の位置、杭までの距離を順番に見たあと、今度は道に残る平均的な蹄跡との間隔を確認する。
「少なくとも、人間の足を基準にはしてない」
ガレムはまだ断定を急がなかったが、その声は昨日より重かった。偶然道へ捨てられた革紐でも、獣を捕らえるために適当に仕掛けた罠でもない。ケンタウロスがどこへ脚を置き、どの程度の幅で走るかを考えなければ、この位置には作れないものだった。
◇
仕掛けを外す前に、ミラは位置と寸法を木札へ記録した。板から革紐までの距離、杭の高さ、走路中央からのずれ、周囲の蹄跡の幅まで一つずつ残し、管理役の男も別の札へ同じ内容を書いた。記録が終わると革紐を緩め、土を少しずつ退けながら中の構造を取り出していく。
板の下には細い木片が斜めに組まれ、その先へ革紐が引っ掛けられていた。狭い範囲へ強く荷重が掛かると木片が外れ、土の中へ畳まれていた輪が引き出される仕組みだった。人間の靴でも強く踏み込めば動く可能性はあるが、広い足裏より、蹄のように狭い面積へ重さが集中する方が確実に作動する。
「偶然じゃないな」
ロアが吐き捨てるように言った。昨日まで残していた疑いが一つ、形を持った怒りへ変わり始めている。
「俺たちが踏む前提で作ってる」
「その可能性は高い」
ガレムも今度は否定しなかった。ただし、誰が設置したのか、失踪した三人に実際に使われたのか、セイルが同じ仕掛けへ掛かったのかは別だと続けた。
「同じ革に見える」
アレンは取り外された暗褐色の革紐を見ながら、セイルの血痕を追った先で見つけた千切れた革紐を思い出した。色も幅も近かったが、旅具や荷締めにも使われる程度の普通の革であり、それだけで同じ物だとは言えない。
「昨日の場所の紐と比べる」
ミラはそう答え、今回の革を布へ包んだ。似ているという印象と、同一だという証明を混ぜないため、アレンもそれ以上の結論は口にしなかった。
さらに走路を調べると、最初の仕掛けから十数歩離れた場所に、もう一つ埋め直された跡が見つかった。そこでは装置そのものが回収されていたが、二本の低い杭を抜いた穴と、革が草を擦った細い線が左右に残っている。
管理役の男は二つの位置を何度も見比べた。最初の仕掛けは走路のやや右寄り、次の跡は左寄りにあり、同じ方向へ走るケンタウロスが真ん中を避けても、自然な歩幅のままならどちらかへ脚を置きやすい配置になっていた。
「一個を避けても、次がある」
ロアが言うと、男は頷いた。偶然一つの輪へ入るのを待つのではなく、走る者の進路そのものを利用し、避けた先にも別の危険を置く配置だった。
「昨日、道標が変えられてた」
アレンが口にすると、全員の視線が向いた。昨日見つけた柱は本来の水場ではなく草原の外側を示すよう向きを変えられていた。その先にこうした仕掛けが複数置かれているのなら、道を間違わせることと脚を取ることが別々の悪戯ではない可能性が出てくる。
「まだ繋げるな」
ガレムは言ったが、否定する声音ではなかった。ミラも地図へ線を引かず、道標の異常と二つの仕掛けだけを別々の印で加えた。
「でも、調べる場所は増えた」
「そうだ」
ガレムは周囲の草原を見渡した。問題は一つの罠を外せば終わるものではなく、どの道が安全で、どの道へ何が残されているのかを一から確かめなければならなくなっていた。
◇
昼過ぎ、一行は南の走路へ移った。そこは失踪した一人が最後に確認された区域に近く、昨日の時点では道そのものに目立った異常が見つかっていなかった場所だった。管理役たちは速度を落とし、草の色、土の盛り上がり、杭を抜いた穴のような小さな変化まで一つずつ確認した。
最初に見つかったのは、走路の端へ倒された細い枝だった。自然に折れたように見えたが、下の土には四角く切られた薄い跡があり、掘り返すと同じような小さな板が出てきた。革紐はすでになく、作動したのか回収されたのかも分からないが、板の大きさと埋められた深さは北東の仕掛けとほぼ同じだった。
