第二章 第三話 最初の町
前日の夕暮れ、街道脇の石柱が示していた旅人休地へ着いた頃には、空の西側へ薄い橙色が残るだけになっていた。低い石壁に囲まれた平地には簡素な屋根と共同の炉、水を溜める石槽があり、すでに何組かの旅人がそれぞれの場所で夕食や寝支度を始めていた。アレンも空いている場所を確かめて荷物を下ろし、簡単な食事を済ませると早めに身体を休めた。ラークホロウを離れて二度目の夜は、最初の夜ほど一人であることを強く意識せず、近くで薪が爆ぜる音や他の旅人の気配を聞きながら眠ることができた。
翌朝、空が明るくなり始める頃には、何人かがすでに休地を発っていた。アレンも身体と荷物を確かめ、水を補充して南東へ続く街道へ戻る。午前の道は前日より人の往来が多く、荷馬車や農具を担いだ者、背負い籠を持つ者たちが街道と周囲の畑を結ぶ細道を行き来していた。重い荷馬車が来れば地面の状態を見て道を譲り、掌を軽く見せる旅人には同じ仕草を返す。昨日覚えたことが、今日は考えるより先に身体から出るのが少し不思議だった。
進むにつれて草原は減り、穀物畑や果樹園、家畜を囲う長い柵が増えていった。石造りの倉庫や屋根の高い納屋も点在し、道標の間隔まで短くなっている。やがて緩やかな丘を越えると視界が開け、灰褐色の石壁と、その内側に重なる赤や茶色の屋根が遠くに現れた。中央付近には高い鐘楼が立ち、その向こうでは二基の大きな風車がゆっくりと羽根を回している。門へ続く街道には荷馬車と旅人が連なり、壁の外まで人の動きが広がっていた。
「……あれが、サルダか」
季節市の日のラークホロウも大勢で賑わったが、あれは限られた時期だけ村の姿が変わる特別な日だった。目の前のサルダでは、この人の流れそのものが日常なのだろう。アレンは歩みを再開し、近づくにつれて大きくなる車輪の音や話し声、焼いたパンや家畜、乾いた木材の匂いを感じながら、初めて訪れる町の輪郭を少しずつ自分の中へ取り込んでいった。
◇
サルダの北西側に開かれた門には、荷馬車用の大きな通路と徒歩の者が使う小さな通路が分けて設けられていた。門の上には町の名を刻んだ石板が嵌め込まれ、その両側には麦穂と歯車を組み合わせた紋章が彫られている。アレンは周囲の旅人に倣って徒歩用の列へ並び、前にいる者たちがどのような確認を受けているのかを見ながら順番を待った。
衛兵は大きな商売用の荷を持つ者だけを脇へ案内し、普通の旅人には簡単な質問をして通していた。アレンの番になると、人間の衛兵が腰の剣と背負い袋へ視線を向け、隣に立つ淡い褐色の毛を持つ猫人の女性衛兵が木板へ何かを書き込んだ。
「旅人か?」
「はい。ラークホロウから来ました」
「サルダは初めて?」
「初めてです」
猫人の衛兵は小さく頷くと、木板へ視線を戻しながら滞在予定について続けて尋ねた。質問の調子は事務的だったが、初めて町へ入る旅人を急かすような様子はなかった。
「まだ決めてません。今日は町を見てから、宿を探すつもりです」
「分かった。剣は町中で持っていて構わないけど、理由もなく抜けば衛兵が来る。混雑した場所では鞘を人にぶつけないよう気をつけて」
「分かりました」
「宿が多いのは中央広場から東側よ。初めてなら、広場の案内板を見ておくといい」
アレンが礼を言うと、人間の衛兵も軽く手を上げ、最後に財布と荷物は自分で守るよう注意した。人が多い場所では、それだけ物を失くしたり揉め事に巻き込まれたりする可能性も増えるらしい。
「ようこそ、サルダへ」
「ありがとうございます」
門を抜けると、アレンは目の前に広がった光景に思わず歩調を緩めた。正面の通りはラークホロウの中央道より遥かに広く、その両側には二階建てや三階建ての建物が隙間なく続いている。一階には店の大きな窓や開け放たれた扉が並び、軒から突き出した木札にはパン、靴、酒杯、針、寝台などの絵が描かれていた。文字が読めない者でも、何を扱う店なのか分かるよう工夫されているのだろう。
道を行き交う者の数も多かった。工具箱を抱えたゴブリンが買い物籠を持つ人間を追い越し、犬人たちが樽を転がして店へ運び込む。頭上では荷物を抱えたハーピーが二階の広い足場へ降り、通りの端に敷かれた滑らかな石の帯ではラミアが長い身体を傷めないよう進んでいた。アレンにとって種族そのものは季節市で見たことのある者ばかりだったが、ラークホロウでは外から訪れる旅人だった彼らが、ここでは店を開き、働き、買い物をする普通の住民として暮らしている。その違いの方が、町の大きさ以上に新鮮だった。
「……すごいな」
周囲の邪魔にならないよう道端へ寄り、アレンは衛兵に教えられた中央広場を目指した。しかし、正面の大通りはほどなく二つへ分かれ、片方は下り坂、もう一方は右へ緩く曲がっている。持っている地図にはサルダまでの街道しか詳しく描かれておらず、町の内部までは分からなかったため、無理にどちらかを選ばず、店先で木箱を積み直していた犬人の若い女性へ声を掛けた。
「すみません。中央広場は、どちらですか?」
「広場? 初めて来たの?」
「はい」
「それなら右。鐘楼を目印にすると分かりやすいよ。次の角で右へ入りすぎると工房通りだから、鐘の音が正面から聞こえる方へ進めば大丈夫」
「ありがとう」
「昼の鐘が鳴ると人が増えるから、荷物には気をつけてね」
