第一章 第二十七話 地平線の向こうへ
ラークホロウを出る朝、アレンは夜明けより早く目を覚ました。
昨夜は意外なほどよく眠れた。それでも一度目を開けると、もう眠り直す気にはならなかった。薄暗い天井には、子供の頃から見慣れた木の梁がある。雷を怖がった夜も、初めて掌へ火を灯した夜も、案山子を燃やして自分の力に怯えた夜も、月根の森から帰ったあと、グルームモウの黒い血を思い出して眠れなかった夜も、アレンはこの天井を見上げていた。そして今日、この家を出る。
二十一歳の誕生日まで、あと僅かだった。七歳の頃には遠い未来だった「いつか」が、気づけば今日という形になっている。アレンはしばらく天井を眺めたあと、ゆっくり身体を起こした。
部屋の隅には、昨夜までに準備を終えた背負い袋が置かれている。外套、水袋、保存食、包帯と薬草、火打石、針と糸、麻縄、地図。所持金も一か所にはまとめず、いくつかに分けてしまってあった。どれも旅へ出るために必要なものとして、エララから何度も教えられてきたものだった。水はなくなる前に補給する。知らないものを安易に口へ入れない。宿では出口を確認する。怪我をしたなら無理をしない。幼い頃には小言にしか聞こえなかった言葉も、今ではその意味がよく分かる。
壁には、グルームモウに折られた狩猟弓が掛かっていた。その隣には、幼い頃に自分で作った木彫りのグリフィンがある。折れた脚を直した跡は今も残っているが、それも含めて、もう見慣れた姿になっていた。アレンは木像を手に取り、修理された脚へ親指を滑らせた。
「お前は留守番」
そう言って棚へ戻しかけ、少しだけ笑う。
「帰ってくるから」
口にした途端、胸の奥へ僅かな重みが生まれた。外の世界には、子供の頃には想像もしなかった危険がある。病気も事故も、魔物も争いもあるだろう。それでも、行きたいという気持ちは変わらなかった。知らないからこそ、自分の目で確かめたい。それだけは、昔から何も変わっていなかった。
◇
台所へ下りると、すでに竈へ火が入っていた。エララはいつもの場所に立ち、鍋をゆっくりとかき混ぜている。
「早いわね」
「お母さんも」
「私はいつもこれくらいよ」
「今日だけ僕より先に起きようと思ってたでしょ」
エララの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……座って」
「当たってる」
「座りなさい」
テーブルには焼いたパンと卵、燻製肉、それに温かな野菜のスープが並んでいた。特別な料理ではない。子供の頃から何度も食べてきた、いつもの朝食だった。アレンがパンを一口食べると、いつもの味がした。
「泣かないでよ」
向かいへ座ったエララが言った。
「泣いてない」
「顔に出てる」
「まだ何も出てない」
「あなた、自分で思ってるより分かりやすいもの」
エララが笑った。その顔は、アレンが七歳だった頃とほとんど変わっていない。十七歳の冬に問いかけたことを、アレンは今も忘れていなかった。エララが自分に何を隠しているのか。父について何を知っているのか。そして七聖獣について、どこまで知っているのか。
けれど、今日は聞かなかった。いつか話すとエララは約束した。その言葉を信じると決めた以上、旅立ちの朝まで答えを求め続けるつもりはなかった。
「最初は南東の街道?」
「うん。三日くらいでサルダに着くはず。そこから先は、まだ決めてない」
「それでいいわ。ただし、準備だけは怠らないこと」
「二十年近く聞いたよ」
「聞いたことと、できることは別でしょう?」
「最後の朝までそれ言う?」
「最後の朝だから言うの」
アレンは苦笑しながらスープを飲んだ。
「七聖獣全部に会うまで、何年かかるかな」
「さあ。簡単には会えないでしょうね」
「十年とか?」
「それくらいかかっても不思議じゃないわ」
「二十年だったら?」
エララは僅かに目を伏せたあと、静かに笑った。
「何年でもいいから、生きて帰ってきなさい」
アレンは母の顔を見つめた。
「お母さん、その頃も同じ顔してそう」
「旅立ちの日に喧嘩したい?」
「したくない」
「なら食べなさい」
アレンは笑い、残りのパンを口へ運んだ。
◇
朝食を終えると、エララはアレンを家の裏へ連れていった。そこは、アレンが初めて木剣を握り、何度も転び、火や風の扱いを学んできた場所だった。その訓練場の端に、一本の細長い包みが置かれている。
「開けて」
革紐を解くと、中から一本の剣が現れた。装飾は控えめだが、刃も柄も丁寧に仕上げられ、鍔には羽根を思わせる細い意匠が刻まれている。
「……僕の?」
「旅へ刃を潰した訓練剣を持っていくつもりだったでしょう」
「駄目?」
「魔物を殴る気?」
「場合によっては」
「やめなさい」
アレンは剣を抜き、周囲へ人がいないことを確かめてから軽く振った。刃の重さは無理なく手へ馴染み、重心も扱いやすい位置にある。
「使いやすい」
「あなたに合わせて調整したもの」
「いつから用意してたの?」
「あなたが旅に出ると言う前から」
「ずるい」