その少し先には、走路から外側へ逸れる浅い蹄跡が残っていた。古く乾いており、誰のものかは判断できない。数歩進んだところで跡は複数の古い足跡へ混ざり、そこから先を一人分だけ追うことはできなかった。
「これが失踪した奴の跡だとは言えない」
ロアは悔しそうに言ったが、自分から断定しなかった。昨日までなら人間の痕跡を見ただけで結論へ近づきかけていた彼も、ガレムたちと現場を見続けるうちに、分からないものを分からないまま残す必要を受け入れ始めているようだった。
「ただ、ここにも同じ形があったことは残せる」
ミラは木札へ位置を書き込み、北東のものとは別の印を付けた。失踪者との関係は未確認のままだが、二つの失踪区域の両方に、ケンタウロスの脚へ作動しやすい同型の仕掛けが残されていたという事実だけは、これで無視できなくなった。
ガレムはしばらく地図を見下ろしていた。南の走路、北東の水場、その間にあるセイルの事件地点。それぞれを同じ線で結ぶことはしなかったが、その周囲に見つかった異常は昨日より明らかに増えている。
「外縁の走路は、確認が終わるまで走るなと伝える」
「全部?」
「少なくとも速度は出させない。歩いて確認できる道だけ使う。水場へは内側の迂回路を回す」
「時間が掛かる」
管理役の男が言うと、ガレムは頷いた。遠回りになっても、普段と同じ速度で走らせることはできない。道を守るための措置が、結果として草原の暮らしそのものを狭め始めていた。
◇
草原へ戻ったのは、日が西へ傾き始めた頃だった。ミラは回収した革紐と木片を布の上へ並べ、昨日セイルの事件地点に残されていた革紐も管理役に回収させた。二本を並べると色と幅はよく似ていたが、片方は途中で千切れ、もう片方は輪を作るため擦れた跡が残っている。
年配の管理役は表面を確認し、同じ種類の革だろうとは言ったものの、同じ作り手のものかまでは判断できないと告げた。市場でも手に入る材料であり、それだけを証拠に人間の集団や特定の犯人へ結びつけることはできない。
「じゃあ、分かったのは罠の方だけか」
ロアが言うと、ガレムは首を横へ振った。分かったことは少なくないが、どこまでが事実なのかを分ける必要があると答える。
「二つの失踪区域の近くに、同じ形の仕掛けが残っていた。北東では作動する状態のものも見つかった。蹄の幅と荷重を利用し、走っているケンタウロスの脚を取るよう作られている。道標にも人の手が入っている。ここまでは確認できた」
「セイルも同じ罠に?」
「それはまだ分からない」
ロアは口を閉じた。セイルの脚に残っていた帯状の擦れと革紐の輪を思えば結びつけたくなるのは当然だったが、本人はまだ何が起きたかすべてを話していない。アレンも、似ていることと確定していることの間に線を引いた。
ガレムは地図を畳まず、広場の低い机へ置いたままにした。南と北東の二つの失踪区域には同じ形の仕掛けが残り、その周辺では道の向きまで変えられている。偶然の事故や獣用の罠では説明しにくくなった一方で、失踪した三人が今どこにいるのかを示す答えは、どこにも残されていなかった。
アレンは地図の東側へ目を向けた。外縁からさらに先へ伸びる線の一部は、深い緑で描かれた区域の手前で途切れている。昨日までならただの地図上の色にしか見えなかったが、今はその手前に複数の異常が並び、戻ってこない者たちの存在まで重なっていた。
それでも、まだ向かうべき場所を決める段階ではない。誰を捜すのか、どこまで危険を追うのか、この草原の者たち自身が何を選ぶのかを知らないまま、外から来たアレンが答えを決めることはできなかった。
ただ一つ、昨日よりはっきりしたことがある。草原に残されていたものは、偶然誰かが踏むのを待つだけの罠ではなかった。四本の脚で走る者がどこへ足を置き、どのように勢いを乗せるのかを知ったうえで、その身体そのものを利用して止めるために作られていた。
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