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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第四章 灰の大地と二つの翼
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第四章 第五十四話 鈴葉の選択

午後の光が傾き始めても、村の外に停めた六台の荷車は動かなかった。東の火山では、雲の切れ目に赤い光が現れては消えていた。遠くから伝わった低い音に馬が鼻を鳴らし、御者たちは車輪の留め具を確かめながら、何度も山の方角を見上げていた。バルドは西へ続く街道をまだ安全と判断できず、日が暮れる前にむやみに移動するつもりはなかった。


 アレンは中央の荷車へ戻り、テオのそばの器に新しい水を注いだ。少年は目を覚ましていたが、口数は少なかった。鈴葉が毛布を整えると、テオはその袖をそっとつかみ、何かを言おうとしてためらった。少し離れた街道脇には、灰色の腕布を巻いた若者が座っていた。彼も山の音を聞いていたらしく、胸の前で膝を抱えたまま顔を上げようとしなかった。遺体は変わらず荷から離れた場所に安置され、男の左手の下に残っていた灰の印が何を意味するのかも、まだ分からない。印から採取した灰の小瓶は、ニアが預かったままだった。


「山の音、またしたね」


 テオの声に、鈴葉は少年の前へ腰を下ろした。村の家に隠れていた日のことを思い出しているのかもしれないが、尋ねる前から気持ちを決めつけるわけにはいかない。鈴葉は目線を合わせ、声を落として答えた。


「聞こえたわ。ここでは揺れていないけれど、怖かったら言ってね。御者さんも近くにいるから」


「……お母さんも、あの音を聞いてるかな」


 鈴葉は答えを急がなかった。母親が今どこにいるのか、誰にも分からない。きっと無事だと約束することも、そうでないと決めつけることもできなかった。彼女がテオの手を包むと、少年は小さくうなずき、袖から指を離した。


 村の入口を見張っていたニアが声を掛け、アレンは荷車の外へ出た。先ほどまで山腹の上を横切っていた大きな翼の影は、今では雲に隠れていた。姿を見失ってから何が起きたのか、商隊からは確かめようがなかった。ガレスは槍を手に東側を守り、ローデンとミックは後方から荷車の左右へ目を配っていた。


「風向きが変わった。灰がこちらへ来るかもしれない」


 ニアが指した空では、山から流れた薄い灰色の筋が西へ伸び始めていた。まだ商隊の頭上まで届いていないが、風に乗って広がれば馬の目も、荷車の積み荷も守りにくくなる。バルドは空を見上げ、御者たちへ荷を覆う布を準備させた。急に走り出せば車輪を傷め、動かずにいれば灰を浴びるかもしれない。安全な西の道が確かめられていないことが、ここへ来て重くのしかかっていた。


 鈴葉はテオを御者に任せて外へ出た。赤い光が現れた山腹を見てから、アレンの隣に並ぶ。その表情には、遠くの出来事を見ているだけでは済ませたくないという迷いがあった。アレンが声を掛けるより先に、鈴葉は小さく息を吐いた。


「グリフィンがあそこにいたのは、見間違いじゃないと思う」


「うん。でも、山へ入った五人が何をしたのかも、グリフィンがあそこで何をしているのかも分からない」


「分かっているわ。だからこそ、確かめられるところまで行きたいの」


 アレンは思わず彼女を見た。鈴葉は視線をそらさず、東の山へ続く街道を見つめていた。そこには午前中、地図を持った女たちが進んでいった道がある。しかし、その者たちとグリフィンの行動を結びつける証拠はまだない。追跡ではなく状況を確かめるためだとしても、商隊から一人離れる決断は軽いものではなかった。


「バルドは護衛を山へ出さないと言っていた。僕だって、テオもあの若者も残して行けない」


「アレンに一緒に来てほしいとは言わないわ。あなたがここに残れば、みんなは心強いでしょう」


 鈴葉の返事に、アレンは言葉を失った。彼女はアレンと旅を続けることを自分の意思で選んだ。その鈴葉が今、危険を承知で一人で出ようとしている。置いていくためではなく、離れているあいだに起きることも引き受けたうえでの言葉だと分かり、簡単に止めることができなかった。


