第二章 第一話 旅人の朝
夜明け前の冷気が頬へ触れ、アレンはゆっくりと目を覚ました。最初に視界へ入ったのは、二十年近く見慣れてきた自室の木の天井ではなく、薄い朝靄を透かして夜の紺色から淡い青へ変わり始めている空だった。背中には外套を敷いていても消しきれない地面の硬さが残り、首を動かせば肩から腰にかけて僅かな張りを感じる。少し離れた場所では昨夜の焚き火がほとんど灰へ変わり、その奥に残った炭だけが微かな赤みを保っていた。
意識がはっきりするにつれて、自分がもうラークホロウにはいないことも自然と思い出した。昨日まで当たり前だった家の音も、エララの気配も、村の誰かが立てる生活の音もない。聞こえるのは細い流れの音と、風が朝露を含んだ草を撫でる音だけだったが、その静けさに昨夜ほど強い違和感は覚えなかった。
「……朝か」
小さく呟いて身体を起こすと、胸元で革紐の先にある金属が僅かに揺れた。アレンはそこへ触れ、昨夜まで続いた不可解な出来事を思い出したものの、同じことを何度も頭の中で並べ直すのはやめた。答えはまだないし、朝になったからといって急に増えるものでもない。
それでも、確認だけはしておきたかった。
革紐を外し、父がエララへ託した金属の羽根を朝の光へ翳す。鈍い金色と銀色が重なった表面には、根元の鉤爪と翼を組み合わせた意匠や、長く使われてきたことを示す細かな擦れが残っていたが、それ以外に目立った変化はなかった。昨夜見えたものは消えており、裏側にも新しい刻印や文字の痕跡は残っていない。
「やっぱり、今は何もないか」
アレンは指先で表面を一度なぞったあと、すぐに羽根をしまおうとはしなかった。夢だったと決めることも、すべて現実だったと断定することも、今はできない。だからこそ、記憶が薄れる前に見たものだけを残しておく必要があると考えた。
背負い袋から小さな紙束と炭筆を取り出し、岩の比較的平らな面へ紙を置く。昨夜の出来事については、すでに頭の中で何度も思い返しているため、改めて細部を考え直すのではなく、事実として覚えている部分だけを短く書き留めた。羽根が月光に反応したこと、七聖獣に関わる印と八つ目の空白が見えたこと、未知の文字が現れたこと、自分の意思とは関係なくエーテルが反応したこと。文字そのものは正確な形を覚えていないため、無理に再現せず、理解した意味だけを記録する。
『お前は、一つ忘れている』
その下へ、昨夜の空の状態と、月光が羽根へ当たったときに変化が起きたことを書き足した。最後に『現時点では断定しない』と記してから一度読み返し、自分の推測を事実のように書いていないことを確かめると、紙を丁寧に折って地図とは別の内袋へしまった。
「……これならいいかな」
誰へ確認しているのか、自分でも分かっていた。エララがいれば、きっと見たものと考えたことを混ぜていないか、時間や周囲の状況まで残したかと聞いただろう。家を離れたからといって、二十年近く教えられてきた考え方まで消えるわけではなく、一人になった今だからこそ、その意味を以前より強く感じる。
アレンは羽根を再び首へ掛け、服の下へ戻した。何が欠けているのかも、なぜあの羽根が反応したのかも、父がどこまで知っていたのかも分からないままだったが、今朝できることは済ませた。答えのない問いを抱えていても、今日歩くべき道まで消えるわけではなかった。
◇
朝食には、ラークホロウから持たされたパンと燻製肉を食べた。自分で準備した保存食だけでもサルダへ着くまで足りるはずだったのに、見送りへ集まった村人たちが別れ際に次々と追加したため、背負い袋の一角にはまだかなりの食料が残っている。包みを一つ取り出しただけで、その下から自分が入れた覚えのない小さな包みまで現れ、アレンは思わず眉を寄せた。
「……誰が入れたんだ、これ」
