第二章 第八話 帰る場所
セイルが自分の名前を告げてからも、アレンはすぐに次の質問をしなかった。木々の向こうでは昼の光が少しずつ傾き始め、風が草原から乾いた匂いを運んでくる。右前脚の包帯に新しい血はほとんど滲んでいないが、セイルは身体を動かすたびに痛みを堪えるように口元を強張らせていた。この場所で休み続ければ今夜を越すことはできるかもしれないが、水も食料も無限ではなく、何より怪我をしたまま森の縁に留まり続けることが安全だとは思えなかった。
「セイル。帰れる場所はあるか?」
その問いに、セイルの耳が僅かに動いた。アレンは続けて場所を聞こうとはせず、答えを待った。
「……ある」
「そこへ戻りたい?」
「戻りたい」
返事は迷いなく返ってきたが、その直後、セイルは右前脚を見下ろした。三本で立とうとして数秒しか保たなかったことを、本人も忘れてはいないのだろう。
「どっち?」
「東。ここから真っ直ぐじゃない。少し南へ出て、それからまた東」
「街道へ戻る?」
「嫌だ」
強い拒絶だった。アレンは理由を尋ねず、すぐに別の方法を考える。
「分かった。街道は使わない。草地を通って戻れる道はある?」
「ある。でも、俺の速さなら半日もかからない」
「今の速さなら?」
セイルは答えず、悔しそうに唇を噛んだ。アレンも急かさず、地図を開いて現在地の大まかな位置を確かめる。地図にはケンタウロスの集落までは載っていなかったが、東側には森の縁と広い草原が描かれ、その南側を主要街道が通っていた。
「今日は着かなくてもいい。戻れる方向へ少し進んで、安全に休める場所を探す。それならどうだ?」
「……置いていかない?」
「置いていくなら、ここまで残ってない」
セイルはしばらくアレンを見たあと、ほんの僅かに頷いた。帰る場所を決めるのはアレンではない。どの道を通るかも、できる限りセイル自身に選んでもらうべきだった。
◇
出発する前に、二人は右前脚をもう一度確認した。アレンが包帯を外そうとするとセイルの身体が強張ったため、まず何をするのかを説明し、見える位置から布を緩める。傷口からの出血は落ち着いていたが、脚を動かすたびに裂傷の周囲が引かれ、体重を掛ければ再び開く可能性があった。
「ケンタウロスは、こういう怪我のときどうする?」
「折れてなければ、硬い枝を二本使う。関節を跨がないようにして、布で止める」
「やったことある?」
「自分にはない。でも、見たことはある」
「じゃあ、俺が勝手に決めるより、セイルが見て止めてくれ」
アレンは周囲から真っ直ぐな枝を何本か集め、長さと太さを見せた。セイルが二本を選び、傷の上下にどう置くかを指で示す。アレンは指示通りに枝を添え、きつすぎないかを何度も確認しながら布で固定した。
「これでいい?」
「もう少し上を緩くして。そこ、締めすぎると痛い」
「ここ?」
「うん」
結び直すと、セイルは慎重に右前脚を少し動かした。傷そのものの痛みは残っているが、先ほどより余計な揺れは減っているようだった。
「立ってみる?」
「やる」
「支える場所はさっきと同じで左肩?」
「最初だけ。立てたら離して」
アレンは許可された場所だけを支え、セイルが二本の後脚と左前脚へ順番に力を移すのを待った。右前脚は地面へ完全には載せず、蹄先を軽く触れさせる程度にする。身体が起き上がると一度大きく揺れたが、今度はすぐに崩れず、セイルは自分で姿勢を整えた。
「離すぞ」
「うん」
アレンが腕を外すと、セイルは三本の脚を中心に立ったまま数回呼吸した。長く保てる姿勢ではないが、先ほどよりは明らかに安定している。問題は歩くことだった。
「一歩だけ試す。無理なら止める」
「分かった」
セイルは左前脚を短く前へ出し、続けて後脚を動かした。右前脚はほとんど浮かせたままだったため、身体全体が左へ傾きかける。アレンは手を出さず、セイルが自分から助けを求めるのを待った。
「……肩」
「左?」
「そう」
アレンが左肩へ腕を添えると、セイルはもう一歩だけ進んだ。速くはない。それでも、自分で進む方向と止まる時を決められる程度には身体を動かせた。
「これなら、少しずつなら行ける」
「無理になったら言ってくれ。休む回数は気にしなくていい」
「お前、遅いって言わないのか」
「俺がお前の速さに合わせる側だろ」
セイルは何も返さなかったが、今度は視線を逸らさなかった。少なくとも、先ほどまでのように助けを拒む様子はなかった。
◇
木々の間を抜けるまでに、二人は三度休んだ。セイルが十数歩進むたびに右前脚を浮かせたままの身体が傾き、肩や腰へ負担が集まる。アレンは支える必要があるときだけ左側へ入り、セイルが止まれば一緒に止まった。