アレンは礼を言い、建物の間から見える鐘楼を目印に進んだ。昨日なら知らない道で立ち止まることを少し情けなく感じたかもしれないが、今は分からないことを尋ねるのも旅の一部だと思える。しばらく歩くと通りの先が大きく開け、人々の声がさらに強くなった。
◇
中央広場には円形の噴水があり、その周囲を囲むように露店や荷車が並んでいた。四方から伸びる通りには絶えず人が出入りし、焼いた肉やパン、香辛料の匂いが混ざり合っている。噴水の近くでは子供たちが水へ手を伸ばし、少し離れた場所では赤い羽毛を持つハーピーの老人が細い笛を吹いていた。
広場の一角には町の主要な通りを簡略化した案内板が立ち、市場、治療所、厩舎、工房、浴場、宿泊区などが文字と記号で示されていた。アレンは紙束と炭筆を取り出し、中央広場と主要な場所の位置関係だけを書き写す。すべての路地を覚える必要はなく、まず戻る場所と大きな目印さえ分かれば十分だった。
まだ日は高かったため、アレンはすぐ宿へ向かわず、広場の周囲を歩いてみることにした。露店には乾燥させた赤い果実、香油、色の違う塩、模様を編み込んだ布、小さな魔力灯に使うらしい透明な石が並ぶ一方、ラークホロウでも見慣れた木製の匙や革紐、干し肉も売られている。知らないものだけで町ができているわけではなく、見慣れた暮らしの中へ知らないものが自然に混ざっていた。
その途中、保存用の硬いパンとはまったく違う香りに引かれ、アレンは広場のパン屋の前で足を止めた。店先には焼き上がったばかりの小さな丸パンが並び、表面には溶かした乳脂と細かな香草が塗られている。旅の食料には困っていなかったが、目の前にあるものを食べてみたいという気持ちまで我慢する理由もなかった。
「一つ、ください」
「二枚だよ」
アレンは小袋から硬貨を出して支払い、紙に包まれたパンを受け取った。包み越しにも温かさが掌へ伝わり、焼きたてなのだとすぐに分かった。
「旅人かい?」
「分かります?」
「その荷物ならね。初めてなら熱いうちに食べな」
「じゃあ、そうします」
広場の端へ移動して一口齧ると、薄く焼けた表面の香ばしさと柔らかな中身、香草の僅かな苦味が口へ広がった。朝から保存食を口にしていたこともあり、焼きたての温かさまで普段以上に鮮明に感じられる。
「……うまい」
ラークホロウにも焼きたてのパンはあったが、この味は知らなかった。大きな冒険でも七聖獣でもない。それでも、村を出なければ今日出会うことのなかったものの一つには違いなかった。
やがて鐘楼から低い音が響き、広場の人の流れが目に見えて増え始めた。工房の方角から休憩へ出てきた者が露店へ集まり、午前の商売を終えた者は荷物をまとめている。アレンは背負い袋を身体へ引き寄せ、衛兵たちから言われた通り、混雑の中では荷物を自分で守るよう意識した。
広場を離れて少し静かな通りへ入ると、今度は店ではなく町で暮らす者たちの生活が目についた。窓から洗濯物が干され、入口の段差では老人たちが話し込み、子供が木の輪を転がして走っている。二階の窓では猫人の少女が布団を叩き、その埃を下から通りかかった男が迷惑そうに見上げていた。建物の数も住んでいる種族もラークホロウより遥かに多いが、ここにも朝起きて働き、食事をし、誰かと言葉を交わし、夜になれば眠る者たちの日常がある。門を通った直後には大きすぎるように感じたサルダも、こうした姿を見ているうちに少しずつ一つの町として捉えられるようになっていった。
◇
午後、アレンは中央広場から大きく離れない範囲を歩き、案内板で見た主要な場所を自分の目で確かめた。治療所の前には杖をついた老人が待ち、工房通りからは金属を叩く音が響き、厩舎へ近づけば干し草と馬の匂いが強くなる。途中で同じ角を二度通ったときには苦笑したが、戻れば済む程度の間違いなら、それも次に迷わないための経験になる。
日が西へ傾き始める頃には、朝から歩き続けた脚にも確かな重さが溜まっていた。初めての町だからと無理に見て回り続ければ、明日に疲れを残すことになる。アレンは中央広場へ戻り、案内板に記された東側の宿泊区を改めて確認した。寝台を表す記号が並ぶ通りには大小さまざまな宿があるらしく、夕方になった今は軒先へ灯りが一つずつ灯り始めている。
「……次は宿か」
町へ着けば宿を取る。それだけなら旅立つ前から分かっていたが、実際にはどの宿を選ぶのか、いくらまで払うのか、食事は付くのか、剣や荷物をどう扱うのかまで自分で考えなければならない。今夜初めて知らない町で自分のための部屋を確保するのだと思うと、町へ入ったときとは別の緊張が僅かに生まれた。
アレンは案内板から東へ続く通りを見て、背負い袋の肩紐を持ち直した。朝には丘の向こうに見えていただけのサルダは、今では門の衛兵の声や広場の鐘、焼きたてのパンの味、人々が暮らす路地を持つ場所になっている。それでも、まだ知らないことの方が遥かに多かった。
そのすべてを今日一日で知る必要はなかった。アレンは夕暮れの通りへ歩き出し、寝台を描いた看板が並び始める方角へ向かう。町へ入るという最初の経験は終わったが、知らない土地で自分の居場所を一つ選ぶという次の経験は、まだこれからだった。
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