第二章 第九話 草原を走る民
夜が明ける頃には、東の空が薄い金色へ変わり始めていた。火を使わずに過ごした野営地には焦げた匂いも煙の跡もなく、低い岩の陰へ溜まっていた夜露だけが朝の光を受けている。アレンは目を覚ますと最初にセイルの右前脚を確認し、包帯へ新しい血が広がっていないことを確かめた。
セイルもすでに起きていた。身体を横たえたまま丘の向こうを見ており、その視線の先には昨日よりはっきりと、大きな白い石が朝日に照らされている。地面から斜めに突き出したそれは遠くから見ると折れた牙にも似ていた。
「脚は?」
「痛い。でも、昨日よりはまし」
「立てそう?」
「やってみる」
アレンは昨日と同じように、必要だと言われるまで手を出さなかった。セイルは二本の後脚と左前脚へ順番に力を掛け、右前脚をほとんど浮かせたまま身体を起こす。最初に僅かな揺れはあったものの、昨日ほど大きく姿勢を崩すことはなかった。
「肩、いる?」
「今はいい。歩き始めてから頼むかも」
「分かった」
朝食を簡単に済ませ、水を分けてから二人は白い石を目指した。昨日の疲れが残っているため歩調は遅く、セイルが休みたいと言えばすぐに足を止める。それでも、帰る場所が近づいていると分かっているせいか、セイルの視線は昨日より何度も前へ向いていた。
白い石へ近づくにつれて、草原の様子にも変化が現れた。獣が偶然踏み固めたものとは違う、幅の広い道筋が草の間へ何本も走り、その一部には大量の蹄が繰り返し通った跡が残っている。人間の街道ほど地面を削ってはいないが、四本の脚で走る者たちが長いあいだ使ってきた道だということはアレンにも分かった。
「ここから、もうお前たちの道なのか?」
「まだ境目。でも、この跡を見れば近いって分かる」
「俺には全部同じ草に見える」
「だから人間は迷うんだよ」
少し得意そうに返すセイルを見て、アレンは小さく笑った。怪我をしてから初めて見る表情だった。
◇
白い石は、近くで見ると人の背丈の三倍ほどもある巨大な岩だった。表面は雨風で滑らかになり、下部には何本もの浅い線が刻まれている。文字ではなく、蹄と曲線を組み合わせた簡単な印に見えた。
「これ、道標?」
「俺たちにはね。右へ行くと水場。左は南の放牧地。真ん中が帰る道」
「文字じゃないんだな」
「走ってても見えるようにしてる」
その説明を聞き、アレンは初めて印の大きさに意味があることへ気づいた。人間なら立ち止まって文字を読む場所でも、ケンタウロスは走りながら形を見る。自分の身体を基準に作られた街道や宿を当然のものだと思っていたが、ここでは最初から四本の脚で移動する者のために土地そのものが使われていた。
白い石を越えると、道はさらに広くなった。草を完全に刈り取るのではなく、蹄が引っ掛からない程度の高さへ揃えられ、急な窪みには平たい石や土が詰められている。ところどころに低い木の柱が立ち、その間へ細い縄が張られていたが、胸の高さに柵を作る人間の牧場とは違い、進路を示す程度のものだった。
しばらく進んだところで、セイルが突然足を止めた。アレンもすぐに止まり、彼が見ている南東の丘へ目を向ける。
「何かいる?」
「聞こえる」
最初、アレンには風の音しか分からなかった。しかし数秒後、地面から低い振動が伝わってきた。一定ではなく、次第に強くなる連続した響きの中、丘の向こうから最初の一人が現れた。濃い茶色の馬体を持つ若いケンタウロスが身体を前へ傾けながら草原を駆け、その後ろから二人、さらに四人が続き、あっという間に十人近い集団になった。
武器を構えている者はいない。腰や背へ短い弓や槍を携えている者はいるが、それよりもアレンの目を引いたのは、その速さだった。馬へ乗っているのではなく、人の上半身と四本の脚が一つの身体として動き、前脚が草を掻き、後脚が地面を蹴るたびに身体全体が大きく前へ運ばれる。急な方向転換でも上半身は崩れず、隣を走る者との距離まで自然に揃っていた。
