第二章 第七話 四本の脚
幼いケンタウロスは、布を巻かれた右前脚とアレンの顔を交互に見ながら、しばらく何も言わなかった。水袋は手元にあり、傷口から布へ滲んだ赤も先ほどより広がっていない。アレンはそれだけを確かめ、距離を詰めずに待った。
「……なんで、まだいるんだ」
「一人で歩ける状態じゃないから」
先ほどと同じ答えを返すと、子どもは眉を寄せた。アレンの返事に納得した様子はなく、警戒を残したまま問いを重ねる。
「だからって、人間が残る理由にならない」
「俺にとってはなる」
「知らない奴だろ」
「そうだな」
否定しなかったことが意外だったのか、子どもの視線が僅かに揺れた。人間そのものを警戒している相手へ善意を説明しても、信用する理由にはならない。アレンは、近づかない、触らないと約束したなら、その通りにすることだけを考えた。
子どもは右前脚を僅かに持ち上げたまま身体の位置を変えようとした。左前脚と二本の後脚へ体重が偏り、馬体全体が不自然に傾く。すぐ横の木へ肩を預けて何とか姿勢を保ったものの、その動きだけで呼吸が荒くなった。
「そのまま三本だけで立つの、きついのか?」
「……当たり前だ」
「馬なら、一本浮かせて立ってるのを見たことがある」
「俺たちは馬じゃない」
強い口調で返され、アレンはすぐに頷いた。四本の脚は馬に似ていても、人の上半身を支える重心や負荷まで同じとは限らない。季節市でケンタウロスを見たことはあっても、怪我をした身体の扱いまでは知らなかった。
「悪かった」
「どうしてるのが一番楽なんだ?」
「横になってる方がまし。でも、右側を下にすると痛い」
「左を下にして寝るのは?」
「前脚を畳むと傷が引っ張られる」
アレンは木の根が多い地面を見回した。そのまま横になれば別の場所を傷つけそうだったため、毛布を支えに使えないか本人へ尋ねることにした。
「毛布がある。身体の下じゃなくて、横に置いて寄りかかれるようにするならどうだ?」
「……触らない?」
「毛布を置く場所を教えてくれれば、そこまでしか近づかない」
子どもはしばらく黙ったあと、左側の脇腹近くにある平らな地面を顎で示した。アレンは毛布を何度か折って厚みを作り、言われた場所まで持っていく。近づく途中で子どもの身体が強張ったため、一度止まり、視線で確認してから残りの距離を進んだ。
「ここ?」
「もう少し後ろ……そこ」
毛布を置いてすぐ離れると、子どもは慎重に身体を傾けた。左脇腹の一部を毛布へ預けることで右前脚へ掛かる力が減ったらしく、荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていく。
「……楽?」
「さっきよりは」
「ならよかった」
アレンはそれ以上手を加えなかった。四本の脚で生きる感覚が分からないなら、知っている本人へ聞くしかない。それは知らない街道の使い方を教わったときと同じだった。
◇
しばらくすると、子どもの腹から小さな音が鳴った。本人は聞こえなかったふりをしたが、アレンは背負い袋へ視線を向ける。
「何か食べられる?」
「いらない」
「分かった」
即座に引き下がると、逆に子どもが怪訝そうな顔をした。背負い袋とアレンを交互に見て、何かを待っている。
「……出さないのか」
「いらないって言ったから」
「普通、もっと言うだろ。食べろとか、弱るとか」
「腹が減ってるのは分かる。でも、何を食べるか分からないし」
「人間の飯だって食える」
「じゃあ、俺が食べるものを見て、欲しいのがあったら言ってくれ」
アレンは保存用のパンと乾燥させた果実を取り出し、自分の分だけを口へ運んだ。子どもは最初こそ興味がないふりをしていたが、乾燥果実を二つ食べ終えた頃には視線が何度も袋へ向いている。
「これ?」
「……一個だけ」
アレンは乾燥果実を地面へ直接置かず、使っていない布の上へ載せてから、先ほど水袋を渡したときと同じように子どもの手が届く場所まで滑らせた。子どもは少し匂いを確かめたあと口に入れ、ゆっくり噛んだ。
