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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第二章 森を越える者
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第二章 第四話 一人分の部屋

夕暮れのサルダでは、昼間とは違う種類の賑わいが始まっていた。中央広場から東へ伸びる宿泊区へ入ると、軒先へ吊るされた灯りがひとつずつ点き、寝台や杯、湯気の立つ鍋を描いた看板が風に揺れている。通りの幅は広場ほどではないが、人の流れは途切れず、旅装のまま荷物を抱えて歩く者、厩舎から戻ってきた商人、食事だけを求めて宿へ入る町の住人まで入り交じっていた。アレンは背負い袋の重さを肩で感じながら、どの建物へ入るべきかを決められず、最初の数軒を通り過ぎた。


 宿へ泊まること自体は、旅立つ前から当然必要になると分かっていた。それでも、実際に自分一人で選ぶとなると、何を基準にすればいいのか意外と分からない。入口が賑やかな宿は安心できるのか、それとも騒がしいだけなのか。値段が安ければ助かるが、荷物を置いて眠れる程度の安全は必要だった。食事付きの方が楽なのか、外で食べた方が安いのかも比較したことがない。ラークホロウでは誰かの家へ泊まることはあっても、金を払って一晩の場所を買うという経験はなかった。


 しばらく歩いたところで、アレンは三階建ての木造宿の前で足を止めた。入口の上には白い布へ青い月と一枚の羽根を描いた看板が掲げられ、その下には小さく『青月亭』と書かれている。扉は開いており、中から食事の匂いと話し声が漏れていたが、酒場のような騒がしさはない。脇には宿泊料を書いた板もあり、一人部屋、夕食付き、朝食付きでそれぞれ値段が分けられている。


 アレンは板の数字を二度見てから、自分の小袋の中身を頭の中で計算した。旅の初日から高い部屋へ泊まるつもりはないが、最も安い大部屋では複数の旅人と同じ空間で眠ることになるらしい。荷物と剣を抱えて初めての町で眠るなら、少し高くても一人部屋の方が落ち着けそうだった。


「……一晩くらいなら、大丈夫か」


 そう決めて中へ入ると、正面に細長い受付台があり、その向こうでは腕の太い人間の女性が帳面へ何かを書き込んでいた。年齢は四十前後に見え、栗色の髪を後ろでまとめ、前掛けの腰には鍵束を下げている。アレンに気づくと、女性は顔を上げて慣れた調子で声を掛けた。


「泊まり?」


「はい。一人です」


「一泊? 何日かいる?」


「まだ分からないので、まず一泊で」


「食事は?」


 アレンは入口の板に書かれていた値段を思い出し、少し考えてから夕食と朝食の両方を頼んだ。女性は頷き、帳面をこちらへ向ける。


「名前だけ書いて。荷物は部屋へ持っていって構わない。剣も抜かなきゃ問題なし。火を使うなら部屋では禁止、下の食堂か裏庭。湯は夜鐘の二つ目まで」


 言われた通り『アレン・ヴェイレン』と書き、代金を渡す。女性は硬貨を数えると、鍵束から小さな鉄鍵を一本外した。


「二階の七号室。階段上がって右。鍵を失くしたら追加で取るから気をつけて」


「分かりました」


「あと、窓から物を投げない。笑うところじゃなくて、本当にやる奴がいるからね」


 真顔で言われ、アレンは返事をしながら僅かに笑った。宿の規則というものも、旅を続ければいくつも覚えることになるのだろう。


     ◇


 二階へ上がり、七号室の鍵を回す。扉を開けると、そこにあったのは想像していたよりずっと小さな部屋だった。壁際に一人用の寝台、反対側に小さな机と椅子、荷物を置く木台、洗面用の水差しと桶。それだけで大半の空間が埋まっている。窓も一つしかなく、開けば裏手の屋根と細い路地が見えた。


 それでもアレンは、部屋へ一歩入ったところでしばらく立ち止まった。野営地ではない。ラークホロウの自室でもない。誰かに借りた場所でもなく、自分で宿を選び、自分で金を払い、今夜だけ自分のために確保した部屋だった。


 背負い袋を木台へ下ろすと、肩から重さが消えた。剣はすぐ手に取れる位置を考え、寝台と壁の間へ立て掛ける。最初はそれでいいと思ったが、倒れれば音がするし、寝ている間に足へ当たるかもしれない。結局、鞘紐を使って机の横へ軽く固定した。荷物についても、食料や硬貨を全部同じ場所へ置くのは少し不安になり、小袋だけは上着の内側へ残した。


 そこまで終えてから、アレンは自分が必要以上に慎重になっているのではないかと思った。けれど門の衛兵からも荷物は自分で守れと言われている。宿が信用できないからではなく、自分の物を自分で管理することも旅の一部なのだろう。


 寝台の端へ腰を下ろすと、藁を詰めた敷物が僅かに沈んだ。二晩続けて地面で眠った身体には、それだけでも十分柔らかく感じる。アレンは靴を脱がないまま一度だけ背中を預け、天井を見上げた。木の梁と白い漆喰。自宅の天井とはまったく違うのに、屋根があるだけで身体の緊張が少し抜けるのが分かった。


「……一人分、か」


 自室なら当たり前だった広さが、ここでは金を払って借りる一晩の場所になる。旅立つ前には考えもしなかったが、外の世界では眠る場所すら自分で選び、その選択に金も責任も伴う。小さな部屋だったが、アレンにはその狭さが妙に印象に残った。


     ◇


 夜鐘が鳴る前に一階へ降りると、食堂にはすでに多くの客が集まっていた。長机がいくつも並び、宿泊客だけでなく近所から食事に来たらしい者もいる。香草を入れた肉の煮込みと黒パン、豆を潰した温かい料理が順番に配られ、アレンも空いている席へ座った。


 向かいには大きな籠を足元へ置いた人間の行商人、斜め前には短い角を持つ山羊人の男が座っていた。互いに名前を尋ねることもなく食事を始めたが、しばらくすると行商人が翌日の道について山羊人へ尋ねた。


「東の森道、まだ止められてるのか?」


「完全には止まってない。けど、北寄りの道は使わない方がいいって話だ。荷車なら南を回れってさ」


「また獣か?」


「獣だけならまだいい。森の手前で罠が見つかってる。誰が置いたかは知らんが、蹄を取る形だったって」


 アレンは匙を動かしながら、無意識に会話へ耳を向けた。蹄という言葉に、行商人も眉を寄せる。


「ケンタウロス狙いか?」


「さあな。あの辺りは草原から森へ抜ける連中も多いから、そう見えるだけかもしれん。ただ、最近は若いのが一人戻ってないって噂もある」


「噂ばっかり増えるな」


「だから旅人は余計な近道をしない。森へ入るなら昼、道から外れない、血の跡を見つけても一人で追わない。昔から言われてることだ」


 そこで二人の話題は別の商売の話へ移った。アレンも食事へ視線を戻したが、耳に残った言葉までは消えなかった。東の森道には何か問題があり、蹄を取る形の罠が見つかり、若いケンタウロスが戻っていないという。ただし、食堂で交わされたのはあくまで旅人同士の噂であり、三つの話が本当に繋がっているのかは誰にも分からない。


 すぐに何かをする理由はなかった。自分が明日どこへ向かうかさえ、まだ決めていない。それでも、知らない土地について聞いた情報を忘れる必要もない。食後に部屋へ戻ったら、地図を見て東の森がどこにあるのかだけ確認しておこうと考えた。


 食事を終えたあと、宿の裏手にある共同の湯場で身体の汚れを落とし、アレンは部屋へ戻った。昼間に見た町の位置関係や街道で得た情報を紙へ簡単に書き足し、最後に『東の森道――北寄り注意。蹄を取る罠の噂』とだけ記しておく。ケンタウロスが狙われているとは書かなかった。食堂で話していた二人自身も、それを事実として断定してはいなかったからだ。


 紙を閉じて机へ置くと、アレンは扉の鍵を確かめた。昨夜までは眠る前に火の状態や風向き、周囲の気配まで気にしていたが、今夜は戸締まりと荷物を確かめればいい。あまりに簡単に感じて一度取っ手を引き、本当に閉まっていることを確認してから、自分でも少し慎重すぎると思って苦笑した。


     ◇


 窓の外では、夜になっても町の音が完全には消えなかった。遠くで誰かが笑い、荷車が石畳を通り、宿の下から食器を片づける音が聞こえてくる。ラークホロウの夜なら、この時間には家々の灯りも少なくなり、風や虫の音の方がよく聞こえた。二晩過ごした街道の野営地とも違い、壁一枚の向こうでは名前も知らない者たちの生活がまだ続いていた。


 アレンは上着と小袋を手の届く場所へ置き、寝台へ横になった。思っていた以上に身体が沈み、地面とは比べものにならない柔らかさに自然と息が漏れる。旅人になるということを想像したとき、こんな小さな部屋で一人、知らない町の音を聞きながら眠る夜までは思い描いていなかった。


 今日、自分で町へ入り、自分で宿を選び、自分の名前を書き、自分の金で一人分の部屋を借りた。どれも大きな出来事ではない。それでも、誰かが用意した場所ではなく、自分の判断で今夜の居場所を決めたということが、アレンには旅立ちとは別の意味を持っているように感じられた。


 机の上には、東の森道について書いた紙が置かれている。明日になれば町でもう少し情報を集めることはできるだろうし、どの道を進むのかを決めるのはそのあとでいい。アレンは目を閉じ、外から僅かに届く声を聞きながら身体の力を抜いていった。知らない町で自分が選んだ小さな一人部屋は、少なくとも朝までは確かに自分の居場所だった。

ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。

もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。

皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。

いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!

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