「母親だから」
アレンは剣を鞘へ戻した。
「ありがとう」
エララは小さく頷き、今度は古い木箱を差し出した。
「もう一つあるわ」
蓋を開けると、中には指ほどの長さの金属製の羽根が入っていた。鈍い金色と銀色が重なり、根元には鉤爪と翼を組み合わせたような意匠が刻まれている。裏側には細かな擦れや傷が残り、新しく作られたものではないことが分かった。
「……グリフィン?」
「そう見えるでしょうね」
「誰の?」
エララは僅かに間を置いた。
「あなたのお父さんから預かったものよ」
アレンは羽根から顔を上げた。
「お父さんの?」
「ええ。あなたが旅に出る日に渡す約束だったの」
「僕が生まれる前から?」
エララが頷く。父について聞かされてきたことは少ない。遠くへ行ったこと。頑固だったこと。空を見るのが好きだったこと。それ以外の姿を、アレンはほとんど知らなかった。
「生きてる?」
「……分からない」
「どこにいるかも?」
「分からないわ」
エララの表情を見れば、それ以上尋ねても答えは変わらないと分かった。アレンは掌の羽根へ視線を戻す。
「お父さんも、グリフィンが好きだった?」
エララは一瞬だけ目を閉じた。
「……そうね」
「僕と似てた?」
「頑固なところは、とても」
「それ前も聞いた」
「遠くを見るところも」
「いいところは?」
エララが微笑んだ。
「困っているものを放っておけないところ。ただし、自分のことまで後回しにするところは真似しなくていいわ」
「結局、半分怒られてる」
「大事なことだから」
アレンは羽根へ革紐を通し、首に掛けた。金属の冷たさが胸元へ触れ、やがて体温に馴染んでいく。
「いつか会えるかな」
「……会えるといいわね」
その返事に続く言葉はなかったが、アレンもそれ以上は聞かなかった。
◇
村の入口へ着くと、大勢の人が待っていた。
「何でこんなにいるの?」
「昨日、ボルドに話したでしょう?」
「あ」
「遅ぇぞ、アレン!」
一番前にいたボルドが手を上げる。
「まだ予定より早い!」
「俺はもっと早かった!」
「何で張り合ってるんだよ」
周囲から笑い声が上がった。幼い頃から知る友人、剣の稽古相手、畑仕事を教えてくれた老人、季節の市場で何度も顔を合わせた人々が、次々と声を掛けてくる。保存食まで押し込まれ、背負い袋は出発前より少し重くなった。
「これ以上入らないって」
「旅人は食えるときに食え」
「お母さんと同じこと言う」
「常識だからな」
ボルドは笑ったが、やがて表情を引き締めた。
「死ぬなよ」
アレンも笑うのをやめる。
「……うん」
「強くなったからって、死ななくなるわけじゃねぇ」
「分かってる」
「ならいい」
ボルドはアレンの肩を一度だけ強く叩いた。それ以上の言葉はなくても、アレンには十分だった。
やがて人々が道を空ける。何度も歩いた村の出口なのに、今日だけはその先が別の世界へ続いているように見えた。アレンは一歩進み、振り返ると、見送りに集まった人々の中にエララの姿を見つけた。
「お母さん」
「何?」
言いたいことはいくらでもあった。ありがとうも、必ず帰るという約束も、いつか隠していることをすべて聞くという言葉もあった。けれど、口から出たのは一つだけだった。
「……行ってくる」
エララの表情が僅かに崩れる。
「ええ」
彼女は歩み寄り、アレンを抱きしめた。昔はアレンが母を見上げていたのに、今ではエララの額がアレンの肩口へ触れている。アレンも母の背へ腕を回した。
「無茶しないで」
「努力する」
「約束して」
「……死ぬような無茶はしない」
「それでも怪しいわね」
「お母さんも無茶しないで」
「私は何をするのよ」
「分からないものは危険なんでしょ?」
エララは一瞬黙り、それから困ったように笑った。
「本当に都合よく覚えるわね」
「教え方が良かったから」
「そういうことにしておくわ」
二人はゆっくり身体を離した。エララの目には涙が滲んでいた。
「泣く?」
「泣かない」
「顔」
「あなたに言われたくない」
アレンも笑った。自分の目の奥も熱くなっている。
「帰ってくる」
エララは静かに頷いた。
「……待ってる」
アレンは前を向き、歩き始めた。背後から聞こえる声が少しずつ遠ざかっていく。丘の途中で一度だけ振り返ると、ラークホロウの家々と集まった人々、その一番前で手を振るエララが見えた。アレンも大きく手を振り返し、その姿を目へ焼きつけるようにしてから、再び街道を歩き始めた。
丘を越えたところで、アレンはもう一度だけ足を止めた。振り返っても、ラークホロウの屋根はもう見えない。胸元には父から託された羽根があり、腰にはエララから渡された剣がある。七歳の頃、世界は母から聞かされる物語の中にしかなかったが、今はその世界へ続く道の上に、自分自身が立っている。
アレンは背負い袋の位置を直し、地平線へ続く街道へ向き直った。
そして一人で、その先へ歩き始めた。
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