「危ない道だよ。グリフィンだって、あんな場所を飛んでいたんだ」


「ええ。だから、何も知らずに火口まで入るつもりはない。あの低い尾根なら、山の斜面が見えるでしょう。そこから火の広がりと、グリフィンがまだ飛んでいるかを確かめたい」


 鈴葉が指したのは、村から東へ延びる道の先にある低い尾根だった。火口よりずっと手前で、道そのものが崩れていなければ荷車の位置へ引き返せる。とはいえ、尾根の向こうで何が起きているかは分からない。アレンは地形を思い浮かべたあと、彼女とともにバルドのもとへ向かった。


 事情を聞いたバルドはすぐには認めなかった。護衛を減らす危険を考え、何を確かめるのか、どこまで進んだら引き返すのかを一つずつ尋ねた。鈴葉は尾根から先へ進まないこと、道の状況が悪ければ途中で戻ること、山で誰かを見つけても追いかけず、まず報告することを一つずつ告げた。


「山の中の事情を調べに行かせるつもりはない。だが、西へ灰が流れるなら、どこまで来ているか知る必要はある」


 バルドは荷車の間に立つ御者たちを見渡した。東側にはガレスとニア、中央にはアレン、後方にはローデンとミックが残る。鈴葉が離れても五人の護衛は持ち場を保てるが、不測の事態に余裕があるとは言えない。


「見通しの利く尾根までだ。追跡も、火口へ向かうことも許さん。日が落ちる前に戻れ。道が危ないと思ったら、その場で引き返すんだ」


「分かりました。必ず、見たことだけを伝えます」


 鈴葉は深く頭を下げた。バルドは彼女の返事を聞いても表情を緩めず、ガレスに東の見張りを厚くするよう指示した。鈴葉が単独で街道を進むあいだ、アレンは中央から離れず、ニアは村の入口と東の曲がり角の両方を確かめる。もし灰が急に降り始めれば、鈴葉の帰還を待たず荷を覆い、出発の準備を進めることも決めた。


 鈴葉は荷車へ戻ってテオに声を掛けた。少年は不安そうに彼女の顔を見上げたが、離れる理由を尋ねることはなかった。鈴葉はすぐ近くの御者へ水の器を預け、テオの毛布が風でめくれないよう端を整えた。


「少しだけ、外の様子を見てくるわ。アレンも、みんなもここにいるからね」


「……帰ってくる?」


「戻るつもりよ。そのためにも、危ないと思ったら引き返すわ」


 鈴葉は無事を軽々しく約束せず、それでも少年の目から逃げなかった。テオはしばらく黙っていたが、最後に小さくうなずいた。鈴葉が荷車の脇へ出ると、待っていたアレンの前で腰の荷を確かめ、東の道へ足を向けた。


「僕も行きたい気持ちはある。でも、ここを守る」


「うん。それでいいの。私が決めたことだから」


 アレンは短くうなずき、遠くの斜面に目を向けた。鈴葉を止めたい気持ちがなくなったわけではない。しかし、彼女が自分で選んだ行動を、心配だけで取り消させることも違うと思った。鈴葉はもう一度荷車の並びを見渡してから、灰の積もった街道を歩き始めた。道の曲がり角へ着くまで振り返らず、そこで一度だけ手を上げた。


 アレンはその姿が見えなくなるまで見送った。ガレスが槍を手に街道側へ立ち、ニアは遠い空の灰の筋を見張っている。山腹にはまだ時折赤い光がにじんだが、何が燃えているのかは見えない。鈴葉も同じ不確かさの中へ向かったのだ。グリフィンのために動くのか、商隊に近づく危険を確かめるためなのか。そのどちらか一つを選ぶ必要はなかった。ただ、行くと決めた彼女が帰る場所を守ることだけは、今のアレンにもできた。

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