「もう一個いる?」
「……いる」
今度は返事までの時間が短く、食べ終える頃には肩の力も僅かに抜けていた。アレンは右前脚の布に血が広がっていないことを確かめ、ほかの擦り傷も見てよいか尋ねた。
「傷、もう一度見てもいいか?」
子どもの表情がすぐに硬くなったため、アレンは触らずに見るだけだと先に伝えた。警戒が強まったままなら、それ以上求めるつもりはなかった。
「巻いたところじゃなくて、他にも怪我してるように見える。見るだけでいい。触らない」
「……どこ」
「左の前脚と、後ろの脚。毛が擦れてる」
子どもは自分の脚へ視線を落とした。やがて左前脚を僅かに前へ出し、見える位置へ向ける。
「これなら?」
「十分」
アレンは距離を保ったまま目を凝らした。左前脚の下部には、右側ほど深くないものの、毛が帯状に擦り切れている箇所がある。単に転倒してできた傷なら形はもっと不規則になるはずだが、そこには脚を一周するような細い赤みが残っていた。
「後ろも見ていい?」
返事はすぐには来なかった。子どもの耳が僅かに後ろへ伏せられ、呼吸がまた速くなる。
「嫌なら見ない」
「……見るだけ」
「触らない」
子どもが身体を少しずらし、左後脚を見える位置へ出した。そこにも同じような擦れがある。右後脚にはさらに濃い跡があり、一部の毛へ細い繊維が絡みついていた。
アレンはその場から四本の脚を見比べた。千切れた革紐、二種類の人間の靴跡、似た高さの擦れまで重ねると、偶然の転倒だけでは説明しにくかった。
「何かに脚を引っ掛けたのか?」
子どもの身体が硬くなり、伏せていた耳がさらに後ろへ倒れた。傷そのものより、その問いに反応しているように見えた。
「……違う」
「じゃあ、これ――」
「聞くな!」
強く遮られ、アレンはそれ以上続けなかった。相手の身体がこわばった時点で、答えを求めるべきではないと判断した。
「分かった。聞かない」
「……嘘つくな。知りたいんだろ」
「知りたい。でも、今話したくないなら聞かない」
子どもは唇を噛み、俯いた。傷のある右前脚が震えているのは痛みのせいだけではないように見えたが、アレンはそこにも触れなかった。
◇
沈黙が長く続いたあと、子どもが小さく口を開いた。伏せた視線は四本の脚へ向いたままで、アレンを見ることはなかった。
「……後ろから来た」
アレンは聞き返さず、続きを待った。子どもは服の端を握る指へ力を込めたまま、途切れ途切れに言葉を続ける。
「森じゃない。もっと草が低いところ。最初は、道を聞かれた」
「誰に?」
子どもの肩が強張り、伏せていた視線が一瞬だけアレンへ向いた。その反応だけでも、尋ね続けるべきではないと分かった。
「……言わない」
「分かった」
「何人だったかも、どこから来たかも言わない」
「それも聞かない」
拒否するたびにアレンが引き下がることを、子どもは確かめるように見つめていた。アレンも質問を重ねず、街道の人間の靴跡、千切れた革紐、乱れた蹄跡、四肢に残る帯状の擦れを思い返す。誰かが意図的に動きを止めようとし、そこへ人間が関わった疑いは強いが、セイル自身が答えていない以上、事実とは決めつけられなかった。
「逃げて、ここまで来たのか?」
「……うん」
「一人で?」
子どもは一瞬だけ迷い、それから答えなかった。アレンは沈黙を拒否として受け取り、それ以上尋ねない。一人だったのか、他にも誰かがいたのか、相手の目的もまだ分からなかった。
「話してくれてありがとう」
「……怒らないのか」
「何に?」
「全部言わないから」
「言いたくないことまで話す必要はないだろ」
「前の奴らは、そうじゃなかった」
アレンは返事を急がなかった。その言葉だけで何があったのかを決めつけることも、自分は違うと主張することもできない。違うのであれば、行動で示すしかなかった。
「少なくとも俺は、今聞かない」
子どもは長いあいだアレンを見ていた。その視線から警戒が消えたわけではない。けれど最初に会ったときのような、いつ襲われるか分からないものを見る目でもなくなっていた。
