第二章 第五話 街道から外れた足跡
翌朝、アレンが目を覚ましたとき、窓の外ではサルダの町がすでに動き始めていた。石畳を進む荷車の音と、どこかの店が木戸を開ける音が重なり、階下からは焼いたパンと温かいスープの匂いが上がってくる。二晩続けた野営のあとだったせいか、寝台で眠った身体は思っていた以上に軽く、肩や脚に残っていた疲労もほとんど消えていた。
身支度を整えたアレンは、机の上へ置いた紙をもう一度開いた。昨日書き残した『東の森道――北寄り注意。蹄を取る罠の噂』という一文は、朝になって見てもそれ以上の意味を持ってはいない。ケンタウロスが戻っていないという話も、罠との関係も、食堂で聞いただけの噂に過ぎなかった。気になるからといって、それだけで危険な森へ向かう理由にはならない。
地図を広げると、サルダから東へ延びる主要街道はしばらく農地の間を進み、その先で草原沿いの道と森林近くの道へ分かれている。昨夜は町でもう少し情報を集めてから進む道を決めようと考えていた。少なくとも東へ向かう主要街道そのものが使えるのか、森側について聞いた噂以外に何か確かな情報があるのか、その二つくらいは確かめてから町を出るべきだろう。
荷物をまとめ、剣の位置と小袋を確認してから階下へ降りると、昨日の受付にいた女性が朝食を運ぶ従業員へ声を掛けていた。アレンの姿に気づくと、彼女は帳面から顔を上げる。
「よく眠れた?」
「はい。思ってたよりずっと」
「それならよかった。出るなら鍵はここへ。朝飯は先に食べていきな」
アレンは言われた通り食堂で温かい麦粥と卵、薄く切った焼き肉を食べた。食事を終えて受付へ鍵を返すと、昨日より少し軽くなった硬貨袋を確かめる。たった一晩でも宿へ泊まれば金は減る。旅を続けるなら、食料や宿にどれだけ使うかもこれから自分で考えていかなければならない。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だい?」
「東へ出る街道は、今も普通に通れますか。それと、森側の道について何か分かっていることはありますか?」
女性は少し考えてから、まず東へ向かう主要街道については荷車も旅人も普段通り使っていると答えた。そのうえで、森の北寄りでは獣に馬が驚いたという話や、蹄を取るような罠が見つかったという噂をここ数日で何度か聞いたが、自分で見たわけではなく、町の衛兵が通行を止めたという話もまだないと付け加えた。
「つまり、東の街道自体は通れるけど、森側は気をつけた方がいい?」
「そういうことだね。町で聞く話なんて半分くらいは大げさだけど、何もない場所に噂は立たない。少なくとも、一人でわざわざ森へ入る理由はないよ」
「分かりました。まずは街道を進みます」
「それがいい」
アレンは礼を言い、青月亭をあとにした。昨夜、自分で選んだ一人分の部屋はもう自分の場所ではなくなったが、それを寂しいとは感じなかった。一晩だけ必要な場所を借り、朝になれば返して次へ進む。それも旅というものなのだろう。
◇
サルダの東門を抜けると、町の外にはすでに多くの荷馬車が走っていた。昨日までの自分なら車体だけを見て避けていたかもしれないが、今は轍の深さと地面の硬さを先に見て、重そうな荷には踏み固められた部分を空ける。向こうから掌を見せる旅人には同じ仕草を返し、何もしない者にはこちらも無理に求めない。まだ数日しか歩いていないのに、教わったことが少しずつ自分の行動へ馴染んでいるのが分かった。
町から離れるにつれ、建物は減り、代わりに広い農地と牧草地が増えていった。低い石垣の向こうでは牛が草を食み、遠くでは人間と犬人の農夫が同じ荷車へ干し草を積んでいる。南側には緩やかな丘が続き、北東へ目を向ければ、遥か先に濃い緑の帯が横たわっていた。昨夜聞いた森なのかもしれないが、今いる街道からはまだかなり距離がある。
昼前には、サルダから来る荷車の数も次第に減った。道は二人の旅人が十分並べるほど広いままだったが、周囲の畑も少なくなり、腰ほどの高さまで伸びた草が風に揺れる場所が増えている。アレンは地図で現在地を確かめ、少し先に小さな休憩所が記されていることを確認してから歩みを続けた。
その途中、一台の空荷の馬車が向こうからやって来た。御者は年配の人間の男で、すれ違う少し前に掌を上げたため、アレンも同じように返す。馬車はそのまま通り過ぎようとしたが、御者が何かを思い出したように振り返った。
「兄ちゃん、一人か?」
「はい」
「東へ行くなら、道から外れない方がいいぞ。今朝、先で馬が何かに驚いたって話を聞いた」
「何か?」
「知らん。獣かもしれんし、ただ草むらで音がしただけかもしれん。俺は見てないからな」
断定しない言い方に、アレンは少しだけ昨日の自分を思い出した。聞いた話と自分で確認した事実を分けることは、旅人たちにとっても当たり前なのかもしれない。
「ありがとう。気をつけます」
「そうしろ。昼のうちに歩けるところまで歩くんだな」
馬車は西へ向かい、やがて小さくなった。アレンは剣へ手を掛けることはせず、代わりに周囲へ目を配るようにして東へ進んだ。
◇
それから半刻ほど歩いた頃、アレンは街道の左端で不自然に倒れている草に気づいた。風で伏せたようにも見えたが、そこだけ何本もの草が途中から折れ、土が細長く露出している。歩みを止めたアレンはすぐには近づかず、まず街道の前後と草原の奥を見回した。人影はなく、遠くまで見渡しても動くものは見えない。
道の端へ寄ってしゃがみ込むと、踏み荒らされた土にいくつかの跡が残っていた。人間の靴跡が二種類。それとは別に、大きな蹄跡がいくつも重なっている。馬が街道から草地へ入っただけなら珍しくないが、その跡は一定の幅で続かず、何度も向きを変えながら深く地面へ食い込んでいた。アレンは立ち上がらず、まず街道側から跡の流れを追った。
蹄跡は東から来て、ここで突然左へ逸れている。人間の靴跡はその周囲へ集まり、一部は草地の奥へ続いていた。馬車の車輪跡はない。鞍から落ちた者を助けたようにも見えるが、それならなぜ蹄跡がこれほど乱れているのか分からなかった。さらに目を凝らすと、一本の草の根元に赤黒いものが付着しており、乾ききっていない液体が葉から土へ細く垂れている。血だったが量は多くなく、表面にはまだ僅かな艶が残っていた。
周囲を見渡せば、同じ色が少し先にも点々と続いている。昨夜耳にした「蹄を取る形の罠」と、戻っていない若いケンタウロスの話が頭をよぎったが、それだけで目の前の跡と結びつけることはできない。蹄跡なら馬の可能性もあり、人間の靴跡があるからといって襲撃があったとも限らない。アレンは勝手に答えを作る代わりに、見えるものだけを順番に確認していった。
蹄跡は一頭分にしては左右の間隔が広く、後方にも別の二つの深い跡がある。馬が同じ場所を何度も踏んだのかとも考えたが、前後の位置関係が妙だった。さらに草の奥へ二、三歩だけ進むと、細い革紐の切れ端が土の上に落ちている。端は鋭く切られたのではなく、強い力で引き千切られたように毛羽立っていた。
アレンは革紐を拾わず、誰の物かも何に使われたのかも分からない以上、位置を変えない方がいいと判断した。代わりに倒れた草と血痕の方向を確かめると、それらは街道から北東へ離れ、遠くに見えていた森のある方角へ続いている。ここまで分かったのは、何者かが街道から外れ、怪我をした状態で北東へ移動した可能性があるということだけだった。
◇
アレンは一度街道へ戻り、追うべきかどうかを考えた。町へ戻って衛兵へ報告する選択肢もあるが、サルダからはすでにかなり歩いており、戻ればそれだけ時間が掛かる。血がまだ新しい以上、もし誰かが怪我をしているなら長く放置できない可能性もある。一方で、血痕を見ただけで何も考えず草むらへ入れば、昨夜聞いた「血の跡を見つけても一人で追わない」という忠告をそのまま破ることになる。
アレンは剣の柄へ手を置く代わりに、腰の小袋から紙と炭筆を取り出した。現在地と街道の方向、血痕が外れている場所を簡単に書き、近くの特徴的な石の形も記録する。もし戻ることになっても場所を見失わないためだった。
それから街道を東へ少し進んで周囲を調べると、数十歩先にも草地へ入った跡があり、そこには人間の靴跡が二つ並んでいた。横には先ほどと同じ幅の広い蹄跡が続いているが、どちらも街道へ戻った形跡はない。少なくとも何者かが道を外れ、そのまま北東へ進んだことだけは確かだった。
アレンは空を見上げた。まだ昼には少し早く、日没までには十分な時間がある。森そのものへ入るつもりはなく、血の跡を延々と追うつもりもない。ただ、街道から見える範囲で怪我をした者がすぐ近くに倒れていないかだけ確かめ、それ以上進む必要があると判断した時点で別の方法を考える。その線を越えないと決めてから、アレンは自分が戻れる位置を振り返って確かめ、草地へ踏み込んだ。
足元には折れた草と深い蹄跡が残り、その間に小さな血の点が続いている。進むほど街道の音は遠くなり、代わりに風が草を擦る音が大きくなった。アレンは自分の足跡も見失わないよう、ときどき振り返って街道の位置を確かめながら進む。
やがて血の量が少し増え、一本の低木には何かが身体を擦った跡と、枝先へ引っ掛かった淡い色の毛が数本残っていた。その下には地面を引きずったような細長い線と、さらに深く沈んだ蹄跡がある。アレンはそこで足を止め、目の前の痕跡をもう一度見比べた。馬が一頭ただ迷い込んだだけでは説明しにくくなってきたが、それでも何が起きたのかを断定できるほどの材料はまだない。
前方では草原が緩やかに下り、その先で低い木々が密集し始めていた。血痕と蹄跡は茂みの向こうへ続いている。アレンは背後にある街道の位置を確かめ、知らない道で覚えたばかりのことを忘れて勢いだけで進まないよう自分へ言い聞かせた。それでも、ここまで新しい血と異常な跡が残されている以上、何もなかったことにして歩き去ることもできない。
剣が鞘へ収まっていることを確かめ、アレンは呼吸を整えた。目の前に続く痕跡の先へ誰がいるのかはまだ分からないが、次に確かめるべきなのは、その足跡の正体だった。
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