昨日の見送りを思い返しても、候補が多すぎて分からなかった。ボルドかもしれないし、別の誰かが道中で食べるようにと押し込んだのかもしれない。それでも、包みの中身を確かめるのは後にして、まずは予定していたパンを口へ運んだ。
味はラークホロウで何度も食べてきたものと変わらなかったが、家を離れて初めて迎えた朝に食べると、昨日までとは少し違って感じられた。台所で食事を用意していたエララの姿や、旅立ちの朝に交わした何気ない会話まで自然と思い出されたものの、アレンはその記憶を無理に追い払わなかった。家が恋しいことと、自分で選んだ旅を後悔することは別だった。
食べながら、今日の身体の状態も確かめていく。背中と腰には硬い地面で眠ったことによる軽い張りがあるものの、歩くことに支障はなく、昨日長く使った脚にも異常な痛みはない。水袋は半分ほど残っており、近くの流れで満たしておけば問題なさそうだった。空には薄い雲があるが、すぐに雨が降りそうな気配はなく、風も今のところ穏やかだった。
地図では、このまま南東へ進めばサルダへ向かう。昨日は予想より少し先まで歩けたため、今日は無理に距離を稼ぐ必要はない。身体の疲れを見ながら進み、夕方になる前に次の休める場所を探し始めれば十分だと考えたところで、アレンは小さく笑った。
「結局、全部お母さんに教わったことだな」
旅へ出る前は、自分一人で自由に歩けることばかりを考えていた。けれど実際に一人になれば、自由に進むためには自分の状態も、水も、食料も、天候も、自分で確かめなければならない。誰にも指示されないということは、何も考えなくていいという意味ではなく、自分で判断し、その結果を自分で引き受けることなのだと、たった一晩外で過ごしただけでも少しずつ理解できた。
七歳の頃に思い描いていた旅には、こうした小さな準備はほとんど存在していなかった。遠い国や知らない種族、竜や七聖獣のような大きなものばかりを想像していたが、実際には毎日の食事や水、身体の状態を確かめることを積み重ねなければ、その場所まで辿り着くことすらできない。アレンは残ったパンを食べ終え、食料を背負い袋へ戻しながら、旅とは思っていたよりずっと地道なものなのかもしれないと感じていた。
◇
食事を終えると、アレンは野営地の片づけに取りかかった。灰だけを見れば焚き火は消えているように見えたが、枝で崩すと内側にはまだ熱を持つ炭が残っていたため、近くの流れから運んだ水を少しずつ掛けながら灰と混ぜ、内部まで確実に冷やしていく。煙が完全に消えたあとも手を近づけて熱が残っていないことを確かめ、それから寝床として使った周囲を見回した。
食べ物の欠片や切れた紐、布などは落ちておらず、夜の間に荷物からこぼれたものも見当たらなかった。火の周囲へ集めていた石も邪魔にならない場所へ戻し、自分が持ち込んだものが残っていないかもう一度確認する。少し離れて眺めると、昨夜ここで誰かが休んだ痕跡は僅かに草が倒れている程度まで薄くなっていた。
「たぶん……合格かな」
思わず口にしてから、アレンは自分で笑った。もしエララが実際に見ていれば、褒める前に何か一つくらい見落としを指摘する気もする。それでも、初めて自分だけで選んだ場所で夜を越し、朝になって火も荷物も問題なく片づけられたことには、小さな達成感があった。
背負い袋を肩へ掛けると、身体が僅かに沈んだ。昨日より食料は減っているはずだが、村人たちが追加した分は一晩で軽くなる量ではない。肩紐の長さを調整し、荷物の重さが片側へ寄らない位置へ整えてから、腰へ下げた剣も確かめる。
エララから旅立ちの日に渡された本物の剣は、昨日一日歩いただけでも訓練用の武器とは違うことをいくつも教えてくれていた。稽古なら必要なときだけ持てばいいが、旅では一日中腰へ下げたまま歩くことになる。鞘の角度が悪ければ脚へ当たり、背負い袋との位置が合わなければ身体を捻るたびに邪魔になるため、剣そのものを扱う技術とは別に、武器を身につけたまま生活することにも慣れなければならなかった。
