第二章 第二話 知らない道
朝の野営地を離れてからしばらくのあいだ、街道にはアレン以外の姿がなかった。南東へ続く道は緩やかな丘に沿って伸び、その両側には朝露の残る草原と低い柵で囲われた農地が広がっている。ラークホロウの周囲にも似た景色はあったが、帰る道を知っている土地と、地図の一本の線だけを頼りに歩く土地では感じ方が違った。分かれ道へ差しかかるたびに方角と道標を確かめるうち、自分が本当に知らない場所へ入ったのだという実感が少しずつ強くなっていった。
太陽が丘の上へ昇る頃には、街道の表情にも目が向くようになった。中央には大小の轍が重なり、その間へ馬や牛の蹄跡、人間の靴跡、それとは違う爪先や幅広の足跡まで入り交じっている。ラークホロウの季節市へ来た多くの種族も、こうした道を歩いてきたのだと思うと、これまで市場でしか見えなかった外の世界が、初めて一本の道として自分の前へ繋がったように感じられた。
やがて前方から車輪と小さな鐘の音が近づき、二頭の馬に引かれた荷馬車が丘の向こうから現れた。木箱や麻袋を高く積んだ車体の後ろには、同じような二台目も続いている。道幅には余裕があると思って中央寄りを歩いていたアレンへ、先頭の御者台に座る犬人の男が片手を上げた。
「兄ちゃん、悪いが草側へ寄ってくれ! こっちは荷が重い!」
「あ、悪い!」
慌てて端へ寄ってから、アレンは中央部分だけが何度も車輪に踏み固められ、道端ほど土が柔らかいことに気づいた。草の近くには湿りも残り、あれだけの荷を積んだ車輪が沈めば簡単には抜けられそうにない。犬人の御者は横へ差しかかると馬の速度を僅かに落とし、責める様子もなく笑った。
「旅を始めたばかりか?」
「分かるのか?」
「慣れてる奴なら、荷車を見たら道の状態も見るからな。馬車が絶対に真ん中って決まりじゃない。荷の重さと地面を見て、お互い動きやすい方へ寄るだけだ」
「なるほど……覚えておくよ」
「最初から全部知ってる奴はいないさ。知らない土地じゃ、こういうことの方が剣より役に立つこともある」
男はアレンの腰の剣を一度見たあと、行き先を尋ねた。その視線に警戒した様子はなく、この街道では武器を持つ旅人も珍しくないらしい。
「サルダ。そこから先は、まだ決めてない」
「なら道は合ってる。この先の三叉路は一番広い道だ。石柱にもサルダの名が残ってるが、古いから暗くなる前に見た方がいい」
「ありがとう」
「礼はいらん。次に迷ってる奴がいたら、お前が教えてやれ」
犬人の御者は軽く手を上げ、二台の荷馬車とともに遠ざかっていった。アレンは深い轍を見ながら、ラークホロウでも荷馬車が来れば自然に道を空けていたことを思い出す。ただ避けるだけでなく、地面や荷の状態まで見る理由があるとは考えたことがなかった。
「道にも、ちゃんと使い方があるんだな」
再び歩き始めてからは、前方だけでなく道の硬さや幅にも自然と目が向くようになった。知らなかったことを一つ覚えただけで、同じ街道の見え方が少し変わっていた。
◇
昼が近づくまでに、アレンは何組もの旅人とすれ違った。籠を背負う人間、細身の馬に乗る長耳の女性、小さな荷車を引くゴブリンの老人、街道脇で靴紐を直すハーピーの青年。季節市のように一か所へ集まるのではなく、それぞれ別の場所から現れ、短い時間だけ同じ道を共有してまた離れていく。
その中で、何人かがすれ違う直前に武器を持っていない側の掌を胸の高さまで軽く見せることに気づいた。三度目に同じ仕草を見たところで真似してみると、向かいから来た猫人の男も同じように返した。意味が気になったアレンは、少し先で靴の中の小石を取り除いていた年配の女性へ尋ねてみた。
「挨拶みたいなものだよ。武器を抜くつもりはない、邪魔もしないってね。絶対の決まりじゃないけど、一人で歩くなら覚えておいて損はないさ」
「ラークホロウじゃ、ほとんど見なかった」
「村なら相手の顔を知ってるだろう? 街道じゃ知らない者同士が近くを通るから、少しだけ敵意がないって見せるのさ。ただし、どこでも同じだと思っちゃいけないよ。土地によって挨拶は違うし、何もしない人もいる」
「場所によって違うのか」
「自分の常識が世界中の常識だと思って歩くと、いつか面倒なことになるってことさ」
