第四章 第四十九話 黒と銀
村の家並みが闇に沈んでも、商隊の周囲から緊張は消えなかった。昼間に火山の方角へ向かった旅人たち、その道から逃げ戻った若者、そして夕暮れに村の入口で見た正体不明の影。確かなことは少ないまま、気に掛けなければならないものだけが増えていた。バルドは六台の荷車の間に小さな灯火を残し、御者たちには交代で休むよう命じた。遺体を安置した場所にも目が届くようにしながら、護衛の持ち場は崩さなかった。
ガレスは槍を手に東の街道を見張り、ニアは村の入口から屋根の並びを確かめていた。ローデンとミックは後方の荷車を挟んで左右に立つ。アレンは中央の荷車で眠るテオを見てから、鈴葉とともに見張りの様子を確かめに出た。少年のそばには御者が残っている。街道脇の若者も、バルドから指定された場所を離れずにいた。
「さっきの影、まだ気になる?」
鈴葉に尋ねられ、アレンは村の屋根を見上げた。夕暮れにニアと見たものは、人だったのか、風で揺れた布だったのかさえ分からない。もし村に誰かが潜んでいるのなら、テオの母親を捜す手掛かりになるかもしれなかった。それでも、確証のないまま家々へ入ることは、護衛を引き受けた自分たちの役目に反する。
「気にはなる。でも、追いかけていい理由にはならないよ」
「ええ。見えなかったものまで、見たことにしたくないものね」
鈴葉が答えた直後、村の西側で乾いた音が鳴った。何かが木片を踏んだような短い響きだった。荷車の内側へ寄せられた馬の一頭が耳を動かし、鼻を鳴らした。御者は手綱を確かめたが、馬はその場を離れず、再び静かになった。ニアが顔を上げ、アレンもその方角へ目を凝らした。月が雲の切れ目から現れ、屋根の壊れた家の向こうにある低い石塀を照らす。塀の上には、夜の色よりも濃い影が静かに立っていた。
最初に見えたのは細い耳と長い口先だった。次いで黒い毛並みの胴と、背後でゆっくり開く尾が輪郭を現した。一本ずつ重ならないよう広がった尾は、数えると九本あった。風に流されて形を変える煙ではない。黒い狐が、石塀の上から村の外を見下ろしていた。石塀の背後には、西向きの窓を内側から塞がれた家が並んでいる。板が打たれた理由と狐の出現を結びつけるものは何もないのに、アレンは二つの光景を続けて思い浮かべずにはいられなかった。
「……狐だ」
アレンが声を落とすと、鈴葉も足を止めた。以前、西の尾根で目にした黒い九尾の狐と姿はよく似ていたが、距離も時間も隔たっている。同じ個体だと確かめる手段はない。村の西で見つけた大きな足跡や、九本の尾を引きずったような痕跡についても、この狐が残したものと決まったわけではなかった。
ニアは弓を持ち直したものの、矢をつがえずにいた。黒い狐は荷車へ向かって飛び降りることも、人を威嚇することもせず、ただ石塀に立っている。ガレスが東の持ち場を離れずに状況を尋ねると、アレンは声を抑えて見えたことだけを伝えた。バルドも御者たちに荷車の外へ出ないよう告げ、誰にも追わせなかった。
鈴葉はアレンの半歩前へ出た。月明かりが鈴葉の銀色の髪を照らし、遠くの石塀に立つ黒い獣との色の違いを際立たせた。鈴葉は人の姿のまま石塀を見つめ、狐のほうもその場から動かなかった。二つの影の間には、村の家並みと、誰も踏み込もうとしない暗い道が横たわっている。アレンは、隣にいる彼女が銀の九尾を持つキツネであることを思った。同じ九本の尾を備えていても、目の前の黒い狐が何者なのかは分からない。尾の数だけを理由に、鈴葉と同じ存在だと断じることもできなかった。
「鈴葉、何か分かる?」
「いいえ。近づいて話したこともないし、あの狐が何を考えているかも知らないわ。ただ……」