アレンは鞘を僅かに後ろへずらし、何度か歩いて位置を確かめた。昨日よりは自然に感じられ、少なくとも脚へ何度も当たることはなさそうだった。剣を振るための訓練は何年も続けてきたが、剣を持って暮らすのはまだ二日目であり、こうしたことは村の訓練場に立っているだけでは分からなかった。
最後に細い流れまで歩き、水面に不自然な濁りや油が浮いていないことを確かめてから水袋を満たした。掌へ少量掬って匂いと味に異常がないことを確認し、そのまま冷たい水で顔を洗うと、予想以上の冷たさに肩が反射的に縮んだ。
「冷たっ……朝からこれはきついな」
顔を上げても、もちろん笑う者はいなかった。それでも昨日ほど返事のない静けさを意識することはなく、一人でいることを当たり前だと思えるほどではないにしても、少なくとも何かを口にするたび誰かの反応を待つ感覚は少しずつ薄れているようだった。
アレンは濡れた顔を拭き、朝日が差し始めた街道の方角へ目を向けた。身体の状態も確かめ、水も補給し、火も消し、荷物の確認も終わっている。昨日までならエララが最後に見ていたようなことを、今朝は自分一人で終わらせたのだと思うと、ほんの僅かではあっても、昨日より旅人らしくなった気がした。
◇
街道へ戻る前に、アレンは野営地を一度だけ振り返った。低い岩壁と細い流れ、その間にある小さな平地は、地図に名前が載るような場所でもなければ、誰かが目的地として訪れるような場所でもない。これから旅を続ければ、似たような場所で何度も夜を過ごすことになるのかもしれず、そのたびに一つ一つの景色を覚えていられるとも思えなかった。
それでも、この場所だけはしばらく忘れないだろうと思った。初めて一人で夜を越し、旅人として最初の朝を迎えた場所であり、答えの出ないものを無理に解こうとせず、記録して持ち続けることを自分で選んだ場所でもある。昨夜までなら、分からないという状態そのものが気になって仕方なかったはずだが、今は分からないまま歩き出すこともできる。
アレンは街道へ戻り、昨日歩いてきた方角へ目を向けた。丘と草原の向こうにラークホロウがあるはずだが、ここから家々の姿を見ることはできない。今も帰る場所であることに変わりはないものの、今日進むべき方向は反対側にある。
南東へ続く街道そのものは昨日と何も変わっていない。それでも、昨日は家を離れ、見送られ、育った場所から遠ざかっていく一日だったのに対し、今朝は自分で起き、自分の身体を確かめ、食事をし、昨夜の出来事を記録し、野営地を片づけ、今日の進み方まで決めた。旅へ出ることと、旅を続けることは同じではないのだと、その違いを初めて迎えた朝に少しだけ理解できた。
胸元には、父がエララへ託した羽根がある。七聖獣についても、八つ目の空白についても、父自身についても、答えのないことはまだ多い。それでも、それらを抱えて歩くことはできるし、いつか別の場所で新しい手掛かりを見つけたときに、今日残した記録が役に立つかもしれない。
アレンは背負い袋の位置を整え、南東へ続く街道へ足を踏み出した。昨日までは、外の世界とはエララから聞かされる物語や、季節の市場へやって来る旅人たちが運んでくる話の中にあるものだった。けれど今日からは、自分で歩き、自分の目で確かめ、自分の判断で進んでいく場所になる。
緩やかな丘の向こうに何があるのかは、まだ見えなかった。それでも、見えないものを確かめたいという気持ちは、ラークホロウにいた頃から少しも変わっていない。アレンは朝の街道を一定の歩調で進みながら、旅立ちという一度きりの出来事が終わり、ここから本当の意味で旅を続ける毎日が始まったのだと静かに受け止めていた。
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