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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第二章 森を越える者
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第二章 第六話 傷ついた子

茂みの向こうへ続く血痕を前に、アレンはすぐには足を進めなかった。街道から離れてからの距離を頭の中で確かめ、背後を振り返れば、草の高さ越しにまだ道の位置が分かる。ここまでなら戻れる。そう判断してから、折れた枝や蹄跡を踏まないよう足場を選び、低い木々の間へゆっくりと入っていった。


 中へ入ると、湿った土へ四つずつ不揃いな蹄跡が深く沈み、その間には何かを引きずった跡も残っていた。血は木の根元や葉の裏へ小さく散り、街道側より明らかに量が増えている。アレンは跡を踏まないよう進みながら、足跡の主が何度も身体の向きを変えていることを確認した。


 少し先で、木々の隙間から掠れた音が聞こえた。獣の唸りにも、人の声にも似ていたが、一度きりで途切れたため、アレンは反射的に剣へ手を伸ばしかけて止めた。音の正体が分からないまま武器を抜けば、もし怪我をした誰かがいるだけだった場合、こちらから恐怖を与えることになる。


「誰かいるのか?」


 返事はなかった。代わりに、茂みの奥で枝が一度だけ強く揺れ、その直後に何かが土へ崩れる重い音がした。アレンは声を張らず、相手に届く程度の大きさで続けた。


「近づく。嫌なら声を出してくれ。無理なら、何か音を立てるだけでもいい」


 数秒待ったが、言葉は返ってこない。ただ、葉の擦れる細かな音だけが続いていた。アレンは片手を身体の横へ開き、剣から離していることが見えるようにしてから、茂みを回り込むように一歩ずつ進んだ。


     ◇


 最初に見えたのは、淡い栗色の毛に覆われた脚だった。一本ではない。低木の向こうに四本の脚が折り重なるように見え、その上へ人の上半身が続いている。まだ幼さの残る顔、泥に汚れた短い髪、肩から背へ薄い布を巻いただけの簡素な服。アレンが息を止めた瞬間、地面に横たわっていたその子が顔を上げた。


 四本の脚の上へ人の上半身が続く姿を見て、アレンはようやく足跡の正体を理解した。目の前に倒れていたのは、幼いケンタウロスだった。


 年齢は人間でいえば十歳を少し過ぎた程度に見えた。上半身は細く、馬体も成体より明らかに小さい。右前脚の下部から血が流れ、毛が赤黒く固まっている。後脚の片方にも擦り傷が広がり、脇腹や脚の付け根にも泥と擦れた跡が残っていた。


「来るな!」


 声と同時に、子どもは前脚で地面を蹴って起き上がろうとした。しかし右前脚へ力が入った瞬間、身体が大きく傾き、脇の木へ肩からぶつかった。アレンは咄嗟に手を伸ばしかけたが、触れる寸前で止め、その場から一歩下がった。


「分かった。近づかない」


「嘘だ!」


「今は近づかない。剣も抜かない」


 アレンは腰の剣帯へ手を伸ばさず、両手が見える位置にあることを意識した。子どもの呼吸は速く、鼻から荒い息が漏れている。逃げようとしても右前脚へ体重を掛けられず、後ろへ下がれば低木と太い根に進路を塞がれていた。


 近くの木の樹皮は何かに擦られたように削れ、地面には先ほどまで追ってきた人間の靴跡も残っていた。しかし、今はそれを調べるより、目の前の子どもが傷を悪化させないことの方が重要だった。


「右の前脚、血が出てる。動かすともっと悪くなるかもしれない」


「見るな!」


「分かった」


 アレンは視線を少し外し、子どもの顔と地面の間を見るようにした。自分を見た瞬間に逃げようとした以上、言葉が通じても警戒が解けるとは限らない。なぜここまで恐れているのかは、まだ分からなかった。


「水を持ってる。ここに置くだけならいいか?」


 返事はない。子どもは警戒したままアレンを睨み、唇を固く結んでいた。アレンは許可されたとは考えず、まず背負い袋をゆっくり下ろし、水袋だけを取り出して自分の足元へ置いた。


「ここに置く。取りに来なくていい。俺が離れてから使ってもいい」


「……なんで」


「怪我してるから」


「人間が?」


 短い問いに、アレンはすぐ答えなかった。言葉の奥にある意味までは分からないが、少なくとも自分が人間に見えていること自体が、相手の警戒を強めているらしい。


「俺はアレン。サルダから東へ歩いてきた。街道で血と足跡を見つけて、ここまで来た。それだけだ」


「名前なんか聞いてない」


「そうだな。悪かった」


 子どもの目に一瞬だけ戸惑いが混じったが、警戒は消えなかった。アレンはそれ以上名乗らせようとも、相手の名前を尋ねようともせず、水袋を置いたまま数歩後ろへ下がった。


     ◇


 しばらくのあいだ、二人の間には風が葉を揺らす音しかなかった。アレンは座り込まず、急に動かないよう重心だけを落として待った。子どもは何度か右前脚を地面へつこうとして、そのたび痛みに顔を歪める。やがて喉が渇いているのか、水袋へ視線を向ける回数が増えた。


「取っていい。俺は動かない」


「……触った?」


「朝から俺が使ってる」


「違う。何か、入れた?」


「入れてない」


 子どもはすぐには信じなかったが、やがて前脚の位置を変えずに上半身だけを伸ばそうとした。しかし距離が足りず、身体が再び傾く。アレンは手を出さず、代わりに水袋を少しだけ近づける方法を考えた。


