第一章 第二十八話 八つ目の空白
第一章が終わりました。第二章は9月1日から始まります。
日が西へ傾き始めた頃、アレンは街道脇に立つ古い道標の前で足を止めた。ラークホロウを出てから、すでにかなりの距離を歩いている。出発した直後は身体が軽く感じられ、景色が変わるたびに目を向けていたせいか、疲れもほとんど意識しなかった。それでも、こうして立ち止まってみれば脚には確かな重さが溜まっている。道標に刻まれた距離を見る限り、このまま進んでも日没までに次の町へ着くのは難しそうだった。
アレンは背負い袋から地図を取り出し、道標と周囲の地形を照らし合わせながら現在地を確かめた。予定より少し先まで進んでいる。初日から無理をする理由はないし、暗くなってから野営できる場所を探す方が危険だということも、出発前までに何度も教えられてきた。
「……今日はここまでだな」
声に出してから、返事がないことに気づいた。
朝までは、何かを言えばエララが返してきた。村を歩けば誰かしら声を掛けてきたし、森へ入るときにも隣には誰かの足音があった。今は街道を行く旅人の姿すらなく、振り返っても自分が歩いてきた道が夕暮れの中へ長く伸びているだけだった。そこで初めて、自分は本当に一人になったのだと実感する。胸の奥に小さな寂しさはあったが、不思議と嫌ではなかった。これも自分で選んだ旅の一部なのだと思えた。
街道から大きく離れない範囲で周囲を調べると、低い岩壁を背にできる場所を見つけた。地面は乾いており、大型の獣が頻繁に通ったような跡もない。近くには澄んだ細い流れがあり、周囲を見渡しやすいうえ、何か起きてもすぐ街道側へ戻れる。一通り確かめてから、アレンはようやく背負い袋を地面へ下ろした。
「たぶん……合格」
無意識に出た言葉に、自分で苦笑する。誰から合格をもらうつもりなのかは、考えるまでもなかった。
枯れ枝を集め、石で火の周囲を囲う。掌から火を出せば一瞬で済むが、アレンは背負い袋から火打石を取り出し、火口へ移した火花を細い枝へ丁寧に育てていった。使えるからといって、何にでも魔法を使えばいいわけではない。それもエララから繰り返し教えられてきたことだった。やがて小さな炎が安定すると、アレンは村でもらったパンと燻製肉を取り出した。見送りの際に次々と押し込まれたせいで、自分で用意した分より明らかに多い。
「……多いって言ったのに」
文句を言いながら口へ運ぶと、よく知っている味がした。静かに食べているうちに、朝の光景が自然と頭へ浮かんでくる。ボルドの大声。村人たちの笑い声。泣いていないと言い張ったエララの顔。そして最後に聞いた「待ってる」という言葉。
アレンは胸元へ手を伸ばした。革紐の先には、朝エララから受け取った金属製の羽根がある。父がエララへ託し、自分が旅立つ日に渡されることになっていたものだ。
「どこにいるんだろうな」
父の居場所も、生きているのかどうかも分からない。それでも、これまで僅かな話の中にしか存在しなかった父が実際に手へ触れていたものを、今は自分が持っている。アレンは羽根を一度握り、再び胸元へ戻した。七聖獣を探すことも、まだ見たことのない世界を歩くことも、父について知ることも、これから続く同じ道のどこかで繋がっているような気がした。
◇
食事を終える頃には、太陽は地平線の向こうへ沈みかけていた。空から赤みが少しずつ失われ、やがて深い紺色が辺りを包んでいく。アレンは焚き火へ薪を足し、岩へ背を預けて空を見上げた。
村の外で迎える、初めての夜だった。
頭上に広がっているのは、ラークホロウから何度も見上げてきたものと同じ星空だ。場所が変わっても空そのものは続いている。当たり前のことなのに、自分が本当に村を離れた今になって見ると、どこか不思議に感じられた。
やがてアレンは、昔からの癖のように創造主の冠を探した。七聖獣を表すと教えられた七つの星を、一つずつ目で辿っていく。
最後の星まで確認したところで、視線がそのあいだへ移った。周囲には無数の星が輝いているのに、そこだけが妙に暗い。幼い頃から何度も気になっていた空白だった。どうしてそこには星が少ないのかとエララへ尋ねたこともある。森辺の古い祠の奥で、七聖獣の彫刻とは別に削り潰された場所を見つけたときにも、この暗闇を思い出した。
結局、そのどちらについても答えを得られないまま、今日まで来た。
「……まだ分からないか」
小さく呟いて視線を下ろした、その瞬間だった。胸元で何かが淡く光った。
アレンは眉を寄せ、身体を起こした。焚き火の反射かと思ったが、炎は身体の脇にあり、光は別の方向から金属へ落ちたように見えた。革紐を外し、父がエララへ託した羽根を掌へ乗せる。