鈴葉はそこで言葉を切り、狐の顔が向いている先を目で追った。石塀は村の西側にあったが、狐の視線は商隊の荷車を通り越し、東へ延びる街道へ向いているように見えた。アレンにもそう見えたものの、暗がりで目の動きまで確かめられる距離ではない。
「こっちを襲おうとしているようには見えない。でも、それだけよ」
街道脇で休んでいた若者が、護衛たちの様子に気づいて立ち上がりかけた。バルドが座ったままでいるよう命じると、若者は膝を抱え、石塀のほうを見た。尾の広がる影が目に入ったらしく、息をのみ、体を小さく縮めた。
「あれも……山から来たんですか。俺を追って……」
「分からない。お前を追ってきたところは誰も見ていない」
ガレスが答えた。若者はなおも震えていたが、そこから荷車へ駆け込もうとはしなかった。鈴葉は一度だけ振り返り、若者に静かに告げた。
「今見えているのは、あの狐だけよ」
若者は何か言いかけてやめた。彼が何をそこまで恐れているのかは、アレンにも分からなかった。アレンは、恐怖の中にいる者には偶然目にしたものまで追手に見えるのかもしれないと思った。しかし、その考えも本人の不安を軽くする言葉にはならず、ただ見張りを続けるほかなかった。
黒い狐は不意に頭を上げた。耳を東へ向け、長い尾をゆっくり寄せた。続いて石塀の内側へ身を沈めたため、アレンには暗い背中が一瞬見えただけだった。足音も鳴き声も聞こえない。ニアが塀の先を見据えたが、狐は再び現れなかった。姿を消したあとで誰かが近づく気配もなく、風が屋根の隙間を抜けていった。
「追わなくていいの?」
アレンの問いに、鈴葉はすぐ答えず、狐の消えた石塀を見つめていた。やがて首を横に振った。
「少なくとも今は。テオも、あの人もここにいるし、私たちが何のために追うのか決められていないでしょう」
鈴葉の声は落ち着いていた。それでも、九本の黒い尾を見上げていたとき、彼女の指先がわずかに強張ったのをアレンは見ていた。見知らぬ相手に警戒するのは、アレン自身も同じだった。石塀から目を離し、ゆっくり息を吐いた。
「そうだね。気になることが増えたからって、ここを離れるわけにはいかない」
「それに、あなた一人で確かめに行ったら、私も困るもの」
鈴葉がそう付け加えると、アレンは少しだけ表情を緩めた。何かを知りたくなるたびに、目の前の人たちを置いて進むわけにはいかない。彼女の言葉を軽い冗談として受け流さず、アレンはきちんとうなずいた。鈴葉も小さくうなずくと、銀の髪が肩の上で揺れた。アレンは彼女の隣に立ったまま、黒い狐の姿が消えた西側の家並みと、信徒たちが向かった東の道を交互に見た。二つの方角が同じ出来事で結ばれているという証拠は、どこにもなかった。
しばらくしてガレスは、今夜見た狐の位置と姿を手帳へ記した。ニアも九本の尾を数えたと証言したが、夕暮れに動いた影と同じものだったかは分からない。黒い狐が村から人を消したとも、東へ向かった者たちに関わっているとも書かなかった。確かな記録を残すことだけが、次に何かが起きたときの助けになる。
中央の荷車へ戻ると、テオは毛布の中で眠っていた。鈴葉は少年のそばへ腰を下ろし、アレンも少し離れて夜の音に耳を澄ませた。黒い九本の尾と、月光を受けた銀色の髪。二つの姿は短いあいだ同じ月明かりの下にあったが、言葉も争いも交わさなかった。あの狐が何を見ていたのか、鈴葉にもアレンにも分からない。ただ、狐が消える直前に向けた耳の先には、火山へ続く街道が伸びていた。
読んでくださり、ありがとうございます!
楽しんでいただけましたら、ブックマークと評価をいただけると嬉しいです。