「……速い」
「普通だよ」
「それが普通なのか」
「走れればね」
セイルの声が少しだけ沈んだ。アレンは右前脚へ視線を向けそうになったが、すぐ前へ戻した。
走ってきた集団は二人から少し離れたところで一斉に速度を落とした。土を大きく蹴り上げることもなく数歩のうちに歩みへ変わり、先頭にいた黒髪の青年がセイルを認めた瞬間、その顔が大きく変わった。セイルも相手の姿を認めると、疲れていた表情を一変させ、耳を跳ね上げた。
「セイル!」
「ロア!」
青年はすぐ近くまで来ようとしたが、その途中でアレンの姿に気づいて急停止した。後ろにいた者たちも次々と動きを止め、空気が一瞬で変わった。
◇
セイルの名を呼んだ青年は、濃い茶色の馬体と黒い尾を持ち、人の部分もセイルより一回り以上大きかった。年齢は二十歳前後に見える。背には短い弓を負い、腰には細身の刃物を下げていた。
「セイル、そこから離れろ」
「待って。違う」
「何が違う。そいつは人間だろ」
青年――ロアはアレンから目を離さず、ゆっくりとセイルの側へ回ろうとした。ほかのケンタウロスたちも広がり、アレンを囲むほどではないものの、草原へ逃げる方向を自然に塞いでいく。
アレンは腰の剣へ手を伸ばさず、両手を見える位置へ下ろした。街道で覚えた掌の挨拶を使うべきか一瞬迷ったが、地方によって意味が違うという忠告を思い出し、知らない土地で勝手に試すのはやめた。
「俺は――」
「アレンは何もしてない!」
セイルが先に声を上げた。勢いよく前へ出ようとして右前脚へ力を掛けかけ、痛みに顔を歪める。
「動くな」
アレンが反射的に声を掛けると、ロアの視線がさらに鋭くなった。言葉の意味よりも、人間がセイルへ指示したことそのものに反応したようだった。
「命令するな」
「命令じゃない。脚を怪我してる」
「見れば分かる」
ロアは短く返すと、セイルの右前脚へ巻かれた布と添え木を見た。次に他の脚へ残る擦れ、そしてアレンの腰の剣へ視線を移す。何を考えたのかは表情だけでは読み取れなかったが、警戒が弱まった様子はない。
「誰にやられた」
セイルはすぐには答えなかった。アレンも代わりに説明しようとはしない。自分が知っていることを話せば早いかもしれないが、セイル自身が言いたくないことまで人前へ出す権利はなかった。
「……今は言いたくない」
「セイル」
「でも、アレンじゃない」
その言葉に、集まっていたケンタウロスたちの間で小さなざわめきが起きた。ロアも僅かに眉を動かしたが、すぐアレンへ視線を戻す。
「どこで会った」
「街道の北東側。血と足跡が残ってた」
「何人いた?」
「見たのはセイルだけだ。人間の靴跡は二種類あったけど、その持ち主は見てない」
「追ったのか?」
「血痕を少しだけ。見つけたあとで傷を止めた」
ロアは答えを聞くたびにアレンを観察していた。嘘を探しているのだろうが、アレンには証明できるものがほとんどない。あるのはセイルの傷と、街道近くに残した痕跡だけだった。
そこでセイルがもう一度口を挟み、ロアへ向き直った。自分の意思でここまで来たことだけは、はっきり伝えたいようだった。
「俺が帰るって言った。アレンが勝手に連れてきたんじゃない。俺が道を教えた」
「それでも人間をここまで連れてくる理由にはならない」
「一人じゃ歩けなかったんだ!」
声を荒らげたセイルが身体を揺らすと、今度はロアがすぐ近くへ寄った。右前脚へ余計な負担が掛からないよう動きを見ながら、声の調子を少し落とす。
「分かった。もう動くな」
ロアはセイルの左側へ入り、支えてよいか確認してから肩へ手を添えた。その動きを見て、アレンは同じケンタウロス同士でも勝手に身体へ触れるわけではないことに気づいた。
◇
集団の中から灰色の馬体を持つ年配の女性が前へ出た。長い髪には白い筋が混じり、腰の小袋から布や薬草の束が覗いている。彼女はアレンへ一度視線を向けてから、まずセイルへ声を掛けた。
