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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第四章 灰の大地と二つの翼
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第四章 第五十五話 守りたい理由

鈴葉が街道の曲がり角を越えると、荷車の軋む音はすぐに遠ざかった。道には薄い灰が積もり、踏み出すたび靴底の跡が残る。東の山腹では雲の下に赤い光が浮かび、ときおり消えた。そのたび、村に残したアレンやテオの顔が思い浮かんだが、鈴葉は歩みを速めすぎないよう気をつけた。バルドと約束したのは低い尾根までの偵察であり、山へ入ることでも、誰かを追うことでもなかった。


 道は乾いた草の間を緩やかに上り、途中から石の多い斜面になった。北側には古い道の崩れた跡が見え、反対側には浅い谷が西へ延びている。鈴葉は足元の灰を手ですくい、風の向きを確かめた。粒の細かいものが指の間から西へ流れ、少し遅れて草の穂が同じ方向へ倒れる。上空の雲はほとんど動いていないように見えたが、地面に近い風は確かに村の方角へ吹いていた。


「……ここなら、山がよく見える」


 低い尾根の上へ出ると、火口はまだ遠かったが、商隊からは家並みに隠れていた山の南側まで見渡せた。黒い岩棚の間に、幾筋もの赤い光が走っている。炎なのか、熱を帯びた岩の裂け目なのかは、この距離では分からない。光の上に灰が吹き上がり、風に押されて斜面の西側へ流れていた。鈴葉は尾根の端から先へ踏み出さず、目印になる石の形と、灰が流れる方向を覚えた。


 そのとき、大きな翼が雲の下を横切った。グリフィンだった。山腹の尾根に沿って飛び、斜面の一点を見下ろしてから旋回している。翼を広げるたび、片側の先端が乱れて見えたが、羽根の傷なのか、風にあおられているだけなのかは判断できない。鈴葉は思わず一歩前へ出かけ、足元に続く下り坂を見て踏みとどまった。そこから先は、バルドが許した範囲ではない。


 グリフィンは以前出会ったときも、気軽に助けを求めるような相手ではなかった。だからといって、危険が及ばない存在とは限らない。斜面に赤い光が走るたび、彼はそれを避けて高度を変えていた。鈴葉に見えたのはそこまでで、山へ向かった五人の旅人が今どこにいるのかも、グリフィンが何をしているのかも確かめられなかった。


「戻って、伝えないと……」


 口にした言葉と裏腹に、鈴葉の足はすぐには動かなかった。グリフィンの動きをもう少し見続ければ、何かが分かるかもしれない。しかし、同じ時間だけ荷車への報告は遅れる。西へ流れる灰は、もう尾根の下にある浅い谷へ入り込んでいた。さらに強い風が吹けば、村の入口にいる馬たちにも届くだろう。


 アレンならどうするかと考え、鈴葉はすぐにその考えを打ち消した。彼の代わりに正しい答えを選ぶため、ここへ来たのではない。アレンはテオと若者のそばに残ると決めた。鈴葉もまた、自分の選択を尊重してほしいと願って、一人で確かめに行くと申し出たのだ。ならば、見えたことを持ち帰るという約束も、彼女自身のものだった。


 ふいに、荷車の陰でテオが袖をつかんだときの小さな手の感触がよみがえった。母親がどこにいるのか答えられず、少年の前で言葉を探したことも覚えている。アレンは、見つからない村人やテオの母親を気に掛けながらも、今できることを選び続けていた。人を追い詰めて答えを聞き出すより、怯えている相手が話せるまで待つ。その優しさが危うく見えることはあっても、彼のそばで見てきたものを鈴葉は軽んじたくなかった。


 守りたいのは、アレンだけではない。テオが眠れる夜も、逃げ戻った若者が自分で行き先を決められることも、荷車を動かす御者たちが無事に明日を迎えることも、ひとつずつ大切だった。その中には、今も火の近くを飛ぶグリフィンがいた。神獣だから守られる必要などないと決めつけるのも、姿を見ただけで何もかも知っていると思い込むのも、同じように間違っている。