「投げない。地面を滑らせてもいいか?」


 しばらくして、子どもはほんの僅かに顎を動かした。頷いたのか、単に力が抜けただけなのか分からない程度の動きだったため、アレンはもう一度確認した。


「近づけるぞ」


「……そこまで」


 初めて明確な許可が返った。アレンは水袋の紐を持ち、土の上をゆっくり滑らせる。子どもが示した距離で手を離し、そのまま後ろへ下がった。


 子どもは水袋の匂いを確かめるようにしてから少量だけ飲み、少し間を置いてもう一度口をつけた。飲み終えても礼は言わず、水袋を脇へ置いたままアレンを見ている。


「脚、手当てできると思う」


「触るな」


「触らないなら、血は止めにくい」


「平気だ」


「さっき立てなかった」


 その言葉に子どもの顔が強張り、アレンは言い方が悪かったと気づいた。逃げられないことを突きつけるような言い方では、警戒を強めるだけだった。


「悪い。責めてるわけじゃない。血が止まらないなら、このまま動く方が危ないって言いたかった」


 子どもは何も答えなかった。アレンは背負い袋から清潔な布と包帯代わりに使える細長い布を出し、自分の前へ置いた。旅のために用意していたものの一部で、まだ使っていない。


「これを置く。自分で巻けるなら、それでもいい」


「……巻けない」


 返ってきた声は、これまでで一番小さかった。傷は右前脚の低い位置にあり、痛めた脚を浮かせたまま自分で布を巻くのは難しいのだろう。


「じゃあ、俺が巻くしかない。でも、勝手には触らない」


「人間に触られるくらいなら……」


 子どもはそこで言葉を切り、歯を食いしばった。何を続けようとしたのかは聞かず、アレンは待った。やがて右前脚の下から新しい血が一筋落ち、土へ染み込んだ。


「血を止めたら、すぐ離れる?」


「必要以上には触らない。嫌だって言ったら止める。ただ、途中で止めたら危ない場合は、その理由を言う」


「……剣は?」


「置く」


 アレンは剣帯ごと外し、鞘に収まった剣を自分から離れた木の根元へ横たえた。すぐ手を伸ばして届く距離ではないことを見せてから、布と水を持ってもう一度子どもの方を見る。


「近づいていいか?」


 長い沈黙のあと、子どもは震える息を吐いた。視線はまだアレンの手元から離れなかったが、やがて掠れた声で条件を告げた。


「……前から来るな」


「分かった。横から行く」


     ◇


 アレンは子どもから見える位置を保ったまま右側へ回り込んだ。近くで見ると、右前脚の毛が擦り切れ、その下に細長い裂傷が走っている。周囲には赤く擦れた跡もあったが、何が原因なのかはまだ判断できなかった。


「水で洗う。少し痛むと思う」


「……早くして」


 アレンは布を湿らせ、傷の周囲の泥と固まった血を少しずつ拭った。次にどこへ触れるのかを短く伝えながら進めたが、右前脚の後ろ側へ布を回そうとした瞬間、子どもが身体を引いた。


「やめろ!」


 アレンは即座に手を離した。傷口からまた少し血が滲んだが、押さえつけて続けることはしなかった。


「止めた。何が嫌だった?」


「後ろに手を回すな」


「分かった。見えるところからだけ触る」


 それでは布を一周させにくい。アレンは少し考え、細長い布を地面から脚の下へ通し、両端を子どもから見える前側で合わせる方法に変えた。完全な固定にはならないが、傷を覆って圧迫するだけなら十分できる。


「これなら手を後ろへ回さない。布を下へ通すだけだ」


 子どもはアレンの手元を見つめ、やがて小さく頷いた。今度は一つずつ動きを説明しながら布を通し、傷を覆って緩みすぎない程度に結ぶ。アレンが最後に手を離すと、白かった布へすぐ淡い赤が滲んだものの、先ほどのように血が落ち続けることはなくなった。


「これでしばらく様子を見る。強く痛んだり、脚の先が変な感じになったら言ってくれ」


「……終わり?」


「今は」


 アレンは約束した通りすぐに距離を取り、剣を置いた場所より手前まで下がった。子どもは布の巻かれた右前脚を見下ろし、何度か呼吸を整えている。まだ警戒は消えていない。それでも、先ほどまでのように今すぐ逃げようとはしなかった。


 アレンも安心したとは考えなかった。怪我の理由も、人間の靴跡が一緒に残っていた理由も分からず、目の前の子どもが自分を恐れる理由さえまだ知らない。


 変わったのは、血が流れ続けていた脚へ布が巻かれ、水袋が子どもの手元にあることだけだった。アレンは少し離れた地面へ腰を下ろし、答えを急がず、子どもが傷を悪化させないよう見守ることにした。


 子どもはしばらく黙っていたが、やがて水袋を胸元へ引き寄せたまま、初めてアレンの顔を真正面から見た。警戒は残っていたものの、その視線には先ほどまでとは違う迷いが混じっていた。


「……なんで、まだいるんだ」


「一人で歩ける状態じゃないから」


 答えると、子どもの視線が僅かに揺れた。今度は逃げようとはせず、布の巻かれた脚とアレンを交互に見つめている。信じたわけではないが、先ほどまでの拒絶だけでもなくなっていた。


 アレンはそれで十分だと思った。名前も、何があったのかも、今すぐ聞く必要はない。右前脚を地面へつけられない幼いケンタウロスが、少なくともここで血を流し続けずに済むことが、今の自分にできる最初のことだった。

ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。

もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。

皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。

いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!

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