アレンは頷き、礼を言った。女性は「知らないって言えるなら大丈夫さ」と笑って歩き去り、アレンも再び南東へ進んだ。荷馬車への譲り方も、見知らぬ相手への仕草も、ラークホロウでは改めて考えなかったことだった。顔も目的も知らない者同士が同じ道を使うからこそ、誤解を減らすための小さな習慣が必要になるのだろう。
◇
昼を少し過ぎた頃、街道脇に旅人用の井戸が見えてきた。簡素な屋根の下に深い井戸と長椅子があり、反対側には砂を厚く敷いた広い空間が取られている。柱には『旅人井戸 水を汚すな 桶は戻せ』と書かれた木札が打ち付けられており、アレンは昼食を取るため他の者の邪魔にならない場所へ荷物を下ろした。
先客は茶色い鱗のリザードマン、地図らしい紙へ何かを書き込む人間の女性、砂地へ長い下半身を休ませるラミアの女性だった。アレンが近づくとリザードマンが掌を短く見せたため、今朝覚えた仕草を返す。それだけで男は食事へ戻り、名前も出身も尋ねられなかった。
井戸へ目を向けていると、ラミアの女性がアレンへ声を掛けた。アレンが顔を向けると、彼女は井戸を顎で示した。
「水なら飲めるわよ。今朝、北から来た商隊が掃除したそうだから」
「ありがとう。朝に汲んだ分がまだあるから大丈夫そうだ」
「なら無理に汲まなくていいわね。次に来る人の分もあるもの」
その言葉に、アレンは木札と使い込まれた桶を見た。井戸も道と同じで、誰か一人だけが使うものではない。次に来る者を考えて扱うからこそ、知らない者同士でも同じ場所を利用できるのだろう。
長椅子でパンと干し肉を食べ始めると、地図を見ていた女性が顔を上げた。膝の紙には街道らしい線と、いくつもの小さな印が書き込まれていた。
「南東へ行くの?」
「サルダまで」
「それなら、この先の三叉路は一番広い道。右は古い採石場、左は農村を回る道だから遠回りになるわ」
「道標があるって、朝にも聞いた」
「あるけど、右側の文字がかなり削れてるの。暗くなる前なら大丈夫だと思う」
女性は自分の地図を傾け、分岐の形だけを見せた。アレンも手元の地図と照らし合わせてから礼を言う。
「私も昨日、ここで教えてもらっただけよ」
女性が笑って紙へ視線を戻すのを見ながら、アレンは朝の犬人の御者の言葉を思い出した。次に迷う者がいたら、自分が教えればいい。街道には全員を知る村長も案内役もいないが、使う者同士が井戸を守り、道の状態を伝え、知っていることを次へ渡している。ラークホロウとは違う形で、ここにも人が暮らし続けるためのやり方があった。
◇
昼食を終えたアレンは、再び南東へ歩き始めた。朝より行き交う者は増えていたが、今度は荷馬車が近づく前に地面を見て場所を空け、掌を見せる旅人には同じ仕草を返せる。知ってしまえば難しいことではなく、数時間前まで知らなかった道へ少しずつ馴染んでいく感覚があった。
やがて教えられた三叉路へ辿り着くと、人の背丈より少し低い石柱に三方向の矢印が刻まれていた。正面には『サルダ』とはっきり残り、右側の文字は聞いていた通り風雨で上半分が削れている。左の道は畑の間へ大きく曲がっていたため、アレンは地図と照らし合わせて中央の道を選んだ。
結果だけなら、何も教わらなくても同じ道を選べたかもしれない。それでも、右と左がどこへ続くかを知ったうえで決めるのと、たまたま正しい道へ入るのでは違う。アレンは地図を畳み、午後の街道をそのまま進んだ。
日が傾き始めた頃、道端に低い石柱を見つけた。上部には円の中へ横線を一本刻んだ印があり、その下には『旅人休地 南東、半刻』と彫られている。朝から歩き続けた脚には疲れも溜まり始めており、無理に距離を伸ばす理由はなかった。
「今日は、そこまでだな」
アレンは石柱が示す方向へ歩き出した。朝にはただ目的地へ続くだけに見えた街道には、荷車が通る理由があり、見知らぬ者同士の仕草があり、水場を次へ残す考え方があり、道を知る者から知らない者へ情報を渡す習慣があった。どれも大きな決まりではないが、出身も種族も違う者たちが同じ道を使うためには必要なのだろう。
ラークホロウを出るまで、外の世界とは遠くにある未知そのものだった。けれど実際に歩いてみれば、知らないことを一つずつ見つけ、必要なら誰かへ尋ね、覚えたことを次へ繋いでいくことで、少しずつ自分が歩ける場所へ変わっていく。アレンは夕方の街道を進みながら、朝にはただ「知らない道」だった場所を、今はほんの少しだけ理解して歩いていることを感じていた。
ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!