朝にも見た品だった。鈍い金色と銀色の金属が重ねられ、根元には鉤爪と翼を組み合わせたグリフィンの意匠がある。背面には、長く使われてきたことを示す細かな擦れが残っていた。
「何だ……?」
焚き火へ近づけても変化はない。角度を変えながら確かめているうちに、雲の隙間から月が姿を現した。
月光が掌へ落ちた瞬間、羽根の表面に細い光が走った。
アレンの手が止まる。今度は見間違いではない。
金属の表面へ浮かび上がった光はゆっくりと繋がり、中央に一つの円を形作っていく。その周囲には、さらに小さな印が次々と現れた。炎をまとった鳥。翼と獣の身体を持つもの。複数の尾を思わせる狐。長くうねる水の獣。巨大な岩塊を思わせるもの。角を備えた麒麟。そして大きな枝角を持つ獣。
形は簡略化されていても、アレンにはすぐ分かった。
「七聖獣……」
幼い頃から物語を聞き、自分で木像まで作った存在を見間違えるはずがない。
なぜ父の持っていた羽根に、七聖獣を示す印が刻まれているのか。
その疑問が浮かんだ直後、アレンは別の違和感に気づいた。図柄そのものではない。配置がおかしい。
七つの印は円に沿って並んでいる。ところが、大きな枝角を持つ獣と炎をまとった鳥のあいだだけ、不自然なほど広く空いていた。
アレンは羽根を目の高さまで持ち上げ、月光の中で目を凝らした。空白の部分には細かな傷が集中している。長く使われたことで自然に生じた擦れとは違う。何度も鋭いものを当て、そこにあった形だけを意図的に削り落としたような痕跡だった。
脳裏へ、森辺の古い祠が蘇る。
円形の部屋に並んでいた七つの壁龕。そして、その隣にあった削り潰された場所。
「……同じだ」
古い祠だけなら、後から別の何かが祀られたのだと考えることもできた。だが父の羽根にも同じ空白がある。七聖獣が並ぶ場所に、明らかにもう一つ分の位置が用意され、その痕跡だけが消されている。
円は、七つだけを収める形ではなかった。
八つ目の場所がある。
アレンは息を止めるようにして、その空白を見つめた。何が描かれていたのかは分からない。どれほど目を凝らしても、削り取られた形を復元できるほどの痕跡は残っていなかった。ただ、そこに何かがあったという事実だけは、疑いようがなかった。
アレンは羽根を裏返した。
すると背面にも淡い光が走り、細く複雑な線が一つの短い文章を形作った。
「……文字?」
見たことのない文字だった。ラークホロウで使われているものでも、季節の市場で目にした異国の文字でもない。当然、アレンには一文字も読むことができなかった。
それでも、なぜか目を逸らせなかった。
文字の形を追った瞬間、胸の奥でエーテルが僅かに揺れた。
「……何で?」
自分から魔力を動かした覚えはない。それなのに、風のない夜の中で焚き火の炎がふっと横へ傾き、足元の草が一度だけ揺れた。アレンは咄嗟に周囲を見回したが、人の姿はなく、魔物らしい気配も感じられない。ほどなく静けさが戻り、羽根の文字だけが月明かりの中で淡く輝き続けていた。
アレンはもう一度、そこへ目を向ける。
文字そのものは読めない。
けれど、その意味だけが不意に意識の中へ入り込んできた。
誰かの声を聞いたわけではない。頭の中で知らない文字を、自分の知る言葉へ置き換えたわけでもない。初めから知っていたものを突然思い出したかのように、その一文が何を伝えているのかだけを理解できた。
なぜ自分に分かるのかは、分からない。
アレンは羽根を握ったまま、再び夜空を見上げた。創造主の冠には、今も七つの星が輝いている。そのあいだには、幼い頃から変わらない暗闇がある。
もし世界の始まりに存在したのが、本当に七聖獣だけだったのなら、なぜ古い祠には八つ目の場所があったのか。なぜ父の羽根にも同じ空白があり、しかも、その両方から何かが意図的に消されているのか。
答えはまだない。けれど、もう偶然だとは思えなかった。
七つの物語には、何かが欠けている。
月明かりを受けた羽根の文字が、最後に一度だけ強く輝いた。
――お前は、一つ忘れている。
第一章「七つの物語」を最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
第一章が完結し、アレンの物語はいよいよ第二章へ進みます。
第一章で一番好きな場面や印象に残ったシーンがあれば、ぜひ教えてください。
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ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします。
それでは、第二章でお会いしましょう!