◇
午後へ近づく頃、アレンは右前脚の布に新しい血がほとんど広がっていないことを確認した。出血は落ち着いているが、この脚で長い距離を歩けるとは思えなかった。
「立てそうか試したい?」
アレンが尋ねると、子どもは少し考えてから頷いた。まだ不安は残っているようだったが、自分から身体を起こそうと前脚の位置を確かめる。
「手は出さない。必要になったら言ってくれ」
子どもは毛布から身体を起こし、まず二本の後脚、それから左前脚へ慎重に力を掛けた。右前脚は地面へ触れるだけに留めようとしたが、身体の重みが前へ移った瞬間、馬体が大きく揺れた。アレンは反射的に立ち上がったものの勝手には掴まず、助けが必要かどうかを確かめるため、その場で動きを止めた。
「支える?」
「……肩だけ」
「どっち側?」
「左」
許可を得てから近づき、アレンは子どもの左肩へ腕を添えた。全体重は支えきれないが、傾きを戻す程度ならできる。子どもは右前脚を浮かせて三本へ重心を移そうとしたものの、数秒で身体が震え始めた。
「もういい。戻ろう」
「まだ――」
「俺が決めることじゃない。続けたいなら続けてもいい。でも震えてる」
子どもは悔しそうに歯を食いしばり、やがて自分から力を抜いた。数秒だけ迷ったあと、無理を続けることを諦めるように小さく息を吐く。
「……戻る」
アレンは肩だけを支え、子どもが自分で毛布へ身体を預けるまで待った。すぐに距離を取ると、子どもは荒い息を整えながら四本の脚へ視線を落とした。
「三本あるのに」
「え?」
「一本怪我しただけなのに、歩けない」
声には苛立ちと悔しさが混じっていた。アレンは自分の二本の脚を見てから、目の前の四本へ視線を戻した。
「四本あるから、一つくらいなくても平気ってわけじゃないんだな」
「当たり前だって言っただろ」
「うん。今度はちゃんと分かった」
子どもの口元がほんの僅かに動いた。笑ったのかどうか迷うほど小さな変化だったが、少なくとも怒った顔ではなかった。
「俺は、お前の身体のことを知らない。だから、できることとできないことは教えてくれ。俺が勝手に決めないようにする」
「……本当に?」
「知らないものを知ってるふりしたら危ないって、つい最近教わったばかりなんだ」
街道で会った年配の女性の言葉を思い出しながら答えると、子どもはしばらく黙り、水袋をアレンの方へ押し戻した。先ほどまでの拒絶とは違う仕草だった。
「これ」
「もういらない?」
「違う。お前も飲むんだろ」
アレンは一瞬だけ目を瞬かせ、それから水袋を受け取った。子どもの方から物を返されたのは、これが初めてだった。
「ありがとう」
「……あと」
子どもは視線を逸らしたまま、少し迷ってから続けた。何度か口を開きかけたあと、ようやく短く息を吐く。
「俺は、セイル」
アレンは、その短い言葉が初めて自分から差し出された名前なのだと理解し、僅かに表情を和らげた。名前を尋ねることさえ避けていた相手が、今は自分の意思で教えてくれた。
「セイルか」
「一回で覚えろ」
「覚えた」
アレンは笑いそうになったが、からかわれたと思われないよう表情を抑えた。セイルもまだ完全に身体の力を抜いたわけではない。それでも、水袋を共有し、自分から名前を教えたという変化は、朝から積み重ねてきたものの中で最も大きかった。
アレンはそれ以上質問しなかった。セイルがどこから来たのか、誰といたのか、どこへ帰るのかを聞くのはまだ先でいい。四本の脚の傷と街道の痕跡から人為的に動きを止められた可能性は高く見えるが、詳細を奪うように聞けば、生まれたばかりの信頼まで壊してしまう。今はセイルを休ませ、再び歩ける方法を考えられる状態にする方が先だった。
木々の向こうでは、風に揺れる草原が僅かに見えている。そこから先にどこへ向かうのかはまだ決まっておらず、少なくともアレン一人で決めることではなかった。
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