 鈴葉は尾根の上で深く息を吸い、山の様子をもう一度確かめた。赤い光が現れる場所は山腹の南寄りに偏っている。灰は谷の筋に沿って西へ流れ、細かな粒が尾根の石にも降り始めていた。今のところ街道を塞ぐほどではないが、この変化だけでも報告する意味はある。グリフィンがその後どこへ向かったか分からないことも、正直に伝えればいい。


 帰り道では、上るときに見た石の並びを目印にした。灰の薄い場所を選び、足を滑らせやすい斜面を避けて下った。曲がり角の手前で風が強まり、鈴葉は外套の襟を引き寄せた。山から飛んできた灰の粒が頬に当たり、乾いた苦みが口の中に残った。振り返っても、巨大な翼は雲の陰に見えなかった。


◇


 商隊のところへ戻ると、ガレスが槍を手に街道の脇で待ち受けていた。ニアは村の入口を見張りながら時折空を確かめ、ローデンとミックは後方の荷車の左右を守っていた。アレンは中央に残り、鈴葉の姿を見つけると、持ち場を離れないまま大きく息を吐いた。馬は落ち着かない様子だったが、六台の荷車に異常は見当たらなかった。


「尾根から先へは行っていないわ。南側の斜面で赤い光が何度も出ていた。灰も西の谷へ流れ始めている」


 鈴葉が伝えると、ガレスはすぐにバルドを呼んだ。鈴葉は目にした範囲を順に説明し、炎と断言できない光についてはそのまま曖昧さを残した。グリフィンが山腹を旋回していたことも告げたが、翼の先に傷があるかどうかまでは確かめられていないと付け加えた。


「灰はここまで来ると思うか?」


「風向きが変わらなければ、届くかもしれません。ただ、どのくらい降るかは分かりません」


 バルドはうなずき、御者たちに積み荷の覆いを確かめさせた。馬の水桶は荷車の内側へ寄せ、風上側の布を結び直す。西へ進める道が確かめられるまでは出発しないという方針も変えなかったが、灰が濃くなるなら荷を守りながら移動できるよう準備を進めた。ガレスは見張りを維持し、鈴葉の報告を手帳の新しい頁へ書き留めた。報告が終わると、アレンが中央の荷車のそばから声を掛けた。


「お帰り。危ないところはなかった?」


「尾根の道は歩けたわ。でも、その先は行かなかった。約束したから」


 アレンは安堵したようにうなずいた。鈴葉はその顔を見て、伝えるべきことがほかにもあると感じた。山の様子だけなら、もうバルドにも話している。それでも、自分が何を見て迷ったのかは、アレンに聞いてほしかった。


「グリフィンが飛んでいたの。何をしているかは分からなかったけれど、無事かどうか気になった。あと少し先へ行けば、何か見えるかもしれないと思って……でも、戻ってきた」


「戻ってきてくれてよかった。グリフィンも心配だけど、鈴葉が危ない目に遭っていいわけじゃない」


 鈴葉はすぐには答えず、荷車の陰にいるテオへ視線を向けた。少年は御者のそばで水を飲み、少し落ち着いた様子だった。アレンもその姿を見ていた。鈴葉は、誰かを守りたいからこそ、自分の身を粗末にしてはいけないのだと感じた。


「私も、帰ってくる場所を大切にしたいの。あなたがここを守ってくれるなら、なおさら」


 アレンは一瞬驚いたように目を見開いたが、鈴葉が言葉の続きを求めているわけではないと気づくと、小さく笑った。彼女もそれ以上は説明しなかった。気持ちを言い表すには、まだ言葉が足りない。それでも、ここへ戻りたいと思った理由は自分の中ではっきりしていた。


 そのとき東の空で雲が割れ、遠くに大きな翼の影が再び現れた。先ほどより低い位置で、山腹の尾根に沿って旋回していた。鈴葉はアレンと並んでそれを見上げた。グリフィンが何を追っているのかも、なぜ火の近くを飛び続けるのかも分からなかった。ただ、守りたいものがあるからこそ空へ向かうことも、帰る場所を残して地上にとどまることもあるのだと、鈴葉は思った。彼女は勝手に追いかけるためではなく、次に何をすべきか見失わないために、その翼から目を離さなかった。

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