「脚を見てもいいかい?」
「うん」
「人間が巻いたの?」
「アレンが。でも、俺がやり方を言った」
女性は添え木の位置と包帯の締まりを確認し、小さく頷いた。セイルが痛がる様子がないことも確かめてから、落ち着いた声で判断を告げる。
「少なくとも、悪くはしてないね。ここで巻き直すより、まず休める場所まで連れていこう」
その言葉にセイルの肩が僅かに下がった。ロアも反論せず、周囲の者たちへ短い指示を出す。
二人のケンタウロスが左右からセイルを支えられる位置へ入り、歩幅を合わせる準備を始めた。アレンは必要なら自分も手伝うつもりだったが、すでに支えられる人数は足りている。
「アレン」
呼ばれて顔を上げると、セイルがこちらを見ていた。周囲に仲間が戻ってきても、アレンをその場へ残していくつもりはないらしい。
「一緒に来て」
その言葉を聞いたロアがすぐに振り返り、険しい表情でセイルを見る。セイルも視線を逸らさず、自分の意思を引っ込める様子はなかった。
「セイル」
「俺が話す。だから来て」
強い声ではなかったが、迷いはなかった。ロアはしばらくセイルを見つめ、その意思が変わらないと分かると、今度はアレンへ目を向けた。
「武器は抜くな」
「抜かない」
「俺たちより前を歩くな。勝手に道を外れるな」
「分かった」
「まだ信用したわけじゃない」
「それも分かってる」
ロアはそれ以上何も言わず、集団の先頭へ回った。警戒を解いたわけではないが、少なくともセイルの意思を無視してアレンを追い返すこともしなかった。
歩き始めると、周囲の景色は少しずつ変わっていった。草原の中に何本もの広い走路が交差し、遠くでは数十人のケンタウロスが群れのようにではなく、互いに声を掛け合いながら同じ方向へ駆けている。低い丘の斜面には人間の家より横へ長い建物が点在し、入口には段差がほとんどない。水場の近くには大きな桶ではなく、長く浅い石槽が設けられ、四本の脚のまま横へ並んで使えるようになっていた。
さらに進むと、小さな子どもたちが草原を駆け回っている姿も見えた。競争しているのか、一人が先頭へ出るたびに別の子が追い抜き、大人たちから注意される声まで飛んでいる。荷物を運ぶ者は背中へ鞍を載せるのではなく、人の上半身へ固定した帯から左右へ荷を分け、走っても身体の動きを邪魔しないよう工夫していた。
ラークホロウの季節市で何度か見たケンタウロスたちは、アレンにとってこれまで「四本の脚を持つ種族」だった。けれど今見えているのは身体の形そのものではなく、その身体で暮らすために作られた道、水場、家、荷物の運び方、そして草原を走ることが日常の一部になっている生活だった。
「見るなよ」
セイルが言った。
「悪い」
「……別に見るなって意味じゃない。じろじろするなってこと」
「分かった」
「知らないなら、あとで聞けばいい」
「そうする」
セイルは少し考えた末にそう付け加え、アレンが答えるとほんの僅かに笑った。その表情には、アレンが知らないことを勝手に決めつけず尋ねようとすることへの、これまでとは違う慣れが見え始めていた。
その前方では、草原の中心にいくつもの長い建物と大きな円形の広場が見え始めていた。走路から戻ってきたケンタウロスたちが次々とこちらへ気づき、その視線がセイルへ集まったあと、必ずアレンの姿で止まる。
安堵する者もいれば、驚く者もいた。そして少なくない者が、明らかな警戒を顔へ浮かべていた。セイルが帰る場所へ辿り着いたことだけは間違いなかったが、人間であるアレンがそこへ足を踏み入れることを、この草原の誰も当然とは考えていない。そのことを理解しながら、アレンはロアたちより前へ出ず、セイルが選んだ道の上を静かに歩き続けた。
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