茂みを抜けて草原へ戻ると、セイルは街道の方向を一度見たあと、すぐ東へ顔を向けた。遠くには低い丘が何本も重なり、その先へ広い草原が続いている。
「あっち」
「丘の向こう?」
「二つ目の丘の上に大きな白い石がある。そこから北東へ行けば、俺たちが使う道に出る」
「その道まで行けば、誰かに会える?」
「たぶん。でも、人間が一緒だと……」
セイルはそこで言葉を止めた。アレンには続きが想像できたが、自分から決めつけることはしなかった。
「警戒される?」
「する。絶対に」
「なら、会う前にどうすればいいか教えてくれ。俺が先に近づかない方がいいなら、そうする」
「……逃げないのか」
「何から?」
「俺の仲間に囲まれたら」
「何もしてないって説明するしかないな。それでも剣を抜く理由にはならない」
セイルはアレンの腰の剣を見てから、小さく息を吐いた。安心したのか呆れたのかは分からなかった。
二人は街道から十分離れた草地を東へ進んだ。セイルは自分が知っている地形を頼りに、ぬかるみや斜面の急な場所を避けて道を選ぶ。アレンが先頭に立つことはなく、分岐する獣道や低木の間へ差しかかるたびにセイルの指示を待った。
「右。左は下が柔らかい」
「分かった」
「その先の石の横で休む」
「了解」
午前までなら、怪我をした相手を助けるのだから自分が道を決めるべきだと思っていたかもしれない。しかし、アレンはこの土地を知らず、セイルは知っている。脚を傷めていることと、判断までできないことは別だった。
最初の丘へ着く頃には、セイルの額に汗が浮かんでいた。アレンが休憩を提案するより先に、セイル自身が「止まる」と言ったため、二人は風を避けられる岩陰へ移った。水を分け、包帯の緩みだけを確認してから、アレンは地図へ進んだ方向を書き足す。
「そこに何を書いてる」
「戻る道。あとで迷わないように」
「俺がいるだろ」
「今はな。でも俺が一人で帰ることになったら必要だ」
「……帰るのか」
「セイルを送り届けたあとに、俺までそこへ住む理由はないだろ」
当たり前のつもりで答えると、セイルは少し黙った。アレンはその反応の意味を尋ねず、炭筆をしまった。
◇
午後が深まるにつれ、二人の歩みはさらに遅くなった。セイルは何度も自分から休むと言えるようになったが、右前脚を庇い続けたことで左側の肩と二本の後脚にも疲労が溜まっている。二つ目の丘へ着く前に日が傾き始めたため、アレンは周囲を見回して野営できる場所を探した。
「今日はここまでにしよう」
「まだ行ける」
「行けるかどうかじゃなくて、明日も歩けるかで決めたい。右だけじゃなくて左も震えてる」
セイルは反論しかけたが、自分の左前脚を見て黙った。少しして、丘の斜面から外れた平らな場所を顎で示す。
「あそこなら風が弱い。水も、少し先に細い流れがある」
「じゃあ、そこにしよう」
二人はゆっくり移動し、低い岩と草に囲まれた場所で足を止めた。アレンは先にセイルが身体を休められるよう毛布を折り、その位置も本人に確認してから置く。火を起こすか尋ねると、煙が遠くから見える可能性を理由にセイルが首を振ったため、今夜は火を使わず保存食だけで済ませることにした。
食事を終えたあと、セイルは丘の向こうを見つめていた。夕暮れの光の中、遠くには白く細い何かが地面から突き出している。距離があるため形までは分からないが、セイルが話していた大きな白い石なのだろう。
「明日、あそこまで行ければ?」
「その先は俺が知ってる道だ」
「じゃあ、今日はちゃんと休もう」
「……アレン」
「ん?」
セイルは何かを言おうとして一度口を閉じ、それから視線を白い石へ戻した。何を確かめたいのか、自分の中で言葉を探しているようだった。
「帰れると思う?」
アレンはすぐに「絶対」とは答えなかった。怪我が悪化する可能性もあれば、追ってくる者がいるかもしれず、白い石の先で何が待っているのかも自分には分からない。
「分からない。でも、帰る方向には進んでる。明日もセイルが行ける速さで進もう」
しばらくして、セイルは小さく頷いた。アレンもそれ以上約束を重ねず、夜に備えて荷物の位置を整える。
帰る場所を知っているのはセイルで、そこへ向かう道を知っているのもセイルだった。アレンにできるのは、その選択を奪わず、怪我のために一人では進めない部分だけを支えることだった。夕闇の向こうに立つ白い石はまだ遠く、彼らの姿も仲間の気配も見えない。それでも二人は、初めて同じ目的地へ向かって歩き始めていた。
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