第二章 第十一話 奪われた道
翌朝、アレンが目を覚ましたとき、来客用の建物の外ではすでに何人もの蹄音が行き交っていた。夜のあいだ交代で周囲を歩いていた見張りとは違い、今は広場と走路を結ぶ方向へ複数のケンタウロスが急いでいる。昨日までと同じ朝の動きにも見えたが、声を潜めて話す者が多く、草原全体に普段とは違う緊張が残っていることは、外から来たアレンにも分かった。
水で顔を洗い、荷物をまとめ終えたところで、入口の外から声が掛かった。立っていたのはロアとミラで、二人とも昨日より軽い装備を身につけていた。ロアの背には短い弓、ミラの腰には細い木札と布袋があり、長く移動する準備というより、近場を確認するための格好に見える。
「ガレムが呼んでる」
「何か分かったのか?」
「まだ何も分かってない。だから見に行く」
ロアは短く答え、勝手に先へ歩き出そうとはしなかった。昨日までならアレンが付いてくるかどうかを決める権利そのものを渡さなかったかもしれないが、今は少なくとも理由を伝えている。
広場の端ではガレムが三枚の木札と一枚の簡単な地図を地面へ広げていた。周囲には昨日見た数人のほか、走路の管理をしているらしい年配のケンタウロスが二人立っている。地図には草原の主要な走路と水場、外側へ抜ける細い道が記され、南の走路と北東の水場には炭で印が付けられていた。
「昨日、お前がセイルを見つけた場所を確認する」
「俺も行くんですか?」
「場所を一番正確に覚えているのはお前だ。勝手に動くなと言ったのは変わらないが、こちらが同行を求めるなら話は別だ」
「分かりました」
ガレムはアレンの返事を聞くと、まず地図上の二つの印を指した。南の走路では一人、北東の水場では二人が戻っておらず、ここ十日ほどで確認された失踪者は三人だが、最後に確認された区域はこの二か所に分かれている。
「同じ場所じゃない。でも、どちらも外へ抜ける道に近い」
「昨日ミラが言ってた『また外側か』って、これですか」
「そうだ」
ガレムは否定せず、ただしそれだけで三人の失踪が同じ原因によるものだとは決めていないと念を押した。アレンも頷き、自分の記録を開いてセイルの血痕を最初に見つけた場所を指す。ガレムは失踪者の二つの区域とは区別するよう、その地点へ別の形の印を加えた。
◇
一行は六人だった。先頭をロアと走路管理の男が進み、その後ろにミラ、アレン、ガレム、もう一人の管理役が続く。セイルは治療所に残っており、本人も今日は無理に同行しないと決めたらしい。右前脚へ体重を掛けられない状態で現場へ連れ出す理由はなく、アレンもその判断に異論はなかった。
草原の中心を離れるにつれ、広い走路は次第に細くなった。昨日アレンが見た生活圏の道は、四本の脚で走る者が互いにすれ違えるだけの幅があったが、外縁へ向かう道は二人が並べる程度まで狭くなり、草も少し高い。とはいえ獣道ではなく、地面には何世代にもわたって踏み固められた蹄の跡が残っている。
「ここは普段から使うんですか?」
アレンが尋ねると、前を歩く管理役の男が振り返った。足元の走路を一度見下ろしてから、この道が使われる時期と行き先を説明する。
「季節で使う。南の放牧地、水場、それから外の市場へ向かうときにも通る。子どもだけで遠くへ行く道じゃないが、昼なら珍しくもない」
「セイルもこの近くを使ってた?」
「南側だ。あいつが外れた場所までは、ここから少し北へ回る」
ロアの答えにはまだ硬さがあったが、昨日のように質問そのものを拒む様子はなかった。必要なことなら話すという程度には、アレンを現場確認の一員として扱っているらしい。
しばらく進むと、先頭の管理役が突然止まり、右手を横へ上げた。全員が足を止め、アレンも何があるのか分からないまま地面へ視線を落とす。道の中央には何も見えないように思えたが、男は数歩先の草の根元を指した。
「昨日まではなかった」
そこには細い杭が一本、地面すれすれまで打ち込まれていた。色は土に近く、草の影へ紛れるよう表面へ泥が塗られている。杭そのものに縄は付いていなかったが、左右の草には何か細いものが擦れた跡があり、その先には別の小さな穴が残っていた。
「罠?」
アレンが聞くと、ミラはすぐには答えず、しゃがんで周囲を見た。指で土へ触れず、草の倒れ方と穴の位置だけを確認してから立ち上がる。
「今はそう決めない。仕掛けの一部だった可能性はある」
「触るな」
ロアが短く言い、アレンも近づかなかった。仕掛けの構造まではまだ分からないが、少なくとも自然に立った杭ではなく、誰かが意図して地面へ打ち込んだものだった。
管理役の男は道の端へ回り込み、さらに数歩先で別の異常を見つけた。踏み固められた走路の一部が掘り返され、その上へ薄く土と草が戻されている。表面だけ見れば分かりにくいが、横から見ると地面の高さが僅かに違っていた。
「これも昨日はなかった」
「誰かが道を触ってる」
ガレムの声が低くなった。まだ何を目的としているのかは分からない。それでも、何者かが普段使われる経路へ入り、見つかりにくい形で手を加えていることだけは否定しにくかった。
◇
アレンがセイルの血痕を最初に見つけた場所へ着いたのは、昼前だった。特徴のある石と街道の位置を確認し、自分が記録した場所と一致していることを説明する。血は昨日より乾いて黒くなっていたが、乱れた蹄跡と二種類の靴跡はまだ残っていた。
ミラと管理役たちは跡を踏まないよう外側から観察し、アレンは自分がどこまで進み、どこで革紐を見つけたかを指で示した。千切れた革紐も同じ場所に残っており、誰かが回収した様子はない。
「この先でセイルを見つけたのか?」
「もう少し北東です。血が続いてて、低木のところに淡い毛が引っ掛かってました」
ガレムはアレンの説明を聞きながら、街道と草原側の位置関係を見比べた。ここはケンタウロスの生活圏から見れば外側だが、完全に使われていない土地ではない。少し南へ行けば普段使う走路へ戻れ、東には水場へ続く草道がある。
「近すぎる」
管理役の一人が呟いた。外敵を恐れて避けるような遠い場所ではなく、普段から若者や荷を運ぶ者が行き来する範囲のすぐそばだった。
ロアは街道へ残る人間の靴跡を見つめ、拳を握った。視線は跡から外れず、抑えた声にも疑いが滲む。
「最初から、この道を知ってたんじゃないのか」
「まだ決めるな」
ガレムがすぐに制し、ロアへ向けていた視線を周囲の地形へ戻した。今ある痕跡だけで相手の知識や目的まで決めるべきではないという態度は変わらなかった。
「知らずに入った可能性もある。だが、今日見つけた杭と掘り返しが偶然とは考えにくい。問題は、どこまで続いているかだ」
ミラはそこで、失踪者が最後に確認された南の走路と北東の水場、それとは別にセイルの事件地点を地図上で見比べた。三つを同じ種類の印で結ぶことはせず、それぞれを独立した情報として残したまま位置関係だけを確認する。いずれも草原の中心ではなく、外側へ抜ける古くから使われている経路の近くにあった。
「外側の道を一つずつ見た方がいい」
「全部止めるのか?」
ロアの問いに、ガレムはすぐ首を振った。使える道まで不用意に閉じれば、水場や放牧地へ向かう者の移動そのものが難しくなる。何が危険なのか分からないまま全経路を封じることは、守ることと同じではない。
「まず確認する。危険がある場所だけ一時的に外す」
「道を外す?」
アレンが聞くと、管理役の男が説明した。ケンタウロスたちは季節や地面の状態に合わせ、普段から複数の走路を使い分けている。危険な場所があれば目印を変え、別の道へ流すこともできるが、それには安全な代替路が残っていることが前提だった。
「もし何本も同時に駄目になってたら?」
アレンの問いに、誰もすぐ答えなかった。複数の道を使い分けられることが強みなら、その選択肢が同時に減ることの意味も大きいのだと、沈黙だけでも分かった。
◇
午後、一行は北東の水場へ続く別の走路を確認した。そこでも道の端に不自然な掘り返しがあり、さらに少し先では道標代わりの低い柱が一本、向きを変えられていた。本来なら水場を示す印が草原の外側を向き、初めて通る者なら間違った方向へ進みかねない。
「風じゃこうならない」
管理役の男は柱の根元を見て、明らかに抜いて差し直した跡があると説明した。ガレムはその場で柱を戻させず、まず位置を記録するようミラへ頼む。
「道を壊してるんじゃない」
アレンは地図と目の前の柱を見比べながら言い、柱が本来示していた方向と現在の向きを指で確かめた。壊された道ではなく、選ばされる道なのだと考える方が、目の前の異常には近い気がした。
「使う側に、違う道を選ばせようとしてる」
ガレムはアレンへ視線を向けた。結論を受け入れるのではなく、その根拠を確かめようとしている表情だった。
「そう見える理由は?」
「穴を掘るだけなら、その場所を避ければいい。でも道標まで変えるなら、どこへ行くかまで変えられる。少なくとも、ただ通れなくしたいだけには見えません」
ガレムはすぐに同意せず、しかし否定もしなかった。ミラは昨日から確認された異常を地図へ書き込み、それぞれの位置を線で結ばず、そのまま別々の印として残した。
「まだ一つの仕組みだとは決めない」
「分かってる」
アレンも頷いた。昨日まで「若い者が何人か帰っていない」というだけだった問題は、少なくとも今、普段使われる道そのものへ誰かが手を加えているという事実と隣り合っていた。
帰り道、ガレムは外縁の走路を一部だけ一時的に閉じるよう管理役へ指示した。完全に使えなくするのではなく、異常が見つかった区間だけを避け、代替路を明確に示す。アレンはその指示を聞きながら、昨日まで自分が歩いてきた人間の街道を思い出した。道は目的地へ向かうためのものだと思っていたが、ここではその道が安全であること自体が、誰かの暮らしを支えている。
草原へ戻る頃には、夕方の光が長い影を作っていた。中心へ続く走路ではいつも通り何人ものケンタウロスが走っているが、外へ繋がるいくつかの道には新しい警告の印が立てられ始めている。
誰かが道を塞いでいるのではない。危険が見えない形で置かれ、目印の向きまで変えられていることで、使い慣れたはずの道が少しずつ信用できないものへ変えられていた。
アレンは地図に増えた印を見つめながら、これまで当たり前に使われてきた経路が、誰かの手によって別の意味を持たされ始めていることを感じていた。失踪した三人との関係はまだ証明されておらず、セイルの事件も同じ原因だとは断定できない。それでも、草原の民が自由に走るための道の一部が、確かに奪